第6話 聴取:志賀野文彦
秋島が二〇三号室の扉をノックすると、志賀野は五分ほどで出てきた。その姿は寝間着からアイビーシャツにチノパンという恰好に着替えられている。
秋島は志賀野と小五郎に一度ずつ頭を下げると、階段を下りていった。
小五郎は志賀野を立って出迎えると、丁重にデスクチェアを勧めた。
「どうぞ座ってください。こんな薄暗い廊下で申し訳ありませんが」
「ふん」
「しかしこの廊下は、どうしてこうも暗いんですかね」
「絵画の劣化を防ぐためだろう」
志賀野は椅子に腰を落としながら言った。
「壁にいくつか絵画が飾ってあるだろう? あれらを光で傷付けないために照明を絞っているんだ。美術館が暗いのと同じ理由だな。まあ見たところ、飾ってあるのは油絵ばかりだから、そこまで気を遣う必要もないとは思うが」
「さすが、詳しいですね」
「詳しくはない。このくらいは教養の範疇だ」
しかし志賀野は、どこか鼻が高そうだった。
「それにしても、ここはいいペンションだな。こんなことがなければまた来たいと思える良さだ――ほら、あれを見てみろ」
志賀野が顎をしゃくって廊下の端を示す。
そこには古びた黒い塊が置いてあった。目を凝らしてよく見てみると、それがタイプライターと呼ばれるものだとわかった。
「タイプライターですか? たしかに雰囲気がありますね」
「それもそうだが、私が言っているのはその下だ。タイプライターが乗っているあのコンソールテーブル。あれは値打ち物だろうな」
志賀野は顎を撫でながら言う。
たしかに、廊下の端の壁に沿うように設置されたそのコンソールテーブルは、テーブルというよりはテレビ台のように重厚で、おまけに美しい木目をしていたが、残念なことに、値打ち物と呼ばれるほどの良さは小五郎にはわからなかった。強いて言うなら、「重そうだな」とは思った。それくらいだ。
小五郎はカーディガンの襟を寄せると、志賀野に向き直った。
「さて、志賀野さん。いくつか質問させていただいてもよろしいでしょうか」
矮躯の医者はむっつりと頷く。
「まず、お医者様としての見解をお聞かせください。御法川さんの死因は窒息で間違いありませんか?」
「おそらくは」
「おそらく?」
「死因というものは、解剖してみないことには正確なことは決して言えんのだ」
「そういうものですか……」
小五郎は小指で前髪を触る。
「では、死亡推定時刻は?」
探偵がそう訊くと、医者は乾いた唇に優しく指を当て、思い出すようにしながら口を開いた。
「たしか……下顎が僅かに硬直していて、それ以外の硬直は見られなかった。死後一時間前後だろうな」
「とすると、遺体の発見は十二時半頃でしたから……」
「死亡推定時刻は、十一時から十二時の間といったところだな」
そんなに広く幅を取られては困る――小五郎は内心で舌を打った。
そもそもそれでは推理の要素として新しいものとは言えない。秋島の証言から、御法川が十一時から十二時の間に死亡したことは、既に確定しているのだ。
しかしその程度の失望では、小五郎は名探偵のペルソナを脱がない。
悠然とした笑みのまま、言葉を続ける。
「ところで、志賀野さんはその時間、何処で何を?」
「……アリバイ調査か」
志賀野はわざとらしく鼻を鳴らした。
「その時間なら部屋で休んでいた。証人はもちろんいない」
「まあ、そうですよね」
思わず溜息が漏れる。
容疑者は小五郎を含めて五人。そのうち一人か二人にでもアリバイがあれば話が早かったのだけど、そうは問屋が卸さないらしい。もちろん、小五郎も自身のアリバイを証明する手立てはない。
「もう一つお聞きしたいのですけど、よろしいですか?」
「なんだ?」
「被害者は窒息死なのですよね?」
「おそらくは、だ」
「もしも窒息死なら、濡れたタオルかなにかを顔に押し当てられて窒息させられたのだ、と仰ってましたよね?」
「それも確かなことは言えん。顔が僅かに湿っていたからそう判断しただけだ」
「それ以外の可能性は? たとえば、首を絞められたとか」
「被害者の頸部にそういう痕跡はなかった。人間の首を窒息させるほど強く締めて、なんの痕も残らないということは考えられない」
「胸は? 胸を圧迫することでも窒息させられますよね?」
「心臓マッサージを施すときに胸部も見たが、やはりそれらしい痕跡はなかった」
下手の鉄砲も数を撃てば当たるかと思って色々言ってみたが、素人探偵が考えるようなことはとっくに医者が確認済みだったようだ。
「ではタオルで口と鼻を塞いで窒息させたとしましょう。その場合、犯人は殺害にどれほどの時間をかけたと考えられますか?」
「つまり、人間が窒息で死に至るのにかかる時間を訊いているのか?」
「はい」
「五分から十分……長くても十五分だな」
「……なるほど」
小五郎は鷹揚に頷いた。
実際はなにもわかってなどいなかったのだが、書に倣う名探偵の演技として、そういう所作を取ったのだ。
小五郎は微笑を浮かべて「質問は以上です」と口にした。
「お時間を取っていただきありがとうございました。もう部屋に戻っていただいて結構です。ゆっくり朝までお休みください――あ、部屋の鍵をかけることもお忘れなく」
「ふん。言われるまでもない」
志賀野は憤然と立ち上がる。
彼に二〇一号室の神崎を呼んでくるように頼んで、小五郎はおもむろに瞼を閉じた。




