第8話 名探偵の責任
日本のミステリフリークの世界では常識的な概念だが、ミステリの世界には『後期クイーン的問題』というものが存在する。
その骨子はふたつ存在し――この話題がミステリにおいて登場するとき、基本的には『作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決か作中では証明できないこと』というミステリという閉じた創作物の論理的欠点について言及したものである場合が多いが――もうひとつ『作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非』という道義的な問題も存在する。
小五郎の葛藤はそれだった。
後期クイーン的問題のふたつ目の方だ。探偵の道義的責任について。
小五郎は今、一連の事件における真相を解き明かそうとしている。というかもうほとんど解き明かしている。楢崎零士は犯人ではない。その理屈を、理論を、論理を小五郎は既にほとんど閃いていた。
が――さすが佐々木さん、もうすべてわかっているのか――と、小五郎を褒めそやすのは間違っている。彼のそれはただのひらめきにすぎず、つまりは運にすぎないのだから……なんて意地悪な話ではなく、彼はまだ、一番重要な謎と一番重要な問題が解けていないのだった。
一番重要な謎とは、もちろん例の書置きのことであり。
一番重要な問題とは、もちろん犯人の動機とはなんなのか、という問題である。
犯人の動機がわかっていないということは、すべてわかっていないと同義である。動機がわかってないくせに、所詮は第三者でしかない小五郎は、いったいなにを根拠に真犯人を糾弾すればいいのだろうか。もしもこの事件に真犯人なる存在があったとして、その真犯人を指摘する道義的根拠とはなんなのだろうか。
たかがいちフリーターでしかない小五郎が、真犯人のその後の人生をめちゃくちゃにしてしまう権利は、そして責任は、いったいどう解すればいいものなのだろうか。
小五郎は、自分は心の弱い人間だと思っている。
すぐに万能感に浸り、簡単に自分を優秀な人間だと思ってしまう。
そんな自分が、まるで名探偵みたいに事件を解き明かし、神様みたいに関係者のその後の人生を恣にしてしまう憂慮を、彼は捨てきれないでいた。
「神崎――神崎は、自分のせいで人が死んだり、傷ついたり、本来なくていいはずの心の傷を抱えてしまうことについて、どう思う?」
神崎瑞葉は眉を顰めた。
「それ、どういう質問なんですか? 法を犯す人間がなにを思って法を犯すのかって話ですか? 知りませんよ、そんなの」
「いやいや、そういう意味じゃなくてな。そういう確信的な罪ではなくて……確信的でなく、自覚的な罪についての問いなんだよ」
「言ってることの意味がわかりません」
「じゃあ、ちょっとわかりやすく例を挙げるとする――たとえば、お前たちは世代的に知らないかもしれないけど、昔はこういう議論が活発にされてたんだ。漫画やゲームが子供たちに与える悪影響について、な」
悪影響。好影響ではなく、悪影響。
この場合の漫画やゲームは、もちろんアニメでもいいし、テレビでもいいし、現代ならSNSでもいいのかもしれない。
「暴力的な表現や残酷なエピソード、性的なシーン、死を美とする表現なんかが、善悪の境界が未発達な子供には刺激が強いんじゃないかって、そういう話が昔あったんだよ。古い話だけど、だから、もちろんミステリなんかも子供に見せちゃいけないものだと思われてたんだぜ――そのことについて、お前はどう思う、関」
「失笑ものですね」
医学部で頭のいい関博美はそんな風に頭がいい風に言い放った。
目は合わない。いつまでも女子寮に居座っている小五郎に対して、不機嫌そうにそっぽを向いて抗議していた。が、曲がりなりにも会話には応じてくれるのだから、小五郎としても文句はない。
「自分は善悪の判断がついていると思っている大人たちが、特に笑えます」
「鋭いことを言うなぁ」
「そもそも好い影響をだけを及ぼして、悪い影響を一切与えないものなんてなにもないでしょう。ジャン=ジャック・ルソーだって、善人を育てるには教育を施さない方がいいって言ってました。要は、勉強だって人間の精神発達に悪い影響を与えるんです」
「まあ、サブカルチャーが子供に悪影響っていうのは、統計的にはなんの根拠もなくて、ただの大人の偏見らしいけどな」
だとしても――と、小五郎は言葉を継いだ。継ぎ足した。
「その影響が悪なのかどうなのかはさておくとして、人はたしかに、なにか行動するたびに他人に影響を与えてしまう。人間は他人に影響を受けやすい生き物だからだ。なにからも影響を受けないように社会活動をするのが不可能であるように、なににも影響を与えずに社会活動をするのは不可能だ――そしてそれはどんな影響になるのか誰にも想像は付かない。バタフライエフェクトじゃないけど、ちょっとしたひと言が誰かの生命を脅かしてしまうかもしれない」
「はあ」
「そのことについてどう思う、鈴木」
「それはまあ、仕方ないことなんじゃないの?」
鈴木哀は困惑した表情で答える。
「だからって、誰とも関わらないで生きていくことが正しいってわけでもないし。そもそも、そんなことはできないし」
「……だよな」
「人が人に影響を与えるのは普通のことなんだから『気にしない』しかできることはないと思うけど」
「なら、その結果として、誰かの人生を歪めてしまったとして――たとえば、天才漫画家がその才能で数々の凡人漫画家の心を砕いて、筆を折らせ、再起不能にさせてしまったとして――その漫画家は責任を感じるべきなんだろうか? 法的責任はないにしても、道義的責任はあると思わないか? 伏見、お前はどう思う?」
「いや、わたしにはわからないけどー」
伏見一千華はあざとく唇に指を当てて、あざとく首を傾げた。
アイドルとか向いてそうだ、あるいは向いてなさそうだ、と小五郎は心の隅で思った。
「まあ、面白いっていうか、面白くはないけど、ケンセツテキだなーとは思うかな。頭いー人が難しーこと考えてくれるのは、難しーことわかんないわたしとしては、まあ、助かるみたいな?」
「で?」
「で?」
「で、お前の意見は? 人が無意識に、あるいは無遠慮に他人に与えてしまう影響について、お前の意見はどうなんだって聞いてる」
「だから、ケンセツテキだなって思うって」
伏見は辟易と答えた。
辟易としているのは小五郎の方だったが、名探偵の仮面を張り付けた彼の顔面に、その表情が現れることはない。三回目にもなるし、そろそろこの演技も板についていきた頃合いの小五郎だった。
「でもま、フモーだとも思うかな――ケンセツテキの逆って、不毛で合ってる? ――とにかく、フモーだよ。哀ちゃんも言ってたけど、そんなこと言ったらなにもできなくなるし、どうにもできないことじゃん」
「鈴木も伏見も、他人に影響を与えることについては寛容なんだな――じゃあ、逆はどうだ? お前たちは、他人から影響を受けて自分という人間が別の人間に変えられてしまうことについて、どう思う?」
「別の人間?」
神崎が首を捻る。
少し修辞的表現がすぎたか、と小五郎は後悔しながら言葉を噛み砕いた。
「テセウスの船じゃないけど、他人の影響を受けて、まったく別の思考パターンを持つようになったその人は、果たして元の人間と同じなのか――別の人間に置き替えられてしまうことについて、お前たちはどう思うんだ?」
「それは……ヤだけどー」
「ウチも、それはちょっと……なんか気持ち悪い」
伏見と鈴木が口々にそう言った。
「神崎は?」
「……まあ、あたしも気持ちよくはないかな」
「関は?」
「………」
関は小五郎を無視した。
が、その横顔は肯定しているように見えた。
つまり、彼女も他人の影響を受けることを嫌っている。
「やっぱな……」
「なにかわかったんですか、佐々木さん」
「いやぁ……まあ、詐欺師からして一番騙しやすい獲物は、自分は騙されないと思ってる警戒心が強い人間だ、とも言うし――案外、そんなものなのかもな」
「?」
「や、なんでもないよ――さて」
と。
ここまでが、今回の事件における小五郎の『名探偵、皆を集めてさてと言い』である。
小五郎は紅桜寮の一階ラウンジに集めた神崎、鈴木、伏見、関の四人をぐるりと眺めた。
「単刀直入に言おう」
小五郎はもちろん、探偵が長々と論理を語るシーンが大好きなタイプのミステリマニアだったが、それと同じくらい、探偵が推理の開陳シーンをすっ飛ばして意外な犯人を指摘する、そのカタルシスが大好きなタイプのミステリマニアでもあった。
だから、小五郎はそれに倣ってその人物を指差した。名指しした。
それは読むよりもずっと開放的な快感で、倒錯的な快楽で、いっそ犯罪的なまでの悦楽に、小五郎はなんだか悪いことをしているような気分になる――なりながらも、しかし、その人差し指は真っ直ぐとその人物を捉えていた。
小五郎は。
名探偵は、言う。
「宇藤れいなを誘拐したのはお前だな――神崎瑞葉」




