第3話 開演
「警察の方には連絡いたしました。現場を厳重に保存するようにと託かっております」
「秋島さん、ありがとうございます。どうぞお掛けになってください」
重苦しい空気を和らげるために、小五郎は優しく秋島に声をかけた。それにどれほどの意味があるのかはわからないが。
二〇五号室をあとにしてから約二十分後、一同はダイニングルームにいた。
長テーブルの周りには、小五郎を含めた五人が座っている。時刻は深夜の一時近く。だが、誰も眠そうになどしていなかった。外から聞こえてくる雨風の音が、沈殿した空気を執拗に掻き乱す。
「あのおじさん、ホントに殺されたの?」
神崎が怯えたような声を震わせた。
「おそらく窒息死なのは間違いない。喉に吐瀉物が詰まっていないことも確認したから、急性アルコール中毒で死亡したわけでもない」
「窒息死っていうのがそもそも間違ってるとか……」
「君は医者の診断にケチをつけるのかね」
志賀野が声を尖らせるが、神崎が強く睨み返すと鼻白んだのは医者の方だった。
「まあ、窒息死じゃなかったとしても、メモを書いて置いていった人物は確実に存在するわけだから……」
だから、誰かが殺したのは間違いない――とまでは言わなかった。
小五郎は手の中でメモを弄ぶ。本来は元あった場所に置いておくべき物ではあるが、なんとなくの流れで小五郎が持っていた。
「秋島さん」
「はい、なんでございましょう」
小五郎が呼びかけると、秋島がしわがれた声で応じる。
「二〇五号室の鍵はいくつあるんですか?」
「どの部屋の鍵も一本ずつでございます」
「なら、マスターキーは何本ありますか?」
「それも一本しかございません」
秋島に動揺の様子はなかった。年の功というやつだろうか。
「もう一ついいですか?」
「なんなりと」
「今晩、管理人室からマスターキーを持ち出した人はいましたか?」
「いえ。そのような方はいらっしゃいませんでした」
「確実に?」
秋島は深く頷いてみせた。
「……そうですか。ありがとうございます」
小五郎は俯くように頭を下げる。
ちょうどそのとき、電話の音が鳴った。秋島が立ち上がって、フロントの方向に歩いていく。
ダイニングルームは森閑とし、互いに視線を交えることもなかった。
「ねえ、ホントにこの中にあのおじさんを殺した人がいるの?」
神崎が呟く。しかし、誰も、なにも答えなかった。
「別の、あたしたちじゃない誰かがこのペンションに侵入してて、どこかに隠れてるとか、そういう可能性はないの?」
「ないとは言えないけど、そっちの方がより恐ろしい状況であることは間違いないね」
妹山が答えた。
殺人鬼がどこかに潜んでいる想像でもしたのか、神崎は蒼白にした顔面を覆って俯いた。再び空気の重量が一気に増す。小五郎は混乱してしまわないように、必死に理性の手綱を握りしめていた。
「佐々木くん」
妹山に名前を呼ばれ、視線を向ける。
「ん?」
「さっき秋島さんに訊いてたことだけど……あれってつまり――」
小五郎はコクンと頷いた。
「そう。二〇五号室は、密室だったってことになる」
「………」
「二〇五号室は施錠されていて、鍵は部屋の中にあった。マスターキーは管理人室から持ち出されてない。なら、犯人はどうやって部屋から出たのか、或いは、どうやって部屋に鍵をかけたのか――窓から出る……のはさすがに無理か」
「外は台風、そして夜。二階の窓から出るのは無謀というものだろうね」
「そもそも窓は嵌め殺しだ」
志賀野が口を挟む。
「二〇五号室の鍵は机の上に置いてあった。犯人がどさくさに紛れてそこに置いた可能性は?」
「俺たちはそもそも部屋に入ってすらない。唯一入ったのは……」
全員の猜疑に満ちた視線が志賀野に注がれる。
「私はやってない!」
志賀野は唾を飛ばして抗議した。
「わかってます。志賀野さんは机には近付いてない。鍵を置くタイミングはありませんでした」
小五郎がフォローするが、志賀野の怒りはその程度では収まらないようだった。
「なんなんだ君たちは! 無礼じゃないか、人を疑って! 第一、不謹慎だぞ! 人が亡くなったというのに探偵ごっこなんて。警察を呼んだんだ。捜査はプロがしてくれる。君たちは大人しく待っていないさい!」
怒声が響き渡ると同時に扉が開き、秋島が戻ってくる。
「警察の方は来られないようでございます」
そして矢庭にそう言った。
「はあ⁉」
神崎が腰を浮かせる。
「来れないってどういうこと?」
「このペンションと街を繋ぐ道路が、土砂崩れで通行止めになってしまったようで。復旧作業を行っているそうですが、開通するにはまだかかるとのことです」
「まだって、どれくらい⁉」
「予定では、二日後の昼には到着できると」
「二日後⁉」
神崎はヒステリックに声を上げる。
「人殺しがいるペンションで二日も過ごすなんて耐えられない!」
「いい加減にしないか!」
志賀野が一喝した。
「こんな状況でヒステリーなんて起こすんじゃない。これだから若い女はダメなんだ」
ぶち、と。
太い血管がはち切れるような音がした。それは幻聴だったに違いないが、もしかしたら幻聴じゃなかったのかもしれない。
「……そういえば志賀野さん、夕食のあと、殺された御法川さんに威圧されてすたこら逃げていきましたよね」
神崎が底冷えするような声で言った。
先ほどまでのヒステリーはどこへ行ってしまったのか、嫌に淡々とした声だ――いや、これもヒステリーの一種なのかもしれない。
志賀野は不機嫌を隠そうともせずに唸った。
「……なにが言いたい?」
「いえ、動機があるなと思っただけです」
「失礼だな。本当に失礼だ。証拠もなく人様を疑うなんて、礼節を第一義にする民族のすることじゃない。これだから最近の若者はダメなんだ。長幼の序というものを知らない。親に甘やかされて育ったからそうなるんだ」
「偉そうに……自分より低い人間にしか強く出れないくせに」
『低い』という単語を、神崎はやけに強調した。
志賀野の蟀谷がピクリと動く。
効いていると判断したのか、神崎は言葉の刃を収めない。
「私がヒールを履いてたら、敬語遣ってるのは逆だったかもしれませんね。志賀野さんが敬語の遣い方を知ってるなら、の話ですけど」
「神崎、もうその辺で」
小五郎が止めようとするが、神崎の瞳の奥に燃える炎を鎮火することはできなかった。
不満げな目が小五郎を射竦める。私は間違ってないとでも言いたげだ。
見た目に反して血の気が多い。
その怜悧な表情と、それに相反するように激情を湛えた瞳に尻込みしたのは志賀野も同じだったが、もう引くに引けなくなってしまったのだろう――小柄な医者は攻撃的に鼻を鳴らした。
「そう言う君こそ怪しいじゃないか。先ほどから随分と攻撃的だ。どうも、追い詰められているように見える。なにをそんなに気を張っているんだ? 犯人でもなければ、緊張する必要などないはずだがね」
皮肉を飛ばす志賀野に、神崎は嘲笑を返す。
「馬鹿なんですか? それ、『怪しいから怪しい』って言ってるようなものですよ。全然論理的じゃない。あたし知らなかったんですけど、医者って馬鹿でもなれるんですね。あー、あたしも医学部受ければよかったなー」
わざとらしく間延びした神崎の声音は、あからさまに志賀野を煽っていた。志賀野は不愉快そうに眉を顰める。大型のネコ科動物のような神崎の視線と、暗闇に潜む蛇のような志賀野の視線が空中で交差する。
ピリピリとした空気に小五郎が息を呑む中、先に動いたのは志賀野だった。
「部屋に戻らせてもらう。こんな状況で子供のお守りなんてやっていられない」
苛立ったような声で吐き捨てる。
小五郎は志賀野を引き留めようと声をかけた。
「志賀野さん、一人になるのは……」
「私に指図するな!」
しかし志賀野は血走った目で一喝して、背を向けてスタスタと歩き始めてしまった。
――ああ、死亡フラグが……。
小五郎は内心で頭を抱える。この状況で一人になるなんて自殺行為としか思えない。フラグに関係なく、単純に危ない。犯人は警察に通報したら皆殺しにすると宣言しているのだ。既に通報してしまった今、バラバラになるのはあまりにも愚策。
――どうする……どうする……。
――僕がなんとかしなければ……でもどうやって……。
小五郎の頭はグルグルと空転する。そうしている間にも、志賀野の背中が遠ざかっていく。
「仕方がありませんね」
不意に、そんな言葉が口を衝いて出た。
どうしてか、無駄に芝居がかった声音になってしまった。しかしその甲斐があったのか、志賀野は足を止めて振り向く。怪訝な視線が口角を上げた小五郎の顔を捉えていた。志賀野だけではない、神崎も妹山も秋島も小五郎を見ている。
この機を逃してはなるまいと、小五郎は興味を惹きそうな言葉を継いだ。
「こうなっては隠してはおけません」
「……なにを?」
志賀野が鬱陶しそうに言葉を放る。
「ええ、実は――」
実は――なんなのか。
小指で前髪を触る仕草を挟んで時間を稼ぐ。しかし、そんな短い時間でなにかいい解決策が浮かぶはずもなく、小五郎は仕方なく、吸った息を吐くようなペースで出まかせを口にしていく。
「実は僕、これまでに何度か警察に捜査協力を依頼されて、幾つかの事件を解決に導いてきた経験があるんです。そう、難事件と言われるような事件をね」
一から百まで作り話だった。小五郎は警察に協力を依頼されたことなどないし、職質すらされたことがない。
しかし、小五郎の超然とした演技が堂に入っていたお陰か、一同はひとまず半信半疑といった様子だった。つまり、心の半分で疑りつつも残りの半分で小五郎の虚言を信じているようだ。
小五郎は余裕綽々といった雰囲気を演じながら、こっそりと生唾を飲み下す。
「……つまり、探偵ってことかい?」
「いいや、探偵じゃない。名探偵だよ」
首を傾げる妹山に、指を振って答える。
「フリーターって言ってませんでした?」
「それも世を忍ぶ仮の姿さ」
神崎の鋭い指摘にも焦らずに対応する。
「……馬鹿馬鹿しい」
「まあそうおっしゃらず」
嘲るように吐き捨てる志賀野にも、場違いなほど温かい微笑みを返した。
失職の数だけ就職してきた小五郎である。数々の面接を乗り越えることで磨かれてきた演技力は、この時のためにあったのだ。
小五郎は柏手を打つと、俳優がクライマックスでそうするみたいに両腕を広げた。
「どうせ警察が到着するまで、やることもできることもありません。どうか、少しだけ僕の捜査にご協力ください。そうしてくだされば……ええ、僕がこの事件の犯人を見つけてみせますから」
佐々木小五郎、二十五歳。
一世一代の大ハッタリだった。




