第2話 鍵のかかった部屋
やけに重たい瞼を上げると、暗闇がそこに見える。それがペンションの天井だということにはすぐに気付いた。
風や雨の音がとにかくうるさい。
ベッドサイドテーブルからスマホを取り上げてスリープを解除すると、デジタル表記の時計は夜中の十二時十三分を示していた。中途半端に酔って寝てしまったせいか、中途覚醒してしまったらしい。
「はあ……寝るか」
瞼を閉じる。
しかし、寝ようと思うとなかなか寝れないもので、どうしても台風の音が耳についた。意識しないように意識するほど聴覚は鋭敏になっていく。夜の闇を切り裂く雨粒の一つ一つまでイメージできてしまうほどだった。
ふと、鋭敏になった聴覚が微かな音を捉える。
それはノックの音だった。が、小五郎の部屋ではない。どうやら隣の部屋を、誰かが訪ねているようだった。無視して眠ろうと寝返りを打つが、その瞬間に、小五郎の脳裡を先ほどの思考が過る。
――殺人事件でも起きそうだ。
馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、しかし脳漿を満たした不安の種はなかなか萎むことがなく、小五郎はついにベッドを抜け出した。サムターンを回して扉を開錠すると、首だけ出すようにして廊下を覗く。
限界まで絞られた暖色のダウンライトが照らす廊下には、ペンションの管理人である老女が一人だけいた。二〇五号室の扉を頻りにノックしては「御法川様、寝酒をお持ちしました」と呼び掛けている。
「秋島さん」
小五郎は部屋を出て老女に呼びかけた。秋島はそのときようやく小五郎の存在に気が付いたようで、委縮したように頭を下げた。
「これは佐々木様。騒がしくしてしまったようで」
「いえ。どうされたのですか?」
「御法川様のご要望で寝酒をお持ちしたのですが、なかなかお返事がなく」
秋島はもう一度「お騒がせして申し訳ありません」と頭を下げた。
「寝酒?」
耳慣れない単語だ。首を傾げると、秋島が慇懃無礼に答えた。
「寝るために飲むお酒のことでございます」
「あの人まだ飲むつもりだったのか……」
「寝酒は温かく度数の低いお酒を飲むものでございます。なので、温めた梅酒をお持ちしました。佐々木様もお召し上がりますか?」
「ああいえ、僕は」
手で制するように断りを入れる。
それから、小五郎は二〇五号室の扉をノックした。返答はない。
「御法川さん? 寝てらっしゃるんですか?」
控えめな声で呼びかける。しばらく待っても、やはり返答はない。寝てらっしゃるようですね――秋島にそう告げようとした瞬間、二〇二号室と二〇三号室の扉がほとんど同時に開いた。
「うるさいぞ、夜中くらい静かにしてくれないか」
「どうかしたのかい?」
文句を垂れながら二〇三号室から出てきたのが志賀野で、寝惚けたように目を擦りながら二〇二号室から登場したのが妹山だった。
二人とも寝間着姿だ。小五郎は二人に軽く頭を下げてから、事のあらましを簡単に説明した。
「ああ、彼ね。相当飲んでたから。なかなか起きないのもさもありなんって感じだよ」
妹山がざっくばらんに言う。
「いや、酔って寝たら普通は眠りが浅いはずなんだが……」
医者が訝しげに呟く。
「そうなんですか?」
「アルコールは麻酔効果があるから入眠作用は高いのだが、体内でアセトアルデヒドに分解されて交感神経を刺激するから、睡眠そのものの質は下がるんだ。だから、まともな医者なら馬鹿みたいに飲んだりはしない」
志賀野は揚々と説明する。それから、眉を顰めてこう呟いた。
「……まさか、急性アルコール中毒だったりしてな」
「急性アルコール中毒?」
「う、うむ」
「それって放っておくと大変なやつですよね?」
「最悪の場合、死に至る」
小五郎は泡を喰ったように扉をノックした。
「御法川さん? 御法川さん、起きてください!」
ついには我慢できなくなって、無作法と理解しつつも扉を開けようとする。ノブを捻って扉を押すが、しかし、鍵がかかっているのか扉は開かなかった。
「御法川さん! 御法川さん!」
気が付けば声が自然と大きくなっていた。ノックも荒々しいものになっていく。
これほど呼びかけて反応がないなんて、たしかに尋常ではない。
妹山が小五郎と扉の間に身体を滑り込ませてきた。妹山はノブを握って何度か扉を押したり引いたりすると、矢庭に振り返って秋島の方を見る。
「マスターキーは?」
「下の階に」
「すぐに取ってきてください」
「ああ、いや……かもしれないというだけで、まだ急性アルコール中毒と決まったわけでは……」
志賀野がまごまごと言うが、妹山は取り合わなかった。
「早く」
「かしこまりました」
秋島は恭しく頭を垂れると、よたよたと身体を回転させて階段の方に向かった。あれでは行って戻る間に台風が止んでしまう。
「僕も行きます」
小五郎は秋島をエスコートしながら一階に下り、管理人室からマスターキーを取って来た道を戻った。申し訳ないとは思いつつも、緊急事態かもしれないので秋島は置き去りにして。小五郎が二〇五号室の前に戻ると、扉の前には妹山と志賀野、それから騒ぎを聞きつけて二〇一号室から出てきたのであろう、寝間着姿の神崎の姿もあった。
「鍵を」
手を伸ばす妹山に、投げるようにしてマスターキーを渡す。
妹山はマスターキーを鍵穴に刺してガチャガチャやったあと、体当たりするようにして扉を開けた。電気は元から点いていた。電灯に明るく照らされた室内は、小五郎の部屋と同じようなインテリアだった。
窓際のベッド。
そこに御法川は眠るように横たわっていた。
「退きなさい」
志賀野が決然とした様子で言った。先頭にいた妹山は唯々諾々と道を開ける。志賀野は医者の風格を背中に纏って室内に踏み入ると、御法川の身体に近寄った。それからなにかの講習で見たことがあるような蘇生術を一通りやったあと、部屋の入り口で見守っていた聴衆に向けて首を振って見せた。
先ほどまで眠っているように見えていた御法川の身体は、いつの間にか死体にしか見えなくなっていた。
「死んでる」
志賀野が決定的な一言を口にする。
窓枠の中で明滅する雷鳴と神崎のすめくような悲鳴は、全くの同時だった。
一同に緊迫が走る。誰もが声の出し方も手足の動かし方も忘れてしまったかのようだった。人の死とは、そういうものだった。唯一の例外は、医者である志賀野くらいのものだ。その志賀野も身体の震えを隠すことはできていなかった。
「……警察に通報しましょう」
引き攣る喉の筋肉を無理やり動かして、小五郎は言った。
しかし。
「待て!」
鋭い声が部屋を横断した。志賀野の声だ。
志賀野は眼鏡をかけた丸い顔に怯えの色を浮かべながら、なにかを摘まんで近づいてくる。それは一枚のメモ用紙だった。ペンションのフロントにあったものだ。それに、判読が難しいほど崩された手書きの文字で何事か書きつけてある。
小五郎はメモ用紙を受け取って、苦心しながらその文字列を読み上げた。
「『やんごとなき事情により、御法川純司を殺害した。警察には通報しないこと。もし禁を破れば、ペンション内の人間をすべからく殺さなければならなくなってしまうが故』」
「っ」
また、神崎が小さな悲鳴を上げた。
「御法川さん……殺されたんですか?」
「外表所見からするに、おそらく窒息死だ。顔が少し濡れていたから、たぶん、濡れたタオルかなにかを鼻と口に押し当てられたのだろう」
「他殺で間違いないってことですか?」
「………」
志賀野は明言を避けた。
再び重たい沈黙の帳が下りる。小五郎はゆっくり口を開いた。
「……やっぱり警察に連絡しましょう」
「なに言ってるの⁉」
神崎が劈くような声を上げる。化粧の落とされたその顔は、恐怖に塗れていた。
「通報なんてしたら、みんな殺されるって書いてあるじゃないですか!」
「今、外は台風だ。そしてここは山の中のペンション。この意味がわかるか?」
神崎は訝しげな表情をした。
「……他殺なら、外部犯はありえない」
答えたのは妹山だった。そして、言葉を続ける。
「――つまり、犯人はこの中にいる」
その言葉で事態をやっと理解したのか、神崎はみるみるうちに蒼褪めていった。それから、怯えるように二歩、三歩と後退る。
「このペンションから逃げられないのは犯人も同じこと。なら、通報を控えたところで僕らの安全が確約されるわけじゃない。どうせいつかは警察に助けを求めなきゃいけないんだ。なら、早めに通報するに越したことはない」
「………」
「志賀野さん、どう思います?」
「え……いや、私は……」
志賀野は視線を左右に彷徨わせた。
責任を負いたくないのだろう。なんとも情けない年長に辟易し、小五郎は小さく溜息を吐く。志賀野の矮躯が、ことさら小さく見えるようだった。
誰も意見を言おうとしない。
「……警察に連絡します」
埒が明きそうにないので無理矢理そう言って、小五郎は寝間着のポケットを探った。
「あ、スマホは部屋か」
「通報はわたくしがいたしましょう」
「ああ、秋島さん、ありがとうございます」
秋島は楚々と頭を下げると、ゆっくりとした足取りで階段を下りていった。その背中を見送って、小五郎は二〇五号室の扉を閉める。
「一応、鍵をかけておこう――そういえば、鍵はどこだ?」
「マスターキーなら俺が持ってる」
「じゃなくて、この二〇五号室の鍵は……」
「それなら、机の上にありました」
神崎が強張った声で言った。
「机の上? 二〇五号室の?」
小五郎が確認すると、神崎は頷いて見せた。
扉を開けて、中に踏み込まないように部屋の中を確認する。すると、たしかに机の上に一本の鍵が置いてあった。間違いなく、小五郎の部屋の鍵と同じ意匠の鍵だ。
「警察を呼ぶなら、鍵も動かさない方がいいだろうね」
妹山が耳打ちをしてくる。
しかし、小五郎はそれどころではなかった。
「ていうか、これって……」
素早くサムターン錠と扉の淵を確認する。
「佐々木くん?」
「……いや、なんでもない――出よう。妹山、マスターキーを」
扉を閉めてから、小五郎はマスターキーを受け取った。鍵穴にそれを差し込んで、手首を捻って扉を施錠する。指先が細かく震えていた。




