第4話 謎語の解読
それから小五郎は約束通り神崎お手製の晩御飯を相伴に授かった。
味に関しては”普通に美味かった”と評することになる。この場合の”普通”とは字義通りの意味だ。特別これといって特筆すべき優れた点は見当たらず、食べられるくらいの味だった。正直、小五郎にしてみれば母親の作った料理の方が美味しく感じたくらいだが、もちろんそんなことをわざわざ口にするほど愚鈍な彼ではない。
ちなみに、献立はオムライスだった。
夕食を終えたら、小五郎は洗い物を手伝った。女子寮のキッチンに侵入することに抵抗感を感じなかったと言えば嘘になるが、晩餐を馳走になってなにもしないということの方が抵抗感があったのだから仕方がない。
洗い物が終わったら、小五郎はラウンジに設置されたテレビ前のソファに腰を落とした。ソファは三人掛けの長い物がひとつと、ひとり掛けの小さい物がひとつ。コの字に配置されている。小五郎は客ということで長い方を譲ってもらえた。神崎はひとり掛けの方に腰を下ろして伸びをする。
ソファには甘い香りが染みついていた。香水の匂いだろう――小五郎はそう結論付けて、嗅覚を意識から遮断した。賢明であり、懸命な判断だと思った。
「アイスとか食べます?」
神崎は結構な世話焼きタイプだ。いい奥さんになりそう。いや、そういう思考は現代では性差別に当たるのだろうか。
「いや、大丈夫」
小五郎は左手を突き出して断った。アイスを食べたいかどうかで言うと……まあ、食べたかったが、そういう場面でもない。小五郎は失踪者の捜索を依頼され、そして現状、これといって進展を得ていない立場であった。
「まあ、緊急性はなさそうだし、ゆっくりやるか」
「なにがですか?」
「宇藤れいなの捜索」
「緊急性がない? そんな……でも、だって、もう三日ですよ?」
「……だな」
神崎の態度にはなにかの矛盾が含まれているような気がする。これは小五郎のただの勘であって、論理的な矛盾を見つけたというわけではないので、問い詰めることはできないのだけど――しかし、小五郎はミステリの愛読者だけに論理を愛する男ではあるが、自分の直感を非論理的だと言って信じないタイプでもないので、大切な推理の要素としてきちんと記憶した。
「でも、少なくとも誘拐とかそういう話ではない」
「……なんでそう断言できるんですか?」
「わからないか?」
「……ああ、靴ですか。靴がないってことは、少なくとも部屋を出たときは自分の意思だったってことになりますからね」
「それはそうだけど……それは別に、外で誘拐されてるかもしれないだろ――じゃなくて、もっと単純に、書置きがあったから誘拐じゃないってわかるんだよ。『紀元前よりの解放』とかいう、意味深な書置き。画数もそれなりに多いことを考えると、緊急に迫られて書いた文章でもない」
小五郎はテレビのリモコンを見つけて、それをリモコン立てに収納した。テレビを見るような気分ではなかった。
「確認し忘れてたけど、その書置きの筆跡は宇藤れいな本人のもので間違いないか?」
「そう見えます」
「なら、総括――宇藤れいなは自らの意思で失踪している。意味深な書置きを遺したのは、見付けてほしいから」
つまり、典型的なかまってちゃんだ――ああ、今はそういう風には言わないのだっけ。
なんて、小五郎は脳裡で考える。
見つけてもらう前提で失踪するというのは、ぶっちゃけると、ない話ではない。というか、よくある話だ。もちろん、それは幼い子供がやる家出のやつで、大学生がやるようなことではない。ただ、幼い子供がやるようなことを大学生がやらないという確証もないのだ。
宇藤れいなは探して欲しがっている。求めて欲しがっている。その心の根底にあるのは、寂寥か、あるいは……。
小五郎は首を振るう。
人の心理は考えてもしかたない。小五郎はそういうのが苦手なのだ。人の心は目に見えない。から、わからない。よく知りもしない他人の心理をあれこれ勝手に推理するのは、なんだか下世話な気がした。その人の心は、その人だけのものだ。
小五郎がやるべきことは宇藤れいなを見つけることである。
それだけが小五郎のすべきことで、それ以上のことはすべきではない。よしんば宇藤れいなの心に闇があったとしても、それは小五郎の関知するところではない。
「やっぱり、書置きの謎を解かないことには、か……」
「謎、ですか」
「謎だよ。謎の言葉。謎語だ」
スマホを取り出して、例の書置きの写真を表示する。
使われた筆記用具はボールペン。字は綺麗。少し女子らしい丸みを帯びていて、書道経験者という感じはしない。
「『紀元前よりの解放』ね……この場合、どっちを優先して解読すべきか」
「どっちって?」
「『紀元前』と『解放』のどっちをって話。この一文は『紀元前』『よりの』『解放』で区切ることができる――『よりの』は助詞だ。そこまで意味が詰め込まれているとは思えない。対して、『紀元前』は名詞で主語、『解放』は動詞で述語だ。このふたつの語の方がナニカの可能性がある」
「佐々木さんって……暗号解読とかもできるんですか?」
「できるとは言えないけど、好きではあるよ。そもそも、ミステリ好きで暗号が嫌いな人間なんていないんじゃないか?」
さて、ミステリで有名なのはホームズ暗合かな、二銭銅貨かな、と小五郎は頭を悩ませる。個人的には二銭銅貨の方が好きだが、世界的知名度では圧倒的にホームズ暗合に傾くだろう。
「文章そのものが暗号になっているのか、単語が暗号になっているのか。まずは文章の方で当たってみるか……『紀元前よりの解放』って言われて、神崎はなにか思い当たることはあるか? 人類がその紀元前と紀元後を境になにかから『解放』された、みたいな」
「うーん……」
神崎は唇に指を当てる。
彼女は人文科学部の学生だ、大いに当てにしている。
「そもそも、紀元っていうのはキリストが生まれた年を表しているだけなので、紀元前と紀元後で人類史に大きなパラダイムシフトが起きたわけではないんですよね。強いて言うなら、三大宗教のひとつであるキリスト教が誕生したのは、人類にとって大きな変化だとは思いますけど……」
「人類が宗教を生み出し、死への恐怖を克服した、か」
「それをそのまま読み解くと、れいなはその……」
死への恐怖を克服した――つまり、死んだ、自死したと捉えることもできるわけだが。それは突飛な発想が過ぎるというものか。
「宇藤れいなはクリスチャンだったのか?」
「いや、そういう感じではありませんでした」
神崎は「だから安心」とばかりの口調で言ったが、小五郎にしてみればそれは不安材料だった。何故って、宇藤れいながクリスチャンなら、自殺の可能性が低くなるからだ。キリスト教において自殺は大罪である。
宇藤れいながクリスチャンではなかったことがわかったことによって、彼女の自殺の可能性が高まってしまったわけだが……。
いや、それはないのか。
小五郎は頭を振る。
宇藤れいなが失踪してすでに三日だ。自殺をしたなら、どこでどう自殺をしたのか知らないが、どこで自殺したとしても、既に死体は見つかっていて、優秀な日本の警察の捜査力によって、とっくに身元が判明して、こちらに連絡なり身元確認のあれそれなりが来ている頃合いだろう。
「紀元前よりの解放=死の恐怖からの脱却――っていうのは、まあ、面白い考え方だと思うけど、面白いだけなんだよな。それじゃあ、宇藤れいながどこにいるのかはわからない。遺書としてはお洒落だけど、僕がすべきことは生きている宇藤れいなの捜索であって、この書置きが遺書だとは考えない方針で推理したい」
「んー……遺書では、ないと思いますけど」
「……文章単位での解読は煮詰まったな。単語レベルでの解読に移るか」
「単語レベルでの解読っていうのは?」
「『紀元前』や『解放』がなにを表しているのか、っつぅ話――『紀元前』よりの解放、なのか、紀元前よりの『解放』なのか」
記されている言葉を別の言葉に入れ替える、というタイプの暗号も存在する。文章そのものにはなんの意味もないパターンだ。
直感として、紀元前が紀元前のままということはなさそうだが。
「紀元前ってA.D.だっけ? B.C.だっけ?」
「B.C.です。『Before Christ』の略なので」
「はぁん」
時に、小五郎はAMとPMの区別も時々忘れてしまうタイプの男だ。
『キリストの前』でB.C.か、今度こそ忘れないぞ……と小五郎は思うものの、たぶんすぐに忘れる。
「『解放』っつぅと……言い換えも難しいな」
「文字そのものに意味があるんですか? 漢字の形そのものが暗号になってるとか……」
「うーん……」
小五郎は背凭れに身体を預けて身体を伸ばしてみたが、それでなにか名案が浮かぶというようなことは特になかった。
自慢ではないが、小五郎は幼少の時分から謎々の類が得意なタイプだったのだが……今回はなかなかどうしてそういう風にはいかないらしい。なんというか、これもまた感覚の話になってしまうが、そもそも解読のためのピースが揃っていないような感じがする。
ふと時計に視線を向けると、もういい時間だった。そろそろお暇する時間だろうか、と小五郎はポケットにスマホを押し込みながら立ち上がる。
「そろそろ帰るわ」
「え、帰るんですか? 泊まってっていいですよ」
「いいわけねぇだろ」
「いや、本当に泊まっていいですよ。『303』は空き部屋ですし」
そこまで信頼されると、男として悲しい気持ちにもならないではなかったが、まあ、そこまで信頼されているのに無碍にしては、それこそ、僕はあなたのことを性的に見ていますよ、なんて言っているようなものではないか。
ここは、女子大生なんて相手にしないぜ、という大人の余裕を見せるために、あえてその誘いに乗るのがプライドを一番守れる行為なのではないだろうか。
そう考えて、小五郎は首を縦に振った。
「じゃあ、甘えようかな」
「まあ、空き部屋なんでなんもないですけどね。でも、ベッドは備え付けだから寝ることはできますよ」
「寝ることができれば充分だよ」
そんな会話をしながら三階に上った。気配を殺しながら。
『303』の扉の前で神崎とは分かれて、小五郎は空き部屋に入った。本当にベッド以外はなにもない部屋で、足音がよく響く。スマートフォンの画面を確認すると、まだ二十二時前だった。まあ、偶には早寝してもいいだろうと、横になって目を瞑る。
夜はあっという間に更け、そして明けた。
慣れないベッドに浅く眠っていた小五郎を起こしたのは、扉を叩く音だった。ゴンゴンゴン。三回では止まずに何回も。
「佐々木さん! 佐々木さん! 起きてください!」
神崎の声だ。
小五郎はのそりと起き上がり、微睡む身体を引き摺って扉を開けた。
そこには、蒼白とした神崎が立っていた。キャミソールにカーディガン、デニムのパンツといった出で立ち。
どうやら、彼女が活動を開始するくらいの時間にはなっているらしい。
「……今何時だ?」
「それどころじゃありません! 来てください!」
どうも彼女の声はヒステリックだ。
キャンキャンと寝惚け頭に突き刺さる彼女の声に逆らえず、小五郎は神崎に腕を掴まれて階段を下りて行った。非常に何度も足を縺れさせた。朝からひやひやの連続だ。
なんて、ふざけている場合ではなかった。
神崎に連れていかれた先は外だった。自動ドアを潜って、正面の道路とは反対の裏手へ。そこは小さな公園になっていた。ちょっとしたバーベキューくらいならできそうだ。いや、現代社会でそれは難しいのかもしれないが。
なんにせよ、バーベキューのお誘いというわけではなかった。
それはひと目でわかった。
公園の奥、南の端。花壇らしきその場所に、それはあった。
倒れていた。
横たわった女性の肢体――ならぬ死体。
見ればわかる、明らかに死んでいると。
なぜならその女性は、目を見開き、舌を突き出し――そのまま瞬きをすることも呼吸することもなく、虚空を眺めているのだから。これで生きていると思う方が無理だ。首には紐が食い込んだような跡があった。初めて見る小五郎でも、ひと目で縊殺体だと理解できた。
「そんな……」
誰かが呟く。
周りを見ると、神崎だけでなく、鈴木に伏見、関もいた。全員がその死体を眺め、言葉を失っていた。
それで気づいた。
この死体の女性――写真に写った笑顔とはまるで似つかない苦悶の表情を浮かべたまま、他のどんな表情も浮かべることができなくなってしまったこの女性――彼女こそ、小五郎が探すべき人、宇藤れいなその人だった。
失踪者は冷たくなって見つかった。




