第2話 笑顔
「これ、本当に僕が入っても大丈夫なのか?」
一時間と三十分後、小五郎は神崎に連れられて大学の寮に来ていた。当然のように女子寮だ。真四角の建物、オートロックの玄関、白い外壁――別段、建物自体が男を拒むような見た目をしているわけではないが、それを女子寮だと思ってみてみると、なんだか男である自分は拒絶されているような気分になってくる小五郎だった。
「まあ、大丈夫じゃないですか?」
「寮監に話は通してあるのか?」
「寮監は昨日から家族旅行に出かけましたよ」
つまり、話は通していないということらしい。
これでなにか起こったら不法侵入になるのだろうか――小五郎は首を捻る。法律には恬として詳しくない。住民のひとりである神崎に許可を得ているから法的には問題はなさそう、というのが第一勘ではあるが、同時に倫理的には大問題である、というのも直感的だ。
「その寮監は、住民がひとり失踪してるのに旅行に出かけたのか?」
「仕方ないです。予てよりの旅行だったんですから。ずっと楽しみにしてたみたいで……旅行計画とか楽しそうに話してくれたし、キャンセルさせるのも可哀想だと思って、寮の皆と話し合って送り出しました」
「良い話風だけどな」
大人としての責任の面ではどうなのだろう、と思わないでもなかったが、まあ、社会不適合者の代表格である小五郎が言っても真実味がないので、口にはしなかった。
「この寮には何人住んでるんだ?」
「あたしとれいなを入れて五人です。あ、寮監を入れたら六人ですね。寮監は一階に、あたしとれいなは三階に、他の三人は二階に住んでます」
「ふぅん……」
神崎がオートロックを解除して建物に入っていく。
小五郎は少しドキドキしながらその背中を追った。二重になった自動ドアを潜ると、そこはロビーだった。閑散とした空気が流れている。すぐ横には寮監の部屋が見えた。そして目の前にはラウンジルーム。奥にはキッチン。一階は共同スペースになっているのだろう。白い壁にグレーの床。清潔感がある。学生寮とは思えない高級感もある。女子寮はこんなものなのだろうか。
物珍しさにキョロキョロとしてしまいそうになるが、そこはぐっと堪えた。あまりジロジロと女性の生活空間を観察するものではない。慣れているというわけではないが、慣れているふりをするべき場面だ。笑わば笑え。オドオドするよりは虚勢を張るべき場面だ。
「最終確認になるけど、ここ、本当に男が入っていい空間なのか?」
「一年くらい前にエアコン修理の業者さんが来たことありますけど、その人は男の人でしたよ」
「それは仕事だからノーカン」
「なら、佐々木さんも仕事だからノーカンですね」
上手く丸めこまれてしまった気がしないでもないけど、まあ、しかし一理はある。
そう、仕事なのだ。
後払いとはいえ、小五郎はお金を受け取るためにここにやって来た。なんだ、疚しいことはひとつもないじゃないか。そう思うと、小五郎の心は泰然自若とした。お金の魔力は大抵悪い方に働くが、時にいい方に働くこともある。
「さっきも言いましたけど、れいなの部屋は三階です。エレベーターはないので階段で行きますよ。膝は大丈夫ですか、おじさん」
「ふざけんな。僕はまだ二十六歳だ」
いや、二十歳そこらの大学生からしたら、二十六歳も充分におじさんなのだろうか。若い子におじさんと呼ばれると、ちょっとした反抗心と、それからちょっとしたときめきを覚えてしまう自分が恨めしいことこの上ない。
あと四年もしたら三十歳か……。
そう思うと、空恐ろしくなる小五郎だった。そろそろ真剣に職を探さなければならない頃合いなのかもしれない。肌に合わないからと仕事を辞めるような歳ではないのだ。
「どうしたんですか、佐々木さん。急に青くなって」
「いや……時の流れの残酷さに悲しくなっていたところだ――階段は問題ないよ。健康だけが取り柄なんだ。つぅか、エレベーターないって、僕みたいなゲストからすればちょっとした特徴でしかないけど、お前みたいな住民からしたら深刻な欠陥なんじゃないか? 毎日上り下りするの辛いだろ」
「辛くはないですけどね。面倒ではあります。ちょっと大きなものを買ったときとか、しんどいです。電子レンジを運び込むの、辛かったなぁ」
「それは辛そうだな……」
そんな徒爾な会話をしているうちに三階に到着していた。三階まで階段で上ると言われると身構えるが、冷静に考えると上がる階数は二階分だ。実際に上ってみると大したものではない。おじさんと呼ばれようと、小五郎はまだ二十六歳であり、二十六歳相応の体力を持っているのだ。
三階は一直線の廊下が伸び、その南側に三つの扉が並んでいた。
一番手前から扉に『301』『302』『303』と刻印されている。
「『302』がれいなの部屋です」
「神崎の部屋は?」
「……『301』ですけど……入れませんよ?」
「言ってねぇよ。『303』はなんの部屋なんだ? 三階にはお前と宇藤れいなしか住んでないなら、空き部屋か?」
「はい――れいなの部屋に入りますか?」
「入れるのか?」
「鍵は開けっ放しにしてあるんで」
小五郎は頷いて、神崎の後ろを追いかけるようにして『302』の部屋に入った。
薄暗い。南側の部屋だが、日当たりはそこまで好いものではないらしい。神崎が無遠慮に部屋に入っていく。小五郎は少し悩んだあと、口の中で小さく謝ってから靴を脱いだ。
神崎が部屋の電気を点ける。
明るくなった室内は……なるほど、綺麗なものだった。
整理整頓が得意な女子だったのだろう。物が少ないということは決してないが、雑然とはしていない。頭の良い人間は部屋が綺麗という俗説があるが、さて、彼女はどういう人間だったのだろうか。
「書置きが置いてあったのはこの座卓?」
「はい」
「ちなみに、その書置きの原本は?」
「さすがに警察に提出しました」
「だよな」
続いて、小五郎は室内をそれとなく物色する。もちろん、うっかり棚を開けてしまったりなどはしない。もしも下着箪笥なんて開けてしまったら、そのまま逮捕だ。だから、見てよさそうなものを中心に見て回る。
ベッドにはデフォルメされた愛らしいクマのぬいぐるみが、ナイトテーブルにはデジタルの目覚まし時計が、棚の上には写真が飾ってある。写真は、学生の集合写真ばかりだ。そのいくつかには神崎も映っていた。
「宇藤れいなっていうのは、どいつのこと?」
小五郎が神崎に訊くと、彼女は「この子です」と指を差した。神崎の隣でにっこりと笑っている少女は、少なくとも写真写りはかなりいい。神崎も相当に美人に分類される女性だが、宇藤れいなはもっと目立つ。
よく見ると、飾ってある写真のどれも、宇藤れいなは中心でピースをしていた。どれも、まさしく写真で写したかのようにまったく同じ笑顔。
いつも中心に映っているのは、彼女が相当な自惚れ屋で自分が中心に映った写真しか飾らない質だったのか、それとも、単純にいつも写真を撮るときは中心に配置されるタイプの人間だったのか。
男性恐怖症と聞いて、おどおどした人間を想像していたが、写真で見るに、どうもそういうタイプの人間ではないらしい。
それ以上のことは、生憎なことに小五郎にはわからない。
「それにしても、この令和の時代に紙の写真か……」
「れいな、カメラが趣味だったんです」
「なるほど」
理解できなくもない趣味だ。小五郎も、本は電子ではなく紙で読むタイプの人間である。
「ま、今さらだけど、部屋に入ったところで失踪者がどこに行ったのかなんてわかるわけもないんだよな」
「本当に今さらですねー。なんでもっと早く言わないんですか?」
「そりゃ、女子大生の部屋に這入ってみたかったからに決まってるだろ」
「なるほど、通報ですね?」
「違います」
「……佐々木さんを信用していいのか段々不安になってきましたけど……一応、この寮の他の住民にも会います? 皆、れいなとは友達だったと思いますけど」
半眼で訊いてきた神崎に、小五郎はカクカクと頷く。他の住民というと……この寮には六人の人間が住んでいて、神崎はここに、宇藤れいなは失踪中、寮監は家族旅行となると、残り三人いることになる。
大学生だし、全員が寮にいるとは限らないが、だからこそ、全員に話を聞くには順次会っていかないといけないだろう。全員集めてひとりずつ聴取なんて、そんな警察のような大それたことは小五郎にはできない。
「じゃあ、顔だけ繋いでくれるか?」
「はい」
顔を繋ぐというのも妙な表現だ、と小五郎は考えながら靴を履き直した。
扉を開け、廊下に出る。話を聞きたい三人の部屋は三人とも二階だから、階段を下りる。先導する神崎のポニーテールがゆらゆらと左右に揺れるのを、小五郎は漫然と見ていた。
不思議に思っていることがある。
それもいくつか。
男性恐怖症らしい宇藤れいなが、男と一緒に写った写真で笑顔を見せていたこと。
あの山荘で危機的状況にヒステリーを見せていた神崎に、現状それほど切羽詰まった様子がないこと。
僅かな蟠りがないではない。
だが、それらはある種普通のことなのかもしれないと思わされる程度の疑問でもあった。
男性恐怖症でも軽度なら一緒に写真に写るくらいのことはできるだろうし、宇藤れいなはまだ失踪三日目だ――神崎が焦るほどの時間が過ぎているわけでもない。もしかしたら、神崎は宇藤れいなとそれほど親しかったわけではないのかもしれないし……いや、それはでも、小五郎に相談を持ち掛けてくる意味がわからなくなるか。
小五郎が愛読するようなミステリー小説の中でなら、それらの疑問は有機的に繋がって、あるひとつの答えを導き出すのだが、しかし、現実はそうではないことを小五郎は知っている。
現実は、非論理的だ。
なにか意味ありげに見えたものは、意味があるのかもしれないし、ないのかもしれない。
「それにしても……」
「? なにか言いました?」
「――いや、なにも」
宇藤れいな。
写真に写った少女の笑顔が、どうにも脳裡に焼き付いて忘れられない――これはなにか意味のある感情なのだろうか、と、小五郎は自分に問いかけた。




