第10話 カーテンコール
「お待たせしました。こちら、牛フィレ肉のロッシーニ風ステーキでございます」
ボーイが颯爽と歩いてきて、小五郎と志賀野の前にそれぞれステーキの乗った皿を置く。
「ありがとうございます」
小五郎は礼を言いながら、ナイフとフォークを掴んだ。
ボーイが去っていくのを見送ると、小五郎はステーキにナイフを入れる。ナイフは、嘘みたいにするりとステーキを切り分けた。
その様子を、志賀野が呆れたように見ている。
「そうも見事な食べっぷりを見せられると、奢り甲斐があるってものだな」
「いえいえ、それほどでも」
「……今のは皮肉だ」
「わかってますよ。今のは、わかった上で無視するっていう煽りです」
志賀野は溜め息を吐いて、自らのステーキも切り分け始めた。
「冗談ですよ。志賀野さん、こっちから急にお誘いしたのに、またこうしてフレンチに連れてきてもらえて、僕は本当に感謝してるんです。ありがとうございます。そして、今日はお忙しいところ、唐突に連絡して申し訳ありませんでした」
「いや、別に……まあ、たしかに驚きはしたが――話があると言ってたな?」
「ええ」
小五郎はひとつ頷いてから、ワイングラスを傾けた。
聖人の血とも呼ばれる赤い液体を飲み下して、小五郎は唇をぺろりと舐める。
「あの別荘での事件から、まだ一週間ですか。志賀野さんは日常に戻れましたか?」
「私がどれだけ泣き言を言っても、病気は待ってくれないからな。休みたいところだが、世の中に患者がいる以上、そういうわけにもいかない」
「そうですか……そういえば、志賀野さんのご専門を訊いてませんでしたね。志賀野さんはなんのお医者さんなんですか?」
「総合診療医だ。金親先生と同じ」
その名前を出すと、志賀野は苦虫を噛み潰したような表情をした。
あの事件のあと、小五郎たちは金親を食糧庫に監禁し、朝を待って山を下った。電波が届く範囲まで移動して通報すると、数時間後には別荘に大量の警官が押し寄せていた。
金親は今、警察に拘留されているらしい。聞き及んだところによると、取り調べには素直に応じているらしく、全面的に罪を認めているらしい。起訴もそう遠くないだろう――そう聞き及んだ故に、小五郎は泡を喰って志賀野を呼び出したのだが。
「君は相変わらずフリーターをやっているのか?」
「一週間じゃ職は見つかりませんよ。どころか考えごとがあって、バイトも休んでたくらいです。医者と違って、責任のない仕事は簡単に休めるからいいですよね」
そういう責任感に著しく欠如しているところが、彼が無職たる由縁なのかもしれないが、それは今はともかくとして。
志賀野が「考えごと?」と食いつく。
「はい。考えごとというか、考えなければならないことを」
「それは……どのようなものか、訊いてもいいのか?」
「もちろんです。それこそ、志賀野さんにお話ししたかったことなんですから――そうですね、ここはあえてシアトリカルにいきましょう」
志賀野に向かって微笑んだ小五郎はワイングラスを置くと、口を開いた。
今宵の総括とも言える、そのひと言を。
「金親さんは真犯人じゃありません」
※※※※※※※※※※
「金親先生が、犯人じゃない……?」
志賀野はナイフとフォークを取り落とさんばかりに驚嘆を表現して見せた。
もちろん、実際にカトラリーを落としたりはしない。志賀野はナイフとフォークをテーブルに置いて、小五郎を正眼から見据える。
「……それは、どういう意味だ?」
「そのままの意味です。甘木さんを殺害したのも、柚木先生を殺害したのも、金親さんではなかったという意味」
「しかし、金親先生は罪を認めて……」
「そうですね。しかし、僕の推理が正しければ真犯人は別にいる。そしてもちろん、金親さんは自分が犯人じゃないことをわかっている。つまり、金親さんは真犯人を庇っているということです」
「どうして、真犯人は別にいると断言できる」
「まあ、ぶっちゃけ断言できるというわけではないのですが……」
小五郎は父親から借りたスーツの袖を直しながら、「未解決の謎があったんですよね」と言った。
「未解決の謎?」
「そうです。別荘にいる間は、うっかり失念してました。そこら辺が、僕が名探偵ではなく名探偵ごっこをしているだけのフリーターたる由縁なのでしょうけど」
「未解決の謎なんてあったか? 隠し通路の謎を見破った君に、見破れないような大きな謎が」
「大きさで言えば小さなものなんですけどね。マジックミラーによって作られた無限の空間より魅力的な謎ということはありませんよ。あの別荘で起こった事件の最大の謎は、やっぱりマジックミラーの不思議な性質によって生み出された鏡の中の世界ですから。僕がこの一件に名前を付けるとしたら『名探偵 佐々木小五郎の明暗』で決まりですね。自分で名探偵を名乗るのは気が引けますけど、語感がいいので」
自分で言っていて恥ずかしくなったので、小五郎はすぐに今の言葉を取り消したくなった。しかし、吐いた言葉は誰にも呑み込めない。
黙っていては傷口を広げるだけだと判断した小五郎は、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「でも、見落とすことはあっても見逃すことはできない謎が、まだ放置されたままだったんです」
「……それは?」
「ポルシェの謎です」
志賀野が首を捻った。
「厳密にはポルシェ911の謎――僕が夕食後に別荘の中から駐車場を見たとき、そこにポルシェが停まっていたんですよ。好きな車なんで、誰の物かなーって気になってはいたんですけど、殺人事件のせいでそれどころじゃなくなっちゃって」
「それが、見逃すことはできない謎なのか?」
「ええ。すべて終わって、家に帰ってから気が付いたんですけどね。あの車、持ち主がいないんですよ」
小五郎は指を九本立てて、説明を開始する。
「あの晩、あの別荘には死んだ人も含めて九人の人間がいました。僕、志賀野さん、金親さん、甘木さん、和泉、柚木先生、九条先生、長谷川先生、湊先生の九人です。そのうち僕と志賀野さんは、レクサスで別荘に向かった」
小五郎は指を二本折る。残った指は七本。
「そして柚木先生は免許を持っていなくて、長谷川先生のカローラに同乗して別荘に来たそうです」
小五郎はさらに指を二本折る。残り五本。
「それから、ポルシェ911はマニュアル限定車です。和泉と湊先生の免許はオートマ限定だから運転できない。金親さんも免許を返納なさっているそうですね。だから、金親さんも運転できない」
さらに三本。残った指は二本。
残った指は九条と甘木を表すものだ。
「九条先生の車は旦那さんのベンツで、甘木さんの車は食料を運ぶために積載量の多いジープです」
残った二本の指を折ると、もう、立っている指は一本もなかった。
「では、駐車場に停まっていたポルシェは誰のものだったのか。考えられる可能性はひとつ」
「……あの晩、我々以外の誰かがあの別荘にいた」
「そういうことです。もちろん、僕が指摘する真犯人とはその『誰か』となります。その『誰か』は人知れずあの別荘にやってきて、どこかに隠れ潜んでいた。そして使用人室で甘木さんを殺害し、隠し通路を使って柚木先生も殺害した。あとは雷雨に乗じて山を下りたんでしょうね、ポルシェで。雨の中の運転は、非常に難しいというだけで絶対に不可能なわけじゃありません」
「待て。その推理には矛盾がある」
小五郎は無言のまま先を促す。
「まずひとつ、犯人が金親さんじゃないなら、甘木さんの密室はどうなる? もうひとつ、どうしてその真犯人は隠し通路の存在を知っていたんだ? 最後に、なぜ金親先生はその誰とも知れない闖入者を庇う?」
「その三つの矛盾は、真犯人の性質を考えれば自然と氷解します」
「真犯人の性質?」
志賀野が不思議そうに首を傾げた。
「いるじゃないですか。甘木さんが金親さんと同じくらいに忠誠を誓っていて、あの別荘の隠し通路の存在を知っていてもまったくおかしくなくて、金親さんが庇いそうで――おまけに柚木先生を殺してもおかしくない人が、ひとり」
「……まさか」
息を呑む音が聞こえてきた。
小五郎は取り合わず、冷徹に推理を開陳する。
「柚木先生に医療過誤を起こされた本人――金親美智子さんです」
「ありえない!」
志賀野がテーブルを叩いて立ち上がった。大きな音が鳴る。
小五郎は近寄ってこようとするボーイを手で制し、志賀野にジェスチャーで着席を勧める。
「そうですね。僕としたことがうっかりしていました。金親美智子さんなんて人は存在しませんもんね。だって離婚してるんだから。もう『金親』ではないんでしょう。ちなみに、美智子さんの旧姓はなんというんですか?」
志賀野は答えない。
知らないという意味かもしれないし、答えたくないという意味なのかもしれない。
「金親さんがどうして抑鬱状態だったのか訊いたとき、志賀野さんは『去年、奥様がご病気で……』と答えました。僕は勝手に奥様と死別したのだと解釈しましたけど、本当は病気を理由に離縁しただけなんですね?」
「……そうだ」
「大病を患ったとき、パートナーに負担をかけないために離縁を迫る人間がいることは知識としては知っています。それもまた愛というやつなのでしょうか? やっぱり僕には一向にわかる気がしませんけど……なんにせよ、美智子さんは金親さんに離縁を迫った」
そして離婚は成立したのだろう。
九十歳を前にした、熟年離婚。円満な離縁だったかどうかは、小五郎の知るところではない。
志賀野は食べかけのステーキをじっと見つめながら、ぽつりぽつりと呟く。
「去年、美智子さんは心筋梗塞で倒れられたが、金親先生の迅速な救命術によって命は助かった。しかし、早期発見に至らなかったせいで、合併症が起きた。心不全だ。体力がみるみる落ちていき、最後は介護が必要になる。美智子さんの年齢を考えれば、それはそんなに遠い未来の話でもない」
「だから、美智子さんは金親さんに介護の負担をかけないために離婚した。或いは、実際に介護される段になって、金親さんに面倒だと思われるのが嫌だったのかもしれませんね。それくらい、金親さんを愛していた」
これは、ある種の美しい愛の物語だったのかもしれない。
ここで話が終われば。
「だけど、そんな美智子さんも、誤診した柚木先生のことは赦せなかった」
「……証拠がない。美智子さんはたしかにご存命だが、だからといって真犯人だということにはならない」
「志賀野さんはどうしても金親さんを犯人にしたいみたいですね」
「………」
「冗談です。そんなに怖い顔をしないでください――たしかに証拠はありません。でも、まあ、警察が真面目に調べればいくらでも証拠は出てくると思いますよ。だからこそ、金親さん取り調べに協力的で、罪を全面的に認めているのでしょうし」
「……君はどうして美智子さんが犯人だと確信しているんだ?」
「だから、確信はしていません。けど、金親さんが犯人だとおかしいので、そうじゃない方の美智子さんが相対的に怪しいと思っているだけです」
「金親先生が犯人だとおかしい?」
志賀野は睨むような目つきのまま、片眉を上げた。
「それはどうしてだ?」
「だって、金親さんには甘木さんを殺害する理由がない」
小五郎は端的に答えた。それから、足りなかった言葉を継ぎ足す。
「あれほど忠実な執事である甘木さんの口をわざわざ封じる必要はありません。ただ、柚木くんを殺したいから隠し通路については口を噤んでおいてくれ、と事前に口添えしておけばいいんです」
たったそれだけで、甘木は口を噤んだはずだろう。それは、あまり健全な主従とは言えないかもしれないが。
「それに、金親さんは米寿祝いの席に柚木さんを招待したんですよ? 普通、殺したいほど憎んでいる人間をめでたい席に招きますか?」
「殺すために招待したのかもしれないだろう」
「それこそありえません。人を殺す場所に自分の家を選ぶ人間なんていませんよ。しかも、あんな辺鄙な場所にある別荘を。犯人がその別荘の中にいる人間に絞り込まれてしまうじゃないですか。街の中で通り魔を装って殺害した方が、遥かに堅実です」
通り魔。
心不全を患っている美智子には難しい方策だ。身体の弱っている彼女が柚木を殺すなら、無抵抗なところを襲うしかない。たとえば、眠っているところとか。
「……柚木先生は誤診を悔い、金親さんに誠心誠意謝った。そしておそらく、金親さんはその誠意を認めて柚木先生を赦した。しかし、柚木先生が適応障害から立ち直って償いを始める前に、美智子さんは金親さんと離婚してしまった。柚木先生の誠意は美智子さんには届かず、美智子さんは柚木先生への恨みを溜め込んでいった」
それが、『犯行動機』というものに露ほども興味を持たない小五郎がここ数日で考えた、犯人の心理である。
志賀野は目を閉じたまま天井を見上げた。
なにかを考えているのかもしれない。或いは、なにも考えていないのかもしれない――なにも考えたくないのかもしれない。
心の整理の時間が必要だろう。
そう思って、小五郎は四方山話をする風に口を開いた。
「ここまでくると、もうどうでもいいのですけど、もうひとつ謎があるので念のために披瀝しておきます――つまり、美智子さんはどうやって隠し通路の入り口である書斎に入ったのか、という謎です」
書斎には鍵が掛かっていて、その鍵は金親が持っていたはずである。
「……まあ、これは実にくだらないトリックです。トリックというか、もはや叙述トリックですね――甘木さんは和泉に『客室の合鍵は作れない』と言ったそうですが、書斎の合鍵も作れないとは言っていないという……ただ、それだけの話です。書斎には合鍵があって、それは美智子さんが持っていたのでしょう」
書斎の鍵は宝石のあしらわれていない、ただのスケルトンキーだった。合鍵は簡単に作ることができただろう。
そしてその合鍵を美智子が使った、といのうが小五郎の推理である。
ただし、小五郎の今の言葉には嘘があった。いや、噓というのはフェアな表現ではない。意図的に隠した可能性があるだけだ。
小五郎が噤んだのは、その合鍵を甘木が管理していた可能性についてである。
つまり、美智子が甘木を殺害した理由は、隠し通路の存在を秘密にするためではなく、書斎の合鍵を奪い取るためだったのではないかという、そんなやるせない可能性のひとつ。口にしたところで誰も得することのないそんな徒爾な推理を、小五郎はそっと胸の裡に押し込んで忘却した。
「さて、僕は以上すべての推理を志賀野さんに委ねたいと思います。僕はこれ以降、誰にもこの推理を口外しません。すべて、志賀野さんのご随意にどうぞ。警察に話して金親さんの無罪を証明するのもいいし、墓まで持っていって彼の意を汲むのもいいでしょう」
小五郎はそれだけ言って、ナイフとフォークを持って食事を再開した。
こんな状況でも、美味い飯は美味い。
肉を口に放り込んでは、酒を喉に流し込む。
小五郎の皿にのったステーキがほとんど片付いた頃、志賀野は瞑っていた目を開いて小五郎を見た。小五郎はナプキンで口元を拭いて、志賀野を見返す。
「どちらにするか決まりましたか?」
「……私は、金親先生には大変なお世話になった。臨床医としてのイロハは金親先生に教わったし、総合診療医を目指したのも彼に憧れたからだ。金親先生がいなければ、今の私はないと断言できる」
「そうですか」
その目を見て、小五郎は彼の決断を察した。
深く悩んだだろう。容易に決められる二択ではなかったはずだ。苦しんだかもしれない。決断を委ねることで責任を放棄した小五郎に怒りを覚えたかもしれない。しかし、志賀野は決断した。診断するように。彼の知識と、倫理と、正義に基づいて。
「私に委ねてくれてありがとう、佐々木くん。私は、金親先生に受けた恩義に報いることにする」
それがどちらの意味なのか、小五郎はあえて訊ねることはしなかった。
白黒はっきりしない謎だって、世の中にはあっていいと思ったから。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
二章『名探偵 佐々木小五郎の明暗』になりました。次は三章でお会いしましょう。ブックマークをしてお待ちください。
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