第9話 愛しい人
書斎には音に聞こえそうなほどの沈黙の帳が降りていた。
いつの間にか、外の雨は上がっている。
金親はなにも言葉を返さなかった。ただ、柔和な笑みで小五郎を見返している。それは小五郎にとって予想外の表情だった。差し出した鍵は受け取られることもないまま、中空を虚しく彷徨う。
「……金親先生が犯人? 柚木さんを殺した?」
長谷川が唸るような声で呟いた。小五郎は頷く。
「それから、甘木さんも殺した」
「そんなわけがないだろう」
「……そうよ、そんなわけない」
長谷川と九条が続けざまに言った。湊も声には出さずとも、不満そうな視線を小五郎に向けている。この部屋の隠し扉を見つけ出した志賀野すら、信じられないと言わんばかりの表情をしていた。
どうやら事ここに至ってなお、劣勢なのは小五郎のようである。
「素晴らしい信頼ですね。ここまでの厚い信頼を受けた人間はどう思うのか、伺ってもいいですか、金親さん」
「……ありがたくもあり、重くもあるよ」
金親は甘く息を吐くように言って、小五郎からやっと書斎の鍵を受け取った。
「その信頼を裏切ってしまったことが、本当に重く圧しかかる」
騒然とした。
金親のその言葉は、事実上、犯行を認めるものだったからだ。だからその場に集まった金親の教え子たちは騒然としたし、悄然とした。
「まったく君の慧眼には驚かされるよ、佐々木くん。本当にリビングルームで議論しているときにすべてを見抜いたのかい? それらしいヒントを落としたつもりはなかったのだが……和泉くんの証言から私が犯人であることまですべて? だとしたら、名探偵とはまったく恐ろしいものだね。なあ、佐々木くん、もしよかったら――」
「金親先生!」
湊が割り込むように言った。
彼が発したとは思えないほど大きな声。叫び慣れていないのがよくわかる、いかにも不慣れな叫び声だった。
「なにも言っちゃいけない。なにも言わないでください……」
「ありがとう、湊くん。でも、いいんだ……いいんだよ。どうせ彼にはすべてわかっているんだ。今さら惨めに足掻こうとは思わない――だから佐々木くん、もしよかったら、君の推理をこの場にすべて開陳してはくれないか?」
「もちろんです」
小五郎は即答した。快諾と言っていい返事だった。
「――といっても、僕の推理は今まで話し、証明したものがほとんどすべてです。あと解決していない問題は、金親さんの犯行動機と甘木さんの部屋の密室だけでしょうか。予め明かしておきますと、僕は金親さんの犯行動機までは知りません」
「そこまで知られていたら、心を読まれているのかと思うところだったよ」
「小説の中の名探偵なら、そこまで突き止めるべきなのかもしれませんけどね。でも、生憎なことに僕は犯行動機というものにそこまで興味はないんです。特に殺人の犯行動機にはね。いかなる理由があっても、他者の生命を奪うことが正当化されることはないと思っているので」
「手厳しいね」
金親はしわがれた声で言った。
それから、ふっと頬を緩める。
「甘木の密室については解決済みということかな?」
小五郎は金親に合わせて、そっと微笑を浮かべた。
「そもそも、執事さんを金親先生が殺すことはできないんじゃ……だって、執事さんが殺されたとき、金親先生はあなたたちと遊戯室にいたんでしょ?」
まだ金親が犯人であることを認められていないのか、九条が噛みつくように捲し立てた。そんな彼女に、小五郎は首を振りながら答える。
「それは少し違います。たしかに、金親さんは僕たちと遊戯室にいましたが、それはあくまで火災報知器が鳴ったときは、という話です。まあ、つまり、金親さんは甘木さんの部屋で彼を殺害して、その足で遊戯室に来たというわけですね」
「でも、それじゃあ火は……」
「火も、それから密室も、金親さんが想定していたものではなかった。金親さんはただ甘木さんのお腹をナイフで刺しただけで、密室を作っても火を放ってもいないんです。そうですよね?」
小五郎が話を振ると、金親は鷹揚に頷いた。
「ああ、その通りだ。あの密室がどういったものだったのか、是非ご教授願えるかな?」
慇懃無礼の教科書みたいな口調で、金親は小五郎に問う。
小五郎は「簡単な話です」と不遜に口端を吊り上げた。
「あれは、金親さんに刺し殺された甘木さんが、最期の力を振り絞って行った隠蔽工作なんですよ」
「隠蔽工作?」
「そうです。甘木さんは誠実な執事でした。その忠誠は、たとえ腹をナイフで貫かれてもいささかも翳ることはなかったのです。甘木さんは殺されてなお、その犯人である金親さんを庇おうとした。そのために部屋に鍵をかけ、部屋に残留する証拠を自分諸共燃やしてしまおうと火を放ったわけです。甘木さんの死因は腹部を刺されたことによる失血死でした。なら、すぐに死んだわけではないでしょう。腹部から出血した人間がどれくらい意識を保つことができるのかは僕よりも皆さんの方が詳しいでしょうが、数分は動けたはずです」
数分と言わず数十秒あれば、部屋の鍵を閉めてライターに火を点すくらいのことはできたはずだ。恐るべきは、死に瀕しても生き足搔くことなく主人を守ろうと行動した甘木の忠誠心にある。
「まあ、部屋を密室にする必要はまったくないし、火を放つにしてもスプリンクラーの存在を失念していたわけですが、それは今際の際ならば仕方のないうっかりでしょう」
小五郎の推理を聞くと、金親は弱く目頭を揉んだ。
まさか感涙しているわけでもあるまい。殺しておいて、その殺した相手の忠義に涙を流しているようでは白々しいにも程があるが――しかしそれに関してはまだ濡れ衣だったようで、金親はどうやら泣いているわけではないらしかった。
泣きそうではあったのかもしれないが。
「甘木め……愚かな男だ。私などにそこまで……」
そっと置くように、金親は呟く。
私などに、と。その言葉に小五郎は蟀谷を反応させる。
「どうでしょう? 志賀野さんたちの金親さんを見る目を思うと、あなたに尽くしたくなる気持ちも理解できなくはないですけどね。僕は新参者なのでまだよくわかりませんが、あなたはそれほどの人なのでしょう」
「だが、私は裏切った」
「そうですね。手酷い裏切りです――甘木さんを殺したのは、執事である彼も隠し通路の存在を知っていたからですね? 柚木先生を殺すにあたって、隠し通路の存在を知っている人間は殺しておかなければならなかった」
「……その通りだよ」
小五郎は窓の外に視線を向けた。雨が上がった空は雲すら一筋もない。山の天気は変わりやすいということだろう。散りばめられた宝石のような星々がよく見える。地面はまだぬかるんでいるが、朝になって太陽が昇る頃には、車を出すこともできるようになっているだろう。
医者の面々は、気落ちしたように肩を落としていた。和泉は居心地悪そうに部屋の隅で小さくなっている。
「柚木先生を殺した理由を伺う前に、どうしてこの別荘にはあんな隠し通路があるのか訊いてもいいですか?」
「さて、どうしてだと思う?」
金親が挑戦的な視線を向けてくる。
「さあ? 金親さんに窃視趣味でもあるとか?」
あしらうように小五郎が言うと、金親は苦笑した。
「建築家の趣味だよ。隠し部屋というのは、日本ではメジャーではないが、海外では日本ほど珍しくもないみたいでね。アメリカ人の建築家に依頼したら、どうしても隠し通路を造りたいと言われてしまって……私も若くて、それが面白いと思ったから許可してしまった」
「へえ、そんな中村青司みたいな建築家って、現実にいるんですね……」
それが殺人に悪用されてしまっては、いよいよもって館シリーズめいているが。
小五郎の呑気な相槌に、志賀野が唇を甘噛みした。あまりに人情に欠ける小五郎の言葉に義憤を覚えたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。彼の内心は彼以外知る由もない。当の名探偵はそんなことにはまるで気付いた素振りもなく、「さて」と、空気を切り替えるように両手を打ち鳴らした。
「それじゃあ……ぶっちゃけあまり興味はないというか、あまりに興味がないのですが、一応、柚木先生を殺害した理由をお聞かせ願いますか?」
小五郎が言うと、金親は初めて躊躇いの色を見せる。
「好んで話したいとは思わないな」
「僕はそれでも一向に構わないですけど、教え子の皆さんが納得しないと思います」
志賀野を含む四人の医者は、一様に深く頷いた。その瞳は、真摯に金親に向けられている。
「……大した理由じゃない」
「大した理由でもないのに、柚木先生を殺したんですか?」
「他の人にとってはね。でも、私にとっては大きな理由だ。大義ですらある」
「大義ときましたか……また、強い言葉を使いますね」
先ほど、他者の声明を奪うことが正当化される事情などないと言ってしまった手前、小五郎としては居心地が悪い。いかなる理由があっても、犯罪者は法の裁きを受けてほしいと思っている小五郎ではあるが、犯罪者には一切同情しないというわけでもない。
殺すしかない。
そう思わせるだけのなにかを、あの柚木がしたとも思えないのだが。小五郎の記憶にいる彼は、金親のように他人に慕われるタイプの人間だ。
「その大義というのは?」
「医療過誤だよ。柚木くんは誤診した。美智子の病気を見落としたんだ」
「『美智子』というのは……金親さんの奥様の名前でしたね」
金親は視線で頷いて見せた。
「去年の三月辺りから、美智子は胸の痛みを訴え始めた。胸部痛だ。私は美智子の身内だし、現役を退いてもう長い。歳のせいにするつもりはないが、私はもう自分の診断能力を信頼できなくなっていた。だから、私は循環器の専門医である柚木くんに診察をお願いした」
「そして、誤診したと?」
「柚木くんは美智子の病気を逆流性食道炎と診断した。痛みが心窩部を中心に現れていたからだ。だが、美智子の本当の病気は心筋梗塞だった。気付いたときにはもう遅かったよ」
「心筋梗塞……ですか」
小五郎の知識にない医療の話が始まるのかと思って身構えていたところに、いきなり知っている単語が出てきた。だからといって、安心できるというわけでもない。
なんと言っていいかわからないでいる小五郎に変わるように、志賀野が口を開く。
「誤診といっても、心筋梗塞はよく逆流性食道炎と間違われる病気です」
「よく間違われるからこそ、腕のいい医者はそんな誤診はしない」
金親は断言するように言った。
「私は柚木くんの腕を信頼していたんだよ。信頼して、妻を預けた。なのに、誤診だ。しかも、心筋梗塞を逆流性食道炎と間違えるだなんて、そんな初歩的なミスを……私には赦せなかった。私が診ていればそんな見落としはなかったはずだ、という後悔も、私の中では殺意に転化されていった」
すると長谷川がたまらないとばかりに口を挟んだ。
「……美智子さんの胸部痛は大変軽度だったと聞いています。美智子さん本人も、診察では胸の痛みではなく胃のむかつきとして相談したそうではありませんか。一概に柚木さんを責めることは――」
「私は妻を失ったんだぞ。いつも言っているだろう。医者にとっては大勢いる患者のうちのひとりでしかなくとも、患者やその家族にとってはひとつしかない大切な人生なのだと」
暗く、冷たい怒りを孕んだ声で金親は言った。
それは、人の恐怖を根底から揺さぶるような声音で、小五郎は名探偵の演技すら忘れて震え上がった。
それでも。
「それでも、殺すべきではありませんでした」
小五郎は言う。
「君に私の気持ちがわかるのかい、佐々木くん」
「わかりません。わかりたくもありませんよ、金親さん。あなたのその、奥様への深い愛情が肚の中で殺意に転じたというのなら、僕はそれを知りたくない。誰かを愛することも、誰かに愛されることもしたくないです」
「それは無理だろうね。君も、人である以上」
金親は、彼らしくないアイロニカルな口吻でそう言った。
「……柚木さんは、俺のカウンセリングを受けていました」
長谷川がやるかたない感情を乗せた声で呟く。
「恩師の妻に誤診してしまったことをとても気に病んで――適応障害の所見でした。最近、やっと乗り越えて、過去の失敗を悔いるのではなくて、金親先生に償うためになにかしたいって、そう考えてくれるように……なって……」
「――彼は何度も謝ってくれたよ。誠意も感じた。しかし、私の殺意がそれを上回ったというだけの話だ」
金親の囁くような声が、書斎の床を愛しげに転がっていった。




