第8話 明暗トリック
「さて……事件の解決編に入る前に、少しお手洗いを借りますね」
小五郎は唖然とする一同にそう言って立ち上がる。
「おっとと」
足元が暗かったせいか、小五郎はなにかに足を取られて躓いた。よろけた先にいた金親と激しくぶつかる。
「すみません! 大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。そこまで心配しなくても。身体は丈夫なんだ。このくらいで怪我などしたりしない。でも、足元には気を付けてくれ」
「はい。気を付けます」
小五郎はスマートホンのライトを点灯して、リビングルームを退出した。
それから五分ほどで用を足して戻る。両手をカーディガンのポケットに突っ込んでいるのは、寒いからだ。まだそんな季節ではないはずだが、山の上は気温が低いからか、夜が深くなるにつれ気温が着々と下がっていた。
小五郎がリビングルームに戻ると、一同は立ち上がった。座ったままだったのは、湊くらいなものだ。まるで会社の重役にでもなったような気分である。医者に総立ちで迎えられるのは王子に傅かれているようで、決して悪い気分ではない。
「佐々木くん、真相がわかったというのは」
金親がひとり、厳めしい顔をしながら訊いてくる。そこには迫力があった。好々爺を気取っていたとしても、やはり老獪ということだろうか。彼はその骨ばった痩躯からは想像も付かないほどの気迫を備えている。
小五郎は少し気圧されたが、それでも男らしく気を取り直してこう言った。
「落ち着いてください、金親さん。お身体に障りますよ」
「さっきも言ったが、健康だけが取り柄のような老体だ。心配はいらない。それより、柚木くんを殺した犯人がわかったのかい?」
「甘木さんを殺した犯人もね――まあ、全員おかけください」
小五郎は全員を座らせると、ひとりだけ立ったまま、胸を張って講義を始めた。
「今回の事件は、性質そのものはありふれたものです。つまり、密室の中で人が死んだ。ふたりね。問題を複雑化させているのは、そのふたつの密室が違った意図の元、違った方法で制作されていたことが原因です」
「違った意図? ……まさか、犯人はふたりいるのか?」
「いいえ。犯人はひとりです。先ほど犯人複数説を提起したばかりの僕がこんなことを言うのもなんですが、まあ、さっきのは所謂ところの網羅推理というやつですので、悪しからず」
小五郎は悪びれることもなく言った。
「それぞれの密室のトリックに関しては、聞けばなんだと言わない人はいないでしょう。それくらい単純で、ありふれたものです。ミステリー小説だったら手垢でベタベタすぎて、逆に手が出しづらいくらいのトリックです」
「ありふれたトリック……」
「ああ、長谷川先生。違いますよ。湊先生が柚木先生の部屋に潜んでいたわけではありません――そうですね、まずはそこから説明していきますか」
小五郎は歩いて、九条に近付く。
座っている九条の横に小五郎が立つと、九条は蒼褪めた表情で俯いた。逃がさないとばかりに、小五郎は屈んで九条の顔を覗き込む。
「九条先生?」
「な、なによ?」
「僕がなにを訊きたいのか、既におわかりになっているのではありませんか? つまりね、九条先生。先ほど吐いた嘘を撤回してほしいのです」
「あたし、噓なんて……」
「九条先生。僕には既にすべてがわかっています。もちろん、あなたになにひとつ疚しいことなどないこともね。だから、恐れずに告白してください――あなたは和泉の悲鳴を聞いた後に、湊先生が部屋から出ていく音を聞いていた。そうですね?」
九条は目を背けた。肯定という意味だった。
「湊先生が『Pearl』の部屋から出たのが、和泉の悲鳴の後なら、『Alexandrite』の部屋に潜んでいた湊先生が和泉の横を抜けて、何食わぬ顔で合流した風に廊下に突っ立っていたという推理は成り立ちません」
「だが……さっき、九条はそんなことは覚えてないと……」
「保身ですよ、長谷川先生。湊先生への疑いが晴れてしまったら、今度は自分が疑われてしまうかもしれない。九条先生はそう考えて、湊先生にかけられた疑惑を払拭しないことにしたんです――そうですよね?」
「……そうよ」
九条は震える声で答えた。
身体がブルブルと蠢動している。そしてついにはテーブルを叩きながら立ち上がり、湊を睨むように見た。
「そうよ! 嘘よ! だってしょうがないでしょう⁉ あたしはなにもしてないのに、隣の部屋で人が殺されちゃったんだもの! 自分の身は自分で守らなきゃでしょ? だって、あたしは無実なんだから! 悪い⁉」
「善いか悪いかで言えば、嘘はもちろん悪いんですけどね」
小五郎は極めて冷たく言い放った。
そして、九条の肩に手を置いて無理やり座らせる。
「お座りください、九条先生――さて、これで『Alexandrite』の密室の謎はまた振り出しに戻ってしまったわけです。まあ、先ほども言った通り、密室の謎自体は至極単純です。密室の理由については、そうなってしまった、というのが正しいでしょうね」
「密室の理由?」
「犯人はどうして現場を密室にしたのか、という疑問です。密室というのは本来、殺人を自殺に見せかけるために使うトリックです。明らかな他殺体で現場を密室にする意味はまったくない」
「それが、佐々木の口振りからするに、偶発的にそうなってしまったわけだと?」
「その通りです。犯人が意図して密室にしたのではなく、結果的にそうなってしまったというだけ。甘木さんの事件と時系列が前後してしまいますが、そちらからお話ししましょうか」
小五郎は蝋燭にちらりと視線を向ける。蠟燭は、まだ充分な長さを持っていた。
「柚木先生は『Alexandrite』の部屋の中で亡くなっていました。死因はナイフで胸をひと突き。眠っている柚木先生を襲ったのでしょう。つまり、犯行は誰でも可能。女性でも、老人でもね」
小五郎は九条と金親をちらりと見る。
ふたりとも、静かに傾聴していた。
「死体の発見経緯は、和泉が『Alexandrite』の鍵の取り違えに気付いて、その鍵を届けてあげたことに起因します。まずは部屋の扉をノックして、返事がないので鍵を開けて中に入った。扉を開ける前、中から物音がしたというのも重要なファクターです。そして、もうひとつ重要なのが、和泉が証言した鏡の中の世界」
「その証言を信じるのか?」
「ちゃんとあとで説明しますよ。でも、まずは柚木先生の行動をトレースしましょう。柚木先生は二階に上がったあと、『Alexandrite』の部屋に入った。その時、鍵は使わなかった。外に出るときに鍵をかけるのを忘れがちな人だったそうですから、ありえない話ではないでしょう。だから、柚木先生がもっている鍵が『Ruby』の部屋の物で『Alexandrite』の鍵がリビングのテーブルの上に置きっぱなしであることにも、彼は気付かなかった。そして彼は寝る準備を始めたのでしょう。入眠前の彼のルーティンは僕の預かり知るところではありません。まあ、着替えるとか歯を磨くとかはしたかもしれませんが、ただ、ひとつだけ確実にしたといえることがあります」
「……それは?」
「施錠です。柚木先生は自分の部屋を内側から鍵をかけたでしょう。そしてその鍵は、和泉によって解錠されるまで開かれることはなかった」
「いや、それはおかしいでしょう」
と、九条。
「料理人さんが開けるまで鍵が開くことがなかったなら、どうやって犯人は柚木先生を殺すのよ……あ、いや……まさか、やっぱり料理人さんが犯人?」
「やっぱりってなんすか! 違うっすよ!」
「和泉、落ち着いて。九条先生も結論を急がないでください――ただ、九条先生の疑問は尤もです。犯人はどこから『Alexandrite』の部屋に侵入し、どこから脱出したのか。これはどう考えても、扉から出入りしたわけではなさそうだという結論を出さなければいけません」
「扉以外となると、窓からの出入りか?」
「客室の窓は二階にある上に天井近くに設置されていて、さらに高さが三十センチほどしかありません。そこから出入りするには、相当な細身で、かつアスリート並の身体能力を持っている必要があるでしょうね。つまり、現実的ではありません」
「なら、犯人はどこから……」
長谷川の疑問に、小五郎は対して厚みもない胸を張るようにして答えた。
「鏡の中から」
と。
その言葉に、長谷川は呆れたように目を細めた。またこの小僧はこちらをおちょくっているのかと、いくらか怒りを再燃させたようにも見えた。演出過剰は名探偵の推理開陳の醍醐味ではあるが、現実でやると反感をもらうものらしい。
小五郎は反省の意味を込めて空咳を払い、言葉を続けた。
「まあ、言葉で説明するよりも実際に見ていただいた方が百倍わかりやすいでしょうから、一旦移動しましょうか」
「移動? どこに?」
「本当は『Alexandrite』の部屋がいいのですが、あとで警察が来たときに現場を荒らしてない方がいいでしょうからね。僕の『Emerald』の部屋にしましょう」
そう言って、小五郎は燭台を持ってリビングルームを出ていった。後ろからは、それぞれの混乱を抱えた五人が付いてくる。
玄関ホールまで出向き、階段を上り、一番奥の『Emerald』の部屋へ。小五郎はポケットから緑色の石の嵌った鍵を取り出すと、鍵を開錠して部屋に入った。正面に壁、左に絵画、右に鏡とある。
「では皆さん。是非、スマホのライトを消してからお上がりください」
小五郎はそう言って、蠟燭を持ったまま部屋に上がり込んだ。その後ろを、続々と人が続く。具体的には、金親、長谷川、湊、和泉、九条の順番に小五郎の部屋に入ってきた。言われた通り、スマートホンのライトを消して。
客室は広々としていて、小五郎を含めた六人が入っても手狭ということはなかった。ただ、蠟燭の光源としての能力に限界があるようで、部屋の隅々まで照らせているというわけでもない。闇があるとそこに恐怖を感じるのは人の性のようで、九条はそわそわと貧乏揺すりをしていた。
一同の不安感を煽るのが小五郎の目的ではない。さっさと本題に入るかと、名探偵は蝋燭を吹き消した。
唯一の光源が消える。
部屋の中には深い闇が沈殿した。その闇の中を、小五郎の声が泳ぐ。
「鏡をご覧ください」
その言葉に一同は鏡に視線を向けた。
そして、見た。
無限を。
いや、違う。それはたしかに一瞬は無限に思える空間だったが、しかしそれは無限などという見慣れないものではない。
それは合わせ鏡を覗き込んだときに見える光景と似ていた。相違点があるとすれば、合わせ鏡ならばそこに映り込んでいるべき観測者自身の姿がないことくらいか。
また、沈黙が続いた。皆、それぞれの当惑を抱えて無言だった。
「……これは?」
最初に口を開いたのは、湊だった。
「見ての通り、無限の鏡です」
「無限の鏡っていうのは、合わせ鏡のことだったよな?」
「そうですね。鏡の中に鏡が映り込むことで起きる現象です。それ自体はよく見る光景ですし、人によっては毎朝使っているくらいでしょうけど、この鏡にはひと捻り加えられています。つまり、魔法がかけられているんですよ」
「魔法……マジックミラー……」
「湊先生は察しがよくて助かりますね――そう、やはり、客室の鏡はすべてマジックミラーになっているんです。マジックミラーは明るい側から見ると鏡のように反射し、暗い側から見るとガラスのように透過する性質を持っています」
「しかし、それは先ほどありえないという結論になっただろう。この鏡がマジックミラーだったら、どちらかの部屋から相手の部屋が見えてしまう。それに、この鏡がマジックミラーだとして、この光景は……」
「だから、百聞は一見に如かず、です」
捲し立てる長谷川の機先を制するように、小五郎は言った。
「志賀野さん! もう出てきていいですよ!」
小五郎が叫ぶように言うと、なんの前触れもなく壁の一部が動き、その向こう側の空間からスマートホンを持った志賀野の姿が現れた。
すっかり忘れていた男の唐突な登場に、一同は騒然とする。
「志賀野くん? どうして……」
「僕がさっきトイレに立ったときに食糧庫から解放したんです。閂を抜くだけだから、大した手間ではありませんしね。志賀野さんには僕のスマホを渡して、この隠し通路を先に探してもらっていたんです」
『五分ほどで用を足す』というのは、つまりそういう意味だった。
「あ、志賀野さん、その扉は閉めないでくださいね。おそらく、客室の中からは開けられない仕組みになっています」
「ああ、わかった」
志賀野は油を差していないブリキ人形のような動きで首肯する。
それから、気味の悪いものについて話すような口振りで、こう言った。
「しかし……君の推理は相変わらず凄まじいな。言われた場所を探したら、本当にこんなものが見つかってしまった」
「お褒めに預かり恐縮です」
「ちょっと待て、隠し通路?」
眉間に皺を寄せる長谷川を見て、小五郎は肩を竦める。
「まあ、気持ちはわかりますよ。こんなの邪道ですよね。密室だと思っていたら、なんの前触れもなく隠し通路が現れるなんて……カーが聞いたら墓を揺らして怒りますよ。でも、まったくのノーヒントだったわけじゃありません。和泉の証言がそのヒントだったんです。そして、この隠し通路が見つかってしまった以上、この部屋も、そして『Alexandrite』の部屋も密室とは言えない」
「それがなんだって言うのよ。それに、あの無限の……」
九条が上ずった声を上げるが、指さしたマジックミラーは既に普通の鏡のように振舞っていた。
「さっきは志賀野さんが壁の向こうでスマホのライトをつけていたからこちらからは透過して見えていましたけど、今はこちらの方が明るいので反射して見えています。この明暗こそが、鏡の中の世界のトリックなわけですね」
小五郎は志賀野から自分のスマートホンを受け取り、代わりに志賀野のスマートホンを返した。
「それでは行きましょう。鏡の中の世界へ」
小五郎は隠し通路に足を踏み込んだ。
そこはとても埃っぽく、暗く、陰気な場所だった。少し湿っぽいのは、外で降っている雨と関係があるのだろうか。広さとしては、人がひとりギリギリ歩ける程度の幅しかない。
そして鏡はやはりマジックミラーだった。壁の中からは『Emerald』の部屋が透けて見えていて、金親たちが続々と隠し通路に入ってくるのが見える。そのマジックミラーの反対側の壁には、また別のマジックミラーがあった。中に見えるのは、『Emerald』の隣の部屋である『Ruby』の部屋だろう。
小五郎はスマートホンのライトを点灯し、マジックミラーに向けた。すると、ガラスのように透けていた壁はたちまち鏡になり、『Emerald』の鏡と『Ruby』の鏡で合わせ鏡となった。
「先ほど目にした無限の空間は、つまりこれが原因で起こる事象です」
一列に並んだ一同の前で、小五郎は説明を始める。
「この壁の中の空間は、二枚のマジックミラーによって挟まれています。普段は壁の中の方が暗いので、部屋から見ると鏡に、壁の中から見るとガラスのように透けて見えるわけですが、壁の中の方が明るいときは、こうして合わせ鏡になってしまう――これを部屋の中から見ると、一枚目のマジックミラーはガラスのように透過して、奥のマジックミラーが見える。奥のマジックミラーは鏡のように反射するので、手前のマジックミラーを映す。手前のマジックミラーは奥から見ると鏡なので、また奥のマジックミラーを反射して映し出す。以下、それが無限に繰り返される。こうして『無限の空間』が作り出されるわけです」
「じゃあ、俺が見た鏡の中の世界って……」
「マジックミラー越しに見た、ただの合わせ鏡だ」
和泉が息を呑んだ。
「そしてつまり、和泉がその鏡の中の世界を見たとき、壁の中は部屋の中より明るかったということ。それはとりもなおさず、壁の中にまだ犯人がいたということになります」
小五郎は、ものは試しにとマジックミラーに指をくっつけてみた。するとどうだろう。本物の指と鏡像の指がぴったりとくっついている。なにかのSNSで見た、マジックミラーと鏡を識別する方法。
そんなことをするまでもなくこの鏡がマジックミラーであることは明白なのだが。小五郎が確かめたのは、この鏡がマジックミラーであるかどうかではなく、インターネットで得た知識が本当なのかどうかである。
「おそらく犯人は、柚木先生を殺害したあと『Alexandrite』の密室を解除するつもりだったのだと思います。そうでないと、隠し通路の存在を疑われかねませんからね。だけど間の悪いことに、和泉が柚木先生を訪ねてきてしまったせいで鍵を開錠できなくなってしまった。犯人は仕方なく、隠し通路に逃げ込む。和泉が聞いた物音は、おそらく隠し扉の駆動音でしょうね。ああ、もちろん、和泉が鏡の中に見た人影っていうのは、犯人の姿です」
「誰なの! その犯人って!」
九条の言葉は意図的に無視して、小五郎は隠し通路を進んだ。
壁の中の通路は外壁に向かって伸びている。外壁も、また通路になっていた。男の肩幅では真っ直ぐ歩くことも難しいほどに狭い。
「ああ……客室の窓が高いのは、この空間を確保するためだったのか……」
小五郎はふと思って呟いたが、それに返事をする者はいなかった。
外壁を東に向かって進むと、すぐに突き当たった、これは別荘の南東の角だろう。左に伸びている通路は東の外壁。『Emerald』の部屋の、絵画の飾ってある壁の中だ。
真っ直ぐ歩くのも難しいので、小五郎は横向きでカニのように歩く。虫かなにかを見たのか、九条が短い悲鳴を上げた。小五郎はその悲鳴を聞きながら、ホラーゲームのようだな、と頭の片隅で考える。
そのまま十メートルほど進むと、出口は現れた。
いや、それは入り口なのかもしれないが。
隠し通路の突き当りに扉があり、それは今、開きっぱなしになっている。小五郎はそこを通って、壁の中から再び部屋の中へ戻った。
「ここは……」
「見ての通り、金親さんの書斎です。本棚が隠し通路に入るための扉になっていたわけですね。古典的といえば古典的ですけど、むしろこれは古いというよりロマンがあると表現した方がいいでしょう――志賀野さん、鍵を」
小五郎が手を差し出すと、その上に志賀野が鍵を置いた。それは宝石のはめ込まれた煌びやかな鍵ではなく、ただの武骨なスケルトンキーである。
「隠し通路の存在に思い至った瞬間から、犯人はあなたしかいないと思っていました。この別荘の主であるあなたが、隠し通路の存在を知らないわけがありませんから」
それはトイレに立つ直前、小五郎がわざとぶつかってすり盗っていた、書斎の鍵。
それを小五郎は、持ち主に返した。
「犯人はあなたですね? 金親さん」




