第7話 探偵ではない名探偵
しばらくの沈黙を、場が支配した。こうして全員が押し黙るのは本日何度目だろうと、小五郎は白々しく考える。
リビングルームの机の上に置かれた蝋燭は、その役目を終えようとしていた。小五郎は横に措いてあった二本目の蝋燭を手に持って、火を移して燭台に立てる。挙措は名探偵を意識して優雅さを演出した。
「……探偵だったの?」
二本目の蝋燭の火が揺れ始めると、九条が訝しげに眉根を寄せた。小五郎は肩を竦めて答える。
「探偵ではありません。名探偵です」
「言葉遊びはどうでもいいのよ!」
九条はがなるように言った。
社長夫人なだけあって、彼女の威嚇はそれなりに迫力があったが、小五郎は顔に張り付けた笑みをはがさない。名探偵はその程度の脅しには怯まないからだ。だから、名探偵を演じる小五郎も九条のヒステリーをいなすことができる。
「探偵だか名探偵だか知らないけど、この状況で変なことを言い出さないで頂戴。これ以上場を混乱させないで。もういっぱいいっぱいなの。あたしは殺されそうになったのよ⁉」
「果たして犯人は、本当に九条先生と柚木先生を間違えたんですかね?」
まずはここから取り掛かろう。
小五郎は頭の中で今後の展開を計算しながら、九条に向き合った。九条は小五郎の場にそぐわない薄ら笑いに怯んだあと、もごもごと言葉を継ぐ。
「だって……そうでしょ。『Alexandrite』は元々はあたしの部屋だったんだから」
「でも、交換した。もし犯人が九条先生と柚木先生を間違えたのなら、犯人はその部屋の交換を知らなかったことになります。僕と長谷川先生、和泉はリビングルームで部屋の交換の話を他ならぬ九条先生から聞きました。金親先生はご存知でしたか?」
「もちろん。甘木から聞かされていたよ」
それはそうだろう。九条はわからなかったが、柚木が別荘の主の許可もなく、勝手に与えられた部屋を交換するとは思えない。甘木か金親にひと声かけただろうし、甘木は金親に話を通したはずだ。実際、そうだったらしい。
「なら、この中で九条先生の部屋の交換を知らなかった人は、湊先生だけということになります」
「やっぱり湊が……」
「長谷川先生、結論を焦らないでください」
小五郎は指を振って長谷川を牽制する。
長谷川は、今にも湊に飛び掛かりそうな気配を出していた。柚木への信愛の裏返しだと思うと咎めるのも気が引けるが、停電した館の中で殴り合いの喧嘩なんて始まったらひとたまりもない。
「犯人が九条先生と柚木先生を間違えて殺害したのだとしたら、犯人は部屋の交換を知らなかっただけでなく、元々の九条先生に割り振られた部屋が『Alexandrite』であったことを知っている必要があります――湊先生、どうです? 九条先生の部屋をご存知でしたか?」
湊はやはり口では答えなかったが、しかしたしかに首を振って応えた。
「なら、湊先生は少なくとも、九条先生と柚木先生を間違えたわけではなさそうですね」
「嘘を吐いてるかもしれないでしょ!」
「なら、どうやって湊先生は九条先生の元々の部屋が『Alexandrite』であることを知るんですか? 僕たち宿泊客が他の宿泊客の部屋を知るには、本人から聞き出すか部屋の出入りを直接見るかしかありません。九条先生が実際に出入りしていた部屋は『Diamond』なんですから、湊先生が柚木先生の部屋と九条先生の部屋を間違えるわけがありませんよ」
「じゃあ……入る部屋を間違えたとか。廊下は停電で暗かったし、『Diamond』の部屋に入ろうとして、間違って『Alexandrite』の部屋に入っちゃった可能性だってあるでしょ?」
この女医はどうしても自分を被害者だと思いたいらしい。
あるいは、そういう風に誤解させて自分が犯人の候補から外れるつもりなのかもしれないが。だとしたら、なかなかの策士ではある。
「それも湊先生を犯人と仮定するならありえないですね。この別荘の二階の客室は、東側から順番に『Emerald』『Ruby』『Sapphire』『Alexandrite』『Diamond』『Pearl』と並んでいます。湊先生の部屋は『Pearl』です。『Diamond』は隣の部屋だ。いくら廊下が暗くても、隣の部屋とふたつ隣の部屋を間違えることなんてありえませんよ」
「なら、犯人は別の誰かで……たとえば一階から上がってきた料理人さんが、部屋を間違えたとか。そういえば、凶器も包丁だったし」
「料理人が人を殺すのに包丁使うわけないじゃないっすか」
和泉は不満そうに口を尖らせたが、正直なところ、凶器のナイフを見て小五郎が最初に連想したのは和泉の姿だった。
「和泉が部屋を間違えた可能性もありませんよ。もし犯人が九条先生を狙っていたのだとしたら、そもそも『Diamond』の部屋に入る方法を用意してないといけません。けど、和泉には『Diamond』の部屋に入る方法がありませんから――というか、人を殺すために部屋に侵入するのに、部屋の名前をちゃんと確認しない奴なんていないでしょ」
そんなドジが犯人だったら、なんとも言えない結末になってしまう。表題は『おっちょこちょいな犯人』で決まりだ。売れないこと請け合いである。
九条はこれ以上自分を被害者にする手段が思いつかなかったのか、一旦黙った。あくまで一旦といった様子だ。いかにも不満そうな顔。思い付き次第、また殺されかけたと主張してきそうではある。
溜め息を吐きたい気分だったが、それは呑みこんで、小五郎は得意げな顔をしながらカーディガンの襟を直した。英国風スリーピーススーツでも着ていれば名探偵の演技も板に付いていたかもしれないが、ないものはない。
「犯人の動機はどうでもいい。重要なのは、現実的に考えて、犯行可能な人間が湊しかいないということだ」
長谷川が言った。
まだその推理に固執しているようである。
湊犯人説はたしかにしっくりくる推理ではあるが、小五郎としてはあまり納得がいっていない。ミステリーとして美しくない回答だから、と思うのは、ミステリーに毒されているのか演じる名探偵に毒されているのか。
もちろん、長谷川の推理にはいくつか細かい瑕疵が見当たるのだが、九条の被害妄想のように明確な矛盾点を上げることはできない。小五郎としては口を噤むしかなかった。
長谷川が強く湊を睨むと、湊は視線を床に逃がす。その視線の移動は様々な捉え方ができる動きだったが、長谷川がどう捉えたかは問うまでもないことだった。
「長谷川くん。少し、思考が凝り固まっているんじゃないかい?」
「……金親先生」
金親が長谷川を窘めると、彼は少し気まずそうに鼻白んだ。
長谷川も金親には頭が上がらないということだろう。金親の、年の功というか、人徳がひとまず場を収めた形である。
老医は長谷川に優しい笑みを見せると、今度は俯く湊に声をかけた。
「湊くん、なにか否定の材料となる証言はできないだろうか。私には君が柚木くんを殺したとはどうしても思えない」
金親が優しく語りかけると、湊は俯いていた顔を僅かに上げた。上目遣いというか、前髪の隙間から見るようにして、一同に視線を送る。
小五郎とも目が合った。しかし、たちどころに逸らされてしまう。
たっぷり十秒ほど経ったあと、湊はぼそりぼそりと呟き始めた。
「……俺が部屋を出たのは、料理人の悲鳴を聞いた後だ。その音を、九条が聞いてるはず」
「九条くん、どうだい?」
「……覚えてないわよ、そんなの」
九条は拗ねるようにして言った。
湊としては梯子を外されてしまったわけである。少し表現として的確ではないかもしれないが。しかし、長谷川が湊への疑いを深くしたのは、その表情を見るだけでよくわかった。疑いは確信へ、怒りは憎しみへ、その瞳の中で姿を変えていく。
「まあ、だからといって湊先生が犯人だとは限りませんよ」
あまり空気がよろしくないので、小五郎は軽い声音で口を挟んだ。
長谷川がギロリと睨んでくる。強い敵意の含まれた視線だ。そろそろ彼の堪忍袋が限界かもしれないと、小五郎は内心で焦り始めた。もちろん、表情には出さない。
「犯人が柚木先生の部屋を脱出したあと、湊先生が部屋から出てくるまでのわずかな間に自分の部屋に逃げ込んだ可能性だってあります。つまり、柚木先生の隣の部屋の九条先生ならそれができる」
「その可能性を考慮するなら、自分で言うのもなんだが、私も犯人に含まれてしまうだろうね。柚木くんの部屋から脱出したあと、書斎に逃げ込むことも可能かもしれない」
金親が骨ばった指で自分を指しながら言った。
「そうですか? それはさすがに難しいと思いますが……まあ、金親さんがご自身でそう仰るなら、金親さんも不可能というわけではないし、和泉が犯人の可能性もある——もっと言うと、犯人が複数人ならいくらでも考えようがあります。たとえば、僕と長谷川先生が組んでいたら、和泉がトイレに立った隙に柚木先生を殺して戻ってくることだって、できないことはないでしょうから」
「徒に犯人の候補を広げるなよ、佐々木。柚木さんの部屋が密室だった以上、犯人が複数だろうと単数だろうと、考えられる可能性はそう多くない。『Alexandrite』の鍵はリビングにあったんだからな。それに、俺と君がグルじゃないことは、君が一番よくわかってるだろ」
「さあ、どうでしょう。わかりませんよ?」
「……お前、いい加減にしろよ」
小五郎が飄々と答えると、長谷川が震えるような怒声を上げた。彼の目が僅かに充血して見えるのは、睡眠不足だけが原因ではないだろう。
名探偵がその無遠慮な言動で人の神経を逆撫でしてしまうというのは、いわばミステリーにおける探偵役のお約束であり、様式美ですらあるのだが、そこまで演じなくてもよかったと小五郎は後悔した。
後悔はしたが、反省はしない。謝りもしない。
ただ、激昂した長谷川の正眼に捉え、不敵にも不気味にも見える微笑を顔に浮かべ続ける。二回りも歳上の男に怒鳴られて、それで怯みもへこたれもしなかったのは、もちろん名探偵のペルソナのお陰だった。
謂われなき怒りを他人から向けられたときは申し訳なさそうにするのが鉄則だが、謂われある怒りを他人から向けられたときは、逆に堂々としておく方が却って被害を少なく済ませることができる、というのが小五郎の哲学だ。
悪くないときは悪びれて、悪いときは悪びれない。
天邪鬼というか、シンプルに低劣な考え方かもしれないが、今回の場合に限っては、小五郎の超然とした態度は長谷川の気炎を僅かに削いだ。もっと簡単に言うと長谷川は委縮した。それほど小五郎の演技は堂に入っているのである。
「長谷川先生、柚木先生を殺した犯人を憎らしく思う気持ちはお察しします。ですが、冤罪でまったく関係ない人を攻撃されては始末におえません。ここはひとまず、名探偵たる僕が真犯人を解き明かすまでその怒りの矛先を収めてはいただけませんか?」
「……わかるってのか? 俺の気持ちが」
その言葉は煮えたぎる湯のようだった。なにかの刺激で弾けてしまうような危うさがある。
ここは慎重に答えた方がいいだろうと、小五郎は少し言葉を溜めた。名探偵は無神経だが、思ったことをなんでもポンポン口にするわけではない。
小五郎は長谷川の充血した目と視線を絡ませて、それから細く息を吐いて、首を左右に振った。
「……残念ですが、僕には、長谷川先生のお気持ちを完璧に理解することはできません。名探偵とはいえ、なんでもかんでもわかってしまうわけではないんです」
そして、続ける。
「僕《名探偵》にわかることなんて、精々この事件の真相くらいなものです」




