第6話 再演
「予め言っておくが、自殺の可能性はない」
現場保存のため、一同はリビングルームに移動した。
九条と金親は寝間着から着替えている。九条はワンピース、金親はタートルネックのニットを着ていた。湊はワイシャツだけでは寒くなったのか、上から黒のパーカーを羽織っている。
リビングルームの蝋燭はもうすぐその寿命を終えようとしていた。最後の輝きとばかりに強く揺らめくその灯に、長谷川の沈痛な表情が影を作る。
「検死はしてませんよね? どうして自殺じゃないとわかるんですか?」
「柚木さんが自殺なんてするわけないからだ」
端的に、それ故反論を許さない口調で長谷川は答えた。
小五郎は閉口する。
「柚木さんを殺したのは誰だ……」
長谷川は震える声で言った。怒りに震える声で。
大恩ある旧知の先輩を殺されて、憤懣やるかたないといった様子。さもありなんと言ったところだ。
これで演技だったら大した名優だが、彼が犯人である可能性は小五郎視点ではありえない。理由として、生きている柚木を最後に見てから彼の遺体を発見するまで、小五郎と長谷川はずっと一緒にいたからだ。逆もまた然りで、長谷川の視点で小五郎は犯人ではない。
「柚木さんを殺したのは誰だ!」
今度は叫ぶようにして、長谷川が言った。
拳で机を叩きながら。机は強くがたりと揺れ、九条は怯えたように肩を跳ねさせる。
「……怪人っす」
柚木の遺体を発見してからこっち、ずっと身体を震わせていた和泉が、やっと口を開いた。その表情は蝋燭の赤い光の中でも蒼褪めていて、唇は土気色に見える。
「怪人? どういうことだ」
「柚木さんを殺したのは怪人っす。俺、見たんす」
「お前……この状況で訳のわからないことを――」
拳を握ったまま立ち上がった長谷川と和泉の間に、小五郎が割って入る。
「まあまあ、長谷川先生。彼は第一発見者です。まずは話を全部聞きましょう」
小五郎は椅子を引いて、長谷川を座らせる。
それから和泉に向き直って、その震える肩に優しく手を置いた。
「和泉。お前が見た物を全部話してくれるか? ゆっくりでいいし、正確じゃなくても、荒唐無稽でもいいから」
「……はい」
カクカクと頷く和泉の隣に椅子を持ってきて、小五郎も腰を下ろす。すると、和泉はポツリポツリと語り出した。
「俺、柚木さんの鍵の取り違えに気付いて、柚木さんに鍵を届けに行ったっす。九条さんの話で、柚木さんの部屋は『Alexandrite』だって聞いてたから、真っ直ぐ……それで、扉をノックしたんすけど、柚木さんの返事なくて……」
「それで?」
「最初は寝てるのかと思ったんすけど、中からちょっとだけ物音がして」
「物音?」
「そうっす。ガサゴソって。だから、やっぱり起きてるのかと思って、もう一回呼びかけたんすけど、やっぱり返事がなくて……それで、なんか変だと思って、扉を開けたんす」
「開いたのか?」
「いや、最初は鍵がかかってたんすけど、鍵、持ってたんで」
他人の部屋を無断で開錠するとは、なかなか豪儀な性格をしていると思ったが、茶々を入れるタイミングではないので小五郎はなにも言わなかった。
「それで、部屋に入ったんすけど、最初は誰もいないと思って……柚木さん、最初は布団被ってたんす。でも、足が出てるし、その足がぴくりとも動かないんで、嫌な予感がして、布団を捲ったら……」
その胸から、武骨なナイフが生えていたわけだ。
それはまあ、叫ぶだろうし、尻餅もつくだろう。あまりのショックにしばらく震えが止まらないのも納得はできる。しかし、怪人は?
それに、今の話を総括すると、
「てことは、またしても密室だったってことか?」
ということになる。
甘木の事件に続いて、またしても密室殺人。もはやいかがわしいまでの作意すら感じる。
「まあ、密室って言っても、単純に部屋の中に隠れてて、和泉が腰を抜かしてる間にそっと部屋から抜け出したって、それだけの話だろうけど」
「和泉が犯人じゃないならな」
「違うっすよ」
と、抗議する和泉。
しかしそれは、自分は犯人ではないという意味の抗議ではなかったようで、彼はこう言葉を続けた。
「犯人は鏡から逃げたんす」
「……は?」
「犯人は鏡の中に入っていったんすよ。俺、見たっす。鏡の端っこを、人が横切ってくの。それに、鏡の中がめっちゃ広くて、ホント、無限くらい空間があったっす。あれ、鏡の世界っすよ。それに驚いて俺、叫び声をあげたんす」
「………」
全員が沈黙した。
つまり、誰も和泉の話を信じていなかったのだ。小五郎もそのひとりだった。かの有名なルイス・キャロルの作品『不思議の国のアリス』には、続編となる『鏡の国のアリス』という作品があるが、それはどんな物語だったかな、なんて空々しいことを考えていた。
鏡の世界――入れたとしても入りたいとは思わないが、そもそもそんな物はないので、考える必要はない。
「どれ、俺が診てやろうか? 運のいいことに、俺は精神科医だ」
「長谷川先生」
小五郎は窘める。
そして和泉の肩に再び手を置いた。
「和泉、もう少し詳細に状況を説明してくれないか? お前の言ってることを頭ごなしに否定するつもりはないけど、長谷川先生の気持ちも斟酌してくれ。親しい人を殺されたんだ。犯人が怪人です、じゃあ納得できないだろ」
「って言われても、マジで見たんすよ、俺。鏡の中に広大な空間があって、その中に人がチラッといたのが見えたんす」
「鏡の中の空間は? 広大って、どれくらいの空間だった?」
「だから、無限っす――あ、いや……暗くてよく見えなかったから、ホントはそんなに奥行きはなかったのかもしれないっすけど、でも、十メートルは絶対にあったっす」
「十メートルね……」
一気に信憑性が落ちた。鏡の中に十メートルの空間は、無限の空間と意味合いとしては変わらない。どちらも、到底信じられないという意味で。何故なら、そこには隣の部屋があるからだ。
「『Alexandrite』は入って左側の壁に鏡がありましたね。僕の部屋とは鏡合わせだ。あの部屋の左隣の部屋はどこでしたっけ?」
「『Sapphire』――俺の部屋だ」
長谷川が答えた。
「てことは、その部屋は一応、無人だったわけですか……」
「まさか、俺の部屋に誰かがいたとでも? 柚木さんを殺した犯人は壁を透過して俺の部屋に逃げ込み、和泉は壁を透視してそれを見たわけだ」
「壁を透視するのは難しいですけど、鏡なら或いは……」
もちろん鏡の裏にも壁があるはずだが、それはただの思い込みで、そこに壁はないのだとしたら。透視すべきは、鏡だけでいいということになる。そして都合のいいことに、この世界には透ける鏡というものが存在する。
「……マジックミラーか?」
長谷川が片眉を上げた。
小五郎は小さく首肯する。核心を突いた推理をしたつもりだったが、しかし、それは和泉が否定した。
「ありえないっすよ。ベッドとか椅子とかなかったっすもん。あれは隣の部屋じゃないっす。鏡の中の世界っすよ。絶対」
和泉は唾を飛ばしながら主張したが、当然のように全員無視した。
「……あの鏡がマジックミラーになってるなら、俺か柚木さんが昼のうちに気付いてるはずだろ。どっちかからは、相手の部屋が丸見えになってるんだから」
「そうかもしれませんけど、そうじゃないかもしれません――『Alexandrite』の部屋と『Sapphire』の部屋って、鏡合わせになってるんじゃないですか?」
「そうだが?」
「『Alexandrite』の部屋と『Sapphire』の部屋が鏡合わせになっているなら、透けて見えている隣の部屋を、鏡に映った自分の部屋だと勘違いした可能性もあります。まさか、隣の部屋が透けて見えてるなんて夢に思わないだろうし、気付けなくても違和感はありません」
「そうだな。そして自分の姿が鏡に映ってないことにも気付かなかったことにも違和感はないな」
「………」
小五郎は押し黙った。
その通りだった。隣の部屋を鏡に映った自分の部屋だと勘違いする可能性は無きにしも非ずかもしれないが、自分が映っていないことに気付かない人間はいない。吸血鬼でもない限り、鏡に映らなくなったら一大事だ。
柚木が実は吸血鬼だった、というのがこの一件のオチなら満点大笑いだが。心臓を貫かれて死んだのも、そうなると納得のいく死因ではある。吸血鬼はたしか、心臓を杭で貫かれたら死ぬのだったか。
「そもそも、客室の鏡は普通の鏡だよ」
金親がそう言ったので、小五郎の推理は烏有に帰した。ミステリー小説としては悪くない推理だったが、現実的には無理がありすぎる。むしろ、ミステリー小説の読みすぎなのかもしれない。
「なら、やっぱり犯人は和泉の横を抜けて柚木さんの部屋から脱出したんだろうな」
「それもそれで無理のある推理な気がしますけどね」
「どうして?」
「だって、和泉は別荘中に響くような大声を出したんですよ? 僕はリビングから駆け付けましたから到着が遅れましたけど、他の客室で寝ていた方たちはすぐに廊下の様子を窺ったはずです。和泉の横を抜けて廊下に脱出したら、その人たちとバッティングしちゃうでしょ」
「だから、可能性はふたつだ」
長谷川は指を二本立てる。
「ひとつ、やっぱり犯人は和泉。今の証言は全部虚言の可能性」
「……違うっすよ」
和泉は不満そうに長谷川を睨む。
「もちろん。この線は実はあまり追ってない。殺人の偽証として、鏡の世界がうんたらと言うのはあまりに意味不明すぎる。和泉が見たのはなにかの見間違いだとは思うが、和泉のことはそこまで疑ってない」
長谷川は中指を折って、立てた指を一本にした。
まるで探偵がそうするような、気障な演出だ。
「なら、もうひとつの可能性は?」
「犯人はやっぱり和泉の横を通り抜けて廊下に飛び出した。ただし、逃げたわけじゃない。廊下に脱出した犯人は、そのまま振り返って、悲鳴を聞きつけて駆け付けた人間のひとりのように振舞った――なあ、湊、違うか?」
突然槍玉に上げられた湊だったが、やはりというか、彼は沈黙を貫いた。
長谷川の推理はオリジナリティには欠けるが、推理としては現実的でもあった。たしかにそれなら、和泉の証言を除くすべての事象に説明が付く。説明が付いてしまう。小五郎と長谷川が二階に駆け付けたとき、唯一廊下に立っていたのは湊だけだった。今の長谷川の推理を真とするなら、犯人足り得るのは湊だけだ。
湊が沈黙を貫いているのは、反論が難しいからかもしれない。
あるいは、図星だからかもしれないが。
「……なんとか言えよ、湊」
しかしというか、この場合における沈黙はあまりよろしい選択ではなかったらしい。沈黙は金、雄弁は銀と言うが、この場合は銀を選ぶべきだったのだ。
長谷川は声を震わせた。ギリリと歯が軋む音が聞こえてくる。
湊の沈黙は、黙秘のようにも見えた。それはすべての国民に与えられた当たり前の権利かもしれないが、彼が真犯人なら、卑怯な言い逃れと取ることもできる。そして長谷川は、そういう風に捉えたようだった。
「なんでなにも言わない!」
怒髪天を衝くとはこのことだ。
そう思えるほどの気迫を伴った怒声だった。その絶叫に、雨に打たれる窓ガラスがビリリと振動する。そういう錯覚すら覚える。
湊は依然、なにも言わなかった。
その態度が彼の立場を悪くしていると、知ってか知らずか。
「湊先生に柚木先生を殺す動機はあるんですか?」
「……柚木先生は殺されるような人じゃない」
「なら――」
「もしかして」
と、ここで口を挟んだのはこれまで湊同様に沈黙を貫いていた九条だった。
彼女はなにか恐ろしい考えを思い付いたかのように、短く綺麗に揃えられた指先を紅の乗っていない唇に当てている。
「私を殺そうとしたんじゃないの?」
「九条さんを?」
「だって、柚木先生の部屋って元々はあたしの部屋だったのよ? なら、あたしが狙われた可能性だってあるじゃない!」
「なにか狙われるような心当たりでも?」
「知らないわよ!」
九条は自分の頭を抱え、いやいやをする子供のように首を振っている。
もう、カオスだった。
長谷川は完全に湊をロックオンしてしまったようだし、その湊は無言。九条は被害妄想でヒステリーを起こしているし、和泉はこの期に及んで「怪人の仕業っすよ。絶対そうっす」とぼやいている。
小五郎は一縷の望みをかけて金親を見たが、彼もこの状況に疲弊しているのか、眉間の皺を深くして俯いていた。
「はあ……」
小五郎は長大息を吐いて、窓の外に視線を向ける。雨は、まだ降り止みそうにない。
「仕方がありませんね」
不意に、そんな言葉が口を衝いて出た。
これは本当に口を衝いて出た言葉だった。不意でもあるし、不慮でもある。それは奇しくも、あのペンションでそれと同じ言葉で、同じ声音だった。一度あることは二度あるということだろう。二度とやるかと誓った演技を、今一度しなければならないらしい。
そう、こうなっては仕方がない。
小五郎は芝居がかった口調で言って、両手を広げた。
「こうなっては隠しておけません」
「……なにを?」
長谷川の相槌に、小五郎は不敵な笑みを浮かべて、言った。
「実は僕、名探偵なんですよ。だからご安心ください。一見不可解なこの事件、僕が見事に解き明かして見せますから」
名探偵の再来。
いや、再演である。




