第5話 カラーチェンジ
「僕はもう寝るよ。この歳になると夜更かしはキツくてね」
志賀野を除いた全員でリビングルームに戻ると、柚木がいの一番に言った。
実際、彼は眠そうにしている。この状況で眠たくなるのも肝が太いとは思うが、雨が上がりそうにない今、この別荘で夜を明かすのは確定しているようなものなので、早寝は意外と悪くない選択肢なのかもしれない。
柚木はポケットから志賀野のスマートホンを出すと、それを机の上に置いた。それから、鍵を一本取り出してそれを蝋燭の火に翳すと、それも机に置いてリビングを去っていった。
「私も休ませてもらう。申し訳ないね、ホストなのに」
今度は金親が言う。
「いえ、ゆっくり休んでください。甘木さんのことはご愁傷様でした」
長谷川が目を伏せると、金親は「ありがとう」と答えた。
金親が去ると、今度は湊が立ち上がった。彼はやはり無言のままリビングを出ていく。その背中を見送った長谷川が、小さく鼻を鳴らした。
「おやすみのひと言くらいあってもいいだろうに。気取った女みたいな奴だ――なあ、あいつの部屋の名前を知ってるか?」
長谷川は全員に向かって言葉を投げたが、答える人間はいなかった。九条も和泉も、むっつりと黙り込んでいる。湊の部屋の名前を知らないから答えないのか、シンプルに無視しているのか、判断に悩むところだ。
沈黙が重いので、仕方なく小五郎が口を開く。
「……いえ、知りません」
「『Pearl』だよ。つまり真珠。石言葉は純潔だ」
長谷川は面白いことを言ったみたいな顔をしたが、小五郎にはそのセンスは理解できなかった。咄嗟に繕った愛想笑いが、蝋燭の灯に揺らめく。
「部屋の名前といえば、僕の部屋は『Emerald』でしたね。志賀野さんの部屋は『Ruby』でした。やっぱり、すべての部屋が宝石の名前になってるんですかね?」
「俺の部屋は『Sapphire』だった。九条は?」
長谷川に水を向けられた九条は、嘆息しながら立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
「寝るのよ。そんな気分じゃないけど、寝不足で山を下りることになるよりは寝といた方が良いでしょ? 旦那の車だから、こすったりしたら最悪だし」
既婚者だったのか、小五郎は内心で驚嘆し、納得した。
九条は傍目に華やかな容姿をしている。加えて女医。印象的には少し性格に難があるように思うが、それを加味してもハイスペックな女性であることは疑いようもない事実だろう。言い寄る男は山のようにいたはずだ。
「それじゃあ皆さん、おやすみ」
当てこすりみたいに強調された『おやすみ』だった。
どうやら先ほどの長谷川の発言を、気分良く聞いていたわけではないらしい。
「待てよ」
「……なにかしら? 長谷川せんせい」
「俺の質問は無視か? 部屋の名前、訊いたんだが」
嫌に攻撃的な声音だ。当てこすりに腹を立てたのかもしれない。
九条も長谷川も、医者っぽい医者だった。つまり、プライドが高そうという意味で。こんな状況で喧嘩なんてされたらたまったものではないぞ、と小五郎は内心で冷や汗を垂らす。
しかし、そこのところはふたりとも大人だった。無為な喧嘩を好んでするほど若くはない。
「『Diamond』よ」
九条は透明な石のはまった鍵をスカートのポケットから取り出して、ひらひらとさせながら答えた。
「割り振られたのは『Alexandrite』だったんだけど、ダイアの方が好きだから柚木先生と交換してもらったの。だから、柚木先生の部屋の名前は『Alexandrite』ね。客室は全部宝石の名前になってるんじゃないの?」
それだけ言って、九条はスマートホンの画面を光源にしてリビングルームを出ていった。
リビングルームには小五郎、長谷川、和泉だけが残される。
「そういえば、鍵にはめ込まれた石って、本物の宝石なんですかね?」
「さあ? さすがにイミテーションだろ」
「いや、本物っすよ」
と、和泉が口を挟んでくる。
「甘木さんが前に言ってたっす。『だから、客室の合鍵は作れない』って」
「客室の鍵に本物の宝石をはめ込んでるのか?」
「そうらしいっすね」
「どうしてそんなことを?」
「理由までは聞いてないっす。金持ちってやることが違うなー、とは思ったっすけど、まあ俺には関係ないしどうでもいいかって」
現代の若者らしい、なんとも無気力なことを言っている。そこら辺の力の抜き具合は、小五郎も見習っていきたいところだ。ポケットのエメラルドに過剰な重さを感じている場合ではない。
「あれ? 和泉って、住み込みで働いてるわけじゃないんだよな?」
「そうっすね。必要なときだけ呼ばれて、料理してる感じっす」
「なら、泊まるときの部屋はどうしてるんだ?」
「一階の使用人部屋を使ってるっすよ」
「今晩もそこで寝るのか?」
「まあ、寝るならそうなるっすね」
「……大丈夫か?」
「なにがっすか?」
「いや……一階はその、甘木さんの遺体があるだろ。まだ焦げ臭いだろうし、気持ちよく寝れるとは思えないんだが」
死体の寝かせられた部屋の隣の部屋で寝起きしたことがある小五郎から出たとは思えない発言だったが、この心配は杞憂とは言えないだろう。むしろ一般的な斟酌と言える。現代の若者は神経質だとも言うし。
「よかったら僕の部屋を譲ろうか? 僕は今晩寝ないつもりだし。明日、運転するわけでもないからさ」
「いや、いいっすよ。俺も寝ないつもりなんで。徹夜は慣れてるっす」
「若い頃は無理が効くよな」
と、長谷川。
うっすらと髭の生えてきた顎を撫でながら、唇の皮を噛んでいる。どちらかと言ったら彼の方が神経質そうだ。精神科医だったはずだが。いや、それは関係ないか。
「長谷川さんは寝なくていいんですか?」
「大丈夫だろ。運転するくらい。むしろお前が大丈夫なのか? 佐々木、たしか志賀野の車でここに来たんだよな? どうやって帰るんだ?」
「さあ、どうすればいいんでしょうね」
小五郎としては、それまでに志賀野の無実を証明するのが手っ取り早いところではあるが、しかし名探偵ならぬ小五郎にはその手立てがない。もうひとつの手段としてパトカーに乗せてもらうという方法もあるが、気が進まない。そもそも警察は来てくれるのだろうか。
先々のことに小五郎が頭を悩ませていると、和泉が立ち上がってスマートホンのライトを灯した。
「ちょっとトイレ行ってくるっす」
「あいよ。気をつけてな」
「っす」
和泉がリビングルームから出ていく。
しばらく、雨音が静謐なリビングルームを支配した。長谷川は机を爪でカツカツと叩き始める。
「まったく、神経の太い奴らばかりだな」
「トイレに行きたくなるのはただの生理現象では?」
「和泉のことじゃない。他の寝た奴らのことだ。あんな凄惨な死体を見た後に、ぐっすり眠れるか?」
それで言うなら、睡眠欲だって生理現象のひとつだし、そもそも彼らがぐっすりと眠っているかすら判然としないが、小五郎は争っても得のない人間と争ったりはしないので、迎合するように「そうですね」と答えた。
「でも、九条先生はどちらかというと神経質そうな方でしたけど」
「あれが一番図太いよ。じゃなきゃ社長夫人なんて務まらない」
「九条先生の旦那さん、社長なんですか?」
「ベンチャー企業のな。九条の車、ベンツだぞ」
「……それはこすったら最悪ですね」
傷をつけたくない車の代表みたいなやつだ。
そんな他愛ない話をしていると、リビングの扉が開いて和泉が戻ってきた。スマートホンのライトが薄暗い蠟燭の灯りを塗り潰す。
「戻ったっす」
「お疲れ」
「いや、疲れるようなことはしてないっすよ――あれ?」
と。
和泉が頓狂な声を上げた。机の上にスマートホンのライトを向けながら。そこには柚木が置いた志賀野のスマートホンと部屋の鍵がある。
「どうした?」
「志賀野さんの部屋って『Ruby』っすよね?」
「ああ」
「ルビーって赤色っすよね?」
「そりゃまあ」
「でも、ここにある鍵、緑っすよ」
「え?」
小五郎と長谷川は声を合わせると、揃って身を乗り出した。
机の上の鍵を覗き込むと、そこにはたしかに、赤ではない色の石がはめ込まれている。小五郎にすればその石の色は青だったが、緑と言っても納得ではある。つまり、青緑色だったというわけだ。
「柚木先生が取り違えたんですかね?」
「でも、柚木さん、確認してなかったっすか?」
「確認したから取り違えたんだろう」
長谷川が言った。
「おそらく、柚木さんは同じポケットに『Ruby』と『Alexandrite』の鍵を入れていて、そのうちテキトウな鍵を取り出した。蠟燭にかざして確認すると、それが赤色だったからそれを置いて部屋に引き上げたんだろうな」
「でも、ここにある鍵は緑っすよ?」
「ライトを消してみろ。そうしたらわかる」
和泉は言われた通りにライトを消した。するとどうだろう、蝋燭の炎に照らされた青緑の宝石は、瞬く間に赤へとその色を変じた。
「変色効果……だったかな? 詳しい理屈は覚えてないが、アレキサンドライトは光源によってその色をがらりと変えるんだ。LEDで照らせばエメラルドのような緑に見えるが、蝋燭の炎で照らせばルビーのように赤く見える」
「なるほど」
長谷川に推理のお株を奪われてしまった形となった小五郎だったが、そこは素直に感嘆した。
さすがに医者なだけあって、碩学だ。変色効果など、寡聞にして知らなかった。宝石とも縁の遠い世界を生きてきた小五郎である。アレキサンドライトがなんの宝石なのかも、実は知らない。ダイアモンドが炭素の塊であることくらいは知っているが。
「でも、柚木さんが鍵を取り違えてるなら、届けてあげなきゃいけないんじゃないっすか?」
「大丈夫じゃないか? 自分の持ってる鍵が『Ruby』の鍵だって気付いたら、取り違えにもすぐに気付くだろうし」
「いや、でも、気付いたのに届けてあげないのは不親切っすよ。俺、ちょっと柚木さんにこれ届けてくるっす」
既に寝ているであろう人間を起こすのも不親切なのではなかろうかと思ったが、人の善意を否定するのが面倒なので、小五郎は黙っていた。
和泉がリビングルームを出ていく。
それを見送ったあと、小五郎は髪の毛をガシガシと掻いた。ふけがパラパラと落ちてくる。そういえば、今晩はまだ風呂に入っていない。熱いシャワーを浴びたい気分だった。しかし電気が止まった今、それも望めないのであろう。
「それにしても、柚木先生はどうやって自分の部屋に入ったんですかね?」
「出るときに鍵をかけてなかったんだろ。柚木さんは昔からそういうところがあるからな」
「ああ……そういえば、柚木先生と長谷川先生は、昔からのお知り合いなんでしたっけ?」
「まあ、な。同じ地元の大先輩だよ。医者なんて誰でも地元じゃ神童扱いされるのが普通だけどな、柚木さんのせいで俺は凡人扱いだった。あの人は本物のエリートだから、較べられるとどうしてもな」
「柚木先生は循環器内科の先生でしたよね? もしかして、長谷川先生が精神科なのって……」
言ってから、小五郎は余計な口を滑らせたと後悔したが、それは無用な気遣いだったようで、長谷川はシラッとした顔で手を振り、
「いや、それは単に興味があったからそっちを志しただけだ。ま、学生の頃は俺も循環器の方に行こうって思ってたんだけどな」
と、答えた。
それはよかった、と小五郎は声には出さずに嘆息する。余計なことを言って地雷を踏むのは、余計なことをする余裕があるときに限る。睡魔のせいだろうか、少し舌が軽くなっている自分を小五郎は戒めた。
「そういえば、金親さんの専門ってなんでしたっけ?」
「金親先生は総合診療医だ。すべての病気を見て、疾病ごとに個別の専門医を紹介する医者。近代の医者は専門性が増した代わりに専門外の疾患を見落とすことが増えたからな。金親先生が現役の頃は、原因不明の疾病をいくつも発見し、多くの患者を救ったんだ」
「レジェンド、なんでしたっけ?」
「ああ」
頷く長谷川の表情には誇りが見て取れる。金親霖之助は、よほど医者から信頼を得ているらしい。
小五郎はふと、スマートホンを取り出して時間を確認しようとした――そのときだった。
「うあぁぁあああああああ」
悲鳴というよりは絶叫だった。それが、どこからか響いてくる。
反響してくぐもってよく聞こえなかったが、和泉の声だとわかった。若い男の声だったからだ。若い男は、この別荘には小五郎と和泉しかおらず、小五郎は今ここにいる。
小五郎は素早く長谷川と視線を交わした。そしてほとんど同時に立ち上がり、二階を目指す。声がどこから響いてきたのかわかるほどの聴力は、生憎なことに二人とも有していなかったが、今の声が和泉のものなら、その声がどこから響いてきたのかは明白だった。
暗い闇の中をスマートホンのライトで照らしながら玄関ホールまで走り、螺旋階段を回って二階に駆け上がる。
二階の廊下にはワイシャツ姿の湊が悠然と立っていて、ネグリジェ姿の九条が『Diamond』の扉の隙間から外の様子を覗いていた。それから、外側に向かって開きっぱなしの『Alexandrite』の扉。一番奥の書斎の扉が開いて、寝間着姿の金親が廊下に出てきた。
見当たらないのは、柚木の姿だけだった。
「どうしたんだい?」
金親が問う。
「………」
小五郎は答えず、黙って『Alexandrite』の部屋に入る。
まず目に入ったのは、尻餅をついた和泉の姿だった。というか、部屋は真っ暗で、それしか見えなかった。和泉の身体はブルブルと震えている。
小五郎はスマートホンのライトで部屋の中をくまなく照らした。
そして見つけた。
ベッドの上に、柚木の死体が転がっていた。一目で死体とわかった。なにせ、仰向けに寝転がった彼の胸には、武骨なナイフが突き立っていたのだから。




