第3話 火事と執事
「もしかして、外にあったポルシェって柚木先生の物ですか? ポルシェ911」
ワイングラスを片手にバーカウンターの前に立っていた男性に、小五郎は声をかけた。
夕食は若鶏の香草焼きだった。料理人の和泉は小五郎と同じ二十五歳だと言っていたが、それであれほどの腕を持っているとは驚かされる。驚かされるし、落胆もする。どうして自分はこうも落ちこぼれなのか。
晩餐がお開きになったあと、志賀野が皮膚科医の九条円香と共にどこかへ行ってしまったので、小五郎は別の話し相手を求めて、ひとりだった柚木に話しかけたのだった。
柚木剛。さっき自己紹介したところでは、循環器内科の専門医で都内の総合病院で循環器科の部長を務めているらしい。
部長という役職がどれほどのポストなのか実のところよくわかっていない小五郎ではあるが、身なりや挙措からしてお金持ちなのだろうと察しての先の質問だった。
いきなり声をかけられる形となった柚木は、困ったように眉を傾げる。
「えっと、君は……」
「佐々木小五郎です。フリーターです。どうぞよろしくお願いします」
自然な感じで、右手を差し出す。
医者のような、所謂『特別な職業』に就いている人間には、ゲン担ぎで握手を求めることにしている小五郎である。柚木は勢いに呑まれたように、小五郎と握手をした。
「ポルシェだっけ? それは僕のじゃないね。僕は恥ずかしながら運転免許を持っていないから」
見た目は五十代だが、その割に若い話し方をする医者だった。それに、気さくだ。
難しい人じゃなくて良かった、と小五郎は内心で胸を撫で下ろす。
「免許、持ってないんですか?」
「自動車学校に行ったことはあるんだけど、取れなかった。どうも運転が苦手でね」
「あー、わかります」
「佐々木くんは?」
「免許ですか? 僕は一応持ってますよ。でも、ペーパーです」
「取れるだけでもすごいよ」
柚木は手放しに賞賛する。鼻頭が痒くなるような思いだが、目の前の男が運転免許を持っていなくても医師免許を持っていることを思い出すと、身の引きしまる思いだ。小五郎の免許は小学生でも取れると噂のオートマ限定だし、自動車学校の費用は案の定、親に出してもらっている。
「ペーパーな僕は志賀野さんのレクサスに乗せてもらってここに来ましたけど、無免許の柚木先生はどうやってここに?」
「長谷川くんの車に乗せてもらってきた。駐車場になかった? 黒のカローラ」
「ありましたね、ピカピカの。長谷川先生は……精神科の先生でしたっけ? 柚木先生とは仲がよろしいんですか?」
「地元が一緒なんだよ。歳は二十も離れてるけどね」
ということは、長谷川は三十代前半ということになるだろうか。
医者の世界では、それはどのくらいのキャリアになるのだろうか――そんなことを考えながら、小五郎は件の長谷川を探す。
しかし、視界に映る範囲に長谷川はいなかった。
「そういえば、その長谷川先生は今どこに?」
「遊戯室にいるんじゃないかな? 湊くんと玉突きしてくるって言ってたから」
「玉突き? ああ、ビリヤードですか。へえ、いいですね。ちょっと交ざりに行こうかな。柚木先生も一緒にどうです?」
「誘われちゃあ、断れないね」
柚木はグラスに残ったワインをぐいっと飲み干すと、先導するように歩き始めた。小五郎が遊戯室の場所を知らないことを察してくれたのだろう。この男、できる。そう思わされた。
「佐々木くん、ビリヤードの経験は?」
「皆無ですね」
そんな会話をしながら、遊戯室の扉を開ける。
そこは小五郎の実家のリビングルームの三倍ほどの広さの空間だった。他の部屋とは異なり、ダークな赤い壁紙が張ってある。少し空気が籠っているように感じるのは、防音処置のせいだろうか。
初めて見た遊戯室という空間に、まず、小五郎は感動する。
ビリヤード台の近くには三人の人間がいた。背の高い男が精神科医の長谷川英人で、少し草臥れたワイシャツ姿の男が泌尿器科医の湊修治、少し離れてゲームを見守っているのは料理人の和泉壮太だ。
三人は小五郎と柚木に気が付くと、小さく会釈をした。小五郎も会釈を返す。柚木は気軽に手をあげて応えた。
「やあ、長谷川くん、湊くん。それから、和泉くんも。交ぜてもらいにきたよ」
「お、マジすか?」
と、真っ先に反応したのは和泉だった。
「俺も同じっす。二人とも、間がいいっすね。ちょうどワンゲーム終わったとこっすよ」
「柚木さんって、ビリヤードできましたっけ?」
長谷川が柚木に訊く。
「君たちほどはできないよ。ちなみに、こちらの佐々木くんは素人だそうだ」
「なら、ダブルスがいいですね。俺と湊を別チームにして、二人と三人に分かれましょうか」
長谷川がキューをくるりと回す。
その仕草だけで、充分以上にビリヤード慣れしていることがわかった。
「柚木さんと俺、湊と和泉と佐々木くんチームでどうでしょう? 湊、それでいいか?」
湊はむっつりと頷く。
小五郎はそんな湊に近寄って、「よろしくお願いします」とさりげなく握手を求めた。湊は言葉を返さなかったが、握手はしてくれた。無口だが、無愛想ではないらしい。
小五郎は満足して、今度は和泉に「よろしく」と、握手を求める。料理人も小五郎にとっては『特別な職業』だ。
「はい。よろしくっす」
固く手を握りしめる。職人の手だった。同い年の二十五歳という話だが、包丁を握り始めたのはここ数年というわけではなさそうだ。
素直に感心しつつ、小五郎は最後に長谷川に握手を求める。
「手加減してくださいね?」
「それは難しい。湊は俺より強いからな」
長谷川との握手を終えると、とうとうビリヤードが始まった。
ゲームは一進一退の様相を呈した。湊は長谷川よりもたしかに上手かったが、小五郎と和泉が足を引っ張る。三人で順番に撞かなければならない仕様上、湊は三回に一度しかプレイできず、柚木と長谷川のチームにリードを許しては、湊の番で取り返すという展開を繰り返した。
時間が矢のように過ぎ去っていく。
ゲームが佳境に入ったころ、遊戯室の扉が開いた。
五人で一斉に視線を向けると、そこにいたのはこの別荘の主の金親だった。明日をもって米寿を迎えるとは思えないほど、しゃんとした背筋で立っている。
「金親先生」
「こんばんは、柚木くん。それから皆も。私を除け者にして楽しんでいるのかね?」
「そんなまさか。あ、もしかしてうるさかったですか?」
「いや。この部屋は防音になっているから、音は漏れないよ。ただ、私も交ぜてほしくて来ただけさ」
「なら、僕と長谷川のチームに入りますか?」
金親はさっと五人の顔とビリヤード台の上に視線を巡らせると、ゆるゆると首を振った。
「いや、そのゲームはここで見ているよ。せっかくの好勝負を邪魔しちゃ悪い。次のゲームから交ぜてくれたまえ」
金親はそう言って、壁際の長椅子に腰を下ろす。
ゲームはそれから五分ほどで片が付いた。勝ったのは柚木と長谷川のチームだったが、惜しいところまではいった。小五郎が思いのほか活躍した、ということではなく、初心者ふたりを抱えてもいい勝負ができるくらいに湊が上手かったという話だ。
「いやー、負けたね」
経験者四人が次のゲームのチーム分けを話し合っている間に、小五郎は和泉に声をかけた。
実のところ、小五郎が一番仲良くなりたいと思っているのは和泉だった。同じ歳で既に手に職をつけている彼に、小五郎としてはそのノウハウを盗めないかと画策していたところである。料理スキルを盗むという意味ではなく、心構え的なところで。
和泉は後頭部を掻きながら、
「負けたっすねー」
と、答えた。
「ビリヤード、難しいっすわ。俺、不器用なんすよ」
「なに言ってるんだよ、料理人が」
「いや、料理は物心ついた頃からやってるからできるだけっす。ホントは不器用なんすよ。マジで。洗濯物とかいまだにちゃんと畳めないし、免許取るときとかも、教官にありえんほど怒られまくったもんっす」
「まあ、免許に関しては取れない人もいるくらいだから。うぷぷ」
「聞こえてるよ、佐々木くん」
「あ、やべっ」
柚木が声を飛ばしてきたので、小五郎は頭部を守るジェスチャーをした。
「柚木さん、免許持ってないんすか?」
「持ってないというか、取れないんだ。君を超えるほど僕は不器用でね。車の運転なんて怖くてとても」
「都会に住んでいると必要ないからね」
と、取りなすように金親。
「それに、それで言うなら私も持ってない」
「金親先生は返納しただけじゃないですか。最初から持ってない私とは違います」
そんな会話を聞きながら、小五郎は和泉に向かって肩を竦める。
「ま、僕も偉そうなこと言えないんだけどね。オートマ限定だし」
「俺もっすよ。マニュアルは無理って諦めたっす」
「最近はオートマ限定で取る奴も多いよな。オートマ車の方が、圧倒的に多い時代だし」
と、話に入ってくる長谷川。キューを脇に挟みながら、近付いてくる。
「湊もオートマだっけ?」
「……ああ」
最小限の返事が飛んできた。
「相変わらず無愛想な奴だな。そんな無愛想な奴と佐々木……くんは連続でチームになるけど、構わないか?」
「ええ。あ、呼び捨てでいいですよ」
「そうか? なら、そうさせてもらう――じゃあ、俺と金親先生と和泉がチームで、柚木さんと湊と佐々木のチームで」
「今度は勝ちますよ。圧倒的大差でね」
小五郎がカッコつけて言った瞬間、けたたましいアラーム音が空気を掻き乱した。
「え? なんですか、これ?」
小五郎が室内見回す。
『火災発生 火災発生 すぐに避難してください』
人工的な音声が鳴り響いた。
火事? いったいどこで?
考えるより早く、小五郎は遊戯室を飛び出す。
鼻先を掠める、焦げ臭い匂い。幸いにも煙が充満しているということはなかった。
火元を突き止めなければ。そう考える小五郎の後ろに五人が付いてくる。ひとまずキッチンの方に足を向けた小五郎は、正面から薄着の女とバッティングした。女医の九条円香だ。
「九条先生、でしたよね?」
声をかける小五郎に、九条は戸惑い顔を向けた。
「一体なんなの?」
「聞いての通り火事です。キッチンに火は?」
「あたしはバーカウンターにいたけど、キッチンは燃えてないわよ」
「もうひとつ。九条先生は志賀野さんと一緒に居ましたよね? 志賀野さんは?」
「知らないわよ。もうずっと前に解散して……上で寝てるんじゃないの?」
それを聞いて、小五郎は階段の方向に駆け出した。
火災が発生したときに、上階にいるのはまずい。もし寝ていたら、起こして避難させなければいけない。
なんだか嫌な予感がする。
胸に去来するそんな感覚を振り落とすように、小五郎は玄関ホールに急いだ。
結論から言って、志賀野は無事だった。小五郎が玄関ホールに到着したと同時に、志賀野が上階から階段を下りてきたのだ。
「志賀野さん、無事でしたか」
「なにがあった?」
「火事です。火元は不明ですけど、ひとまず避難しましょう。ここに全員いますよね?」
「ああ」
頷いたのが長谷川で、「違うっす」と否定したのが和泉だった。
「甘木さんがいないっす」
「!」
たしかに、執事の甘木がいない。
小五郎は瞠目しながら、金親を振り返る。
「甘木さんの部屋は?」
「こっちだよ」
甘木の部屋は玄関ホールから伸びる廊下の一番奥だった。
扉に宝石の名前が刻印されているかと思ったが、そうではない。どうやら宝石の名前が刻印されているのは、客室だけらしい。扉には『甘木文雄』というプレートがぶら下がっているだけだった。
「甘木さん? 甘木さん、いらっしゃいますか?」
小五郎が呼びかけるが、返事はない。
寝ているのか、そもそもいないのか。この緊急時に寝ているのだったら最悪だが。これだけ呼びかけて返事がないなら、いないと見るべきか。いつまでも廊下でうろうろしているわけにはいかない。火が廻ってくるかもしれないから。
どのタイミングで呼びかけを諦めるべきか、小五郎が思案を始めたとき、
「なんか、焦げ臭くない?」
と、九条が言った。
焦げ臭いか否かなら、さっきからずっと焦げ臭いというのが小五郎の回答だったが、冷静にもう一度鼻を鳴らしてみるとたしかに焦げ臭い。さっきよりも、ずっと。
まるで扉一枚隔てたところでなにか燃えているかのように。
小五郎は反射的に扉に耳をくっつけた。激しいアラームの音とスプリンクラーの水音が微かに聞こえてくる。小五郎はすぐさま扉のノブに手をかけた。しかし、鍵がかかっている。
「金親さん! この部屋の鍵は?」
「甘木が自分で管理を……」
「マスターキーは?」
「……ない」
小五郎は舌打ちをした。
及び腰の九条が口を開く。
「あの執事さんが中にいるの?」
「おそらく」
「どうしてそうわかるわけ? もうとっくに外に避難してるかもしれないでしょ?」
「甘木さんがこの部屋にいる確証はたしかにないですけど、この扉の向こうが火事になっているのは確かです。そして火事になっている以上、この部屋に誰かがいると考えるのが自然です。そうでないなら、どうして火が発生したのかという疑問が生じるので」
「なら、なんであの執事さんは出てこないのよ! 中でなにをしているの⁉」
声を裏返す九条を、小五郎は忌々しく睨んだ。
中の甘木がなにをしているのか、或いは、なにができない状況なのかわからないから、こうして立ち往生しているというのに。
外に回って窓から中の様子を窺うべきか。しかし、カーテンが引かれていたら無駄骨だ。今は一分一秒が惜しい。もっと確実性のある対策を講じるべきだ。そして確実性がなくとも、中にいるであろう甘木に声をかけ続けるべきだ。
しかし、ここには考える前に行動することができる人間がいなかった。誰もがどうするのが最善かと考えてしまうあまり、最速の行動をとることができない。
全員で沈黙する。
沈黙している時間は、だから、ないのだけど。
「……仕方ない」
最初に沈黙を破ったのは、意外なことに湊だった。無口な医者は扉の前に立つと、その強度を確かめるように軽く叩く。
「扉を破ろう」
「……金親さん、いいですか?」
小五郎が訊くと、金親は惑うように頷いた。
長谷川、湊、小五郎、和泉の四人が扉の前に立つ。
「タイミングを合わせろよ。行くぞ。一、二の……三!」
長谷川の合図と共に、四人は扉に突進する。木のしなる歪な音が響き、扉が大きく軋んだ。小五郎たちは呼吸を合わせて、もう一度扉に突進する。蝶番とシリンダー錠が破壊され、扉が開いた。小五郎たちは体勢を崩して部屋に転がり込む。
黒い煙がもうもうと廊下に出てきた。目が染みて、小五郎は涙を目に浮かべる。咳き込むようにして吸った煙を吐き出す小五郎の身体を、冷たい水が叩いた。天井のスプリンクラーから大量の水が降り注いでいるのだ。煙の臭いに混じって、刺激臭が鼻腔を刺激する。
次の瞬間、劈くような悲鳴が響き渡った。首を回して後ろを見ると、真っ青な顔の九条が口元を押さえている。柚木が渋面を作って、部屋の中を指した。
「甘木さんが……」
霞む目を瞬きながら、小五郎は部屋の中に視線を向けた。どうやら火はすでにスプリンクラーによって消えていたようで、燃えたあとの黒い塊が転がっている。
その黒い塊が、甘木だった。




