第2話 山間の別荘
「国政の失敗など数えきれないほどあるが、その内のひとつは、やたらにスギやヒノキを植えすぎたことだな」
レクサスのハンドルを握りながら、志賀野はこの数時間、数えきれないほど溢した愚痴にまた新たな愚痴をひとつ加えた。
フロントガラスの向こう側には鬱蒼とした森が広がり、未舗装の道路がその真ん中を貫いていた。道路というよりは、ほとんど獣道だ。事故が怖いので、志賀野は充分にアクセルを踏めていない。
「花粉症は現代病だなどと吹聴する輩もいるが、私に言わせれば完全に国害だ。景観やら資材やらを優先して、なにも考えずにスギやヒノキを植えたから、花粉症を発症する人間が爆発的に増えた。まあ、百年前の政府もまさかこんなことになるとは思ってもいなかっただろうが、そうだとしても、なにかしらの責任を取るべきだとは思わないか?」
「志賀野さんは花粉症、酷いんですか?」
疑問文に対して疑問文で返した。
志賀野は前を向いたまま、苛立たしげに舌打ちをする。
「薬でコントロールできる程度だ。君は?」
「僕はあまりですね。お、花粉飛んでるな、とは思いますけど、目が痒くなったりくしゃみしたりはしないです」
「花粉症はよくコップの水に喩えられる。今は無症状でも、アレルギー反応が閾値を超えると悶絶することになるぞ。症状がなくても、花粉の季節はマスクをすることだな」
志賀野がストレスを溶かした声で吐き捨てたとき、カーナビから『間もなく目的地周辺です』という声が響いてくる。
車道に被さるように枝を伸ばし、葉を茂らせていた木々が途切れ、視界が大きく開けた。目の前に広大な敷地が広がり、背の高い柵の向こうに白亜の洋館が姿を現す。別荘というよりは城というような外観だった。
「ほう」
志賀野は感嘆の息を吐きながら、門扉のそばにある駐車場に車を停める。
十数台置ける駐車場のスペースには既に何台かの車が停まっていた。そのほとんどが外国車だ。
「うわ、空気が美味しい」
車から降りた小五郎は、まずそのことに驚いた。空気が美味しい。文学では慣れ親しんだ表現だが、実体験すると感動ものだった。
呼吸するだけでデトックスになる。美味い空気を欲張るように深呼吸しながら、小五郎は門の向こうの洋館を観察する。二階建てだが遠目にも凝った建築であることがわかり、豪奢な造りをしていた。
サロンや庭園なんかもある。まるで洋画に出てくるお金持ちの家のようだ。
洋館の観音開きの扉が開き、タキシード姿の長身瘦躯の男性が姿を現した。大谷石の敷かれた遊歩道を通って、こちらに歩いてくる。
「失礼いたします。志賀野文彦先生とお連れの佐々木小五郎様ですね?」
門扉を開いた男性が慇懃に訊ねてくる。どこか、ペンション管理人の秋島頼子を思い起こさせた。
志賀野は鷹揚に、小五郎はおずおずと頷く。
「遠いところお越しいただき恐縮です。私、金親家の執事を務めております、甘木文雄と申します。旦那様が皆様をお待ちです。ご案内しますので、どうぞこちらへ」
甘木に先導され、小五郎たちは遊歩道を進んでいく。
「金親先生は元気か?」
「ええ。お蔭さまで。一時はこのまま衰弱死されてしまうのではとまで思わされましたが、今では以前の壮健さを取りもしつつあります」
「ん? 金親霖之助さん、ご病気かなにかされてたんですか?」
無粋極まる質問だったが、訊かないわけにもいかなかったので、小五郎は口を開いた。聞くところによると、金親霖之助は米寿、つまり八十八歳、なにか大病を患っていたとしてもおかしくはない。
「いや、金親先生はご健康だ。身体はな。医者の不養生という言葉があれほど当てはまらない医者も、他にはおるまい」
「なら、今の会話はどういう……」
「去年、奥様がご病気で……な。金親先生は奥様の美智子さんを深く愛していた。去られた虚無感は余程のものだったのだろう。酷い抑鬱状態になってしまわれて、一時は食事すらままならないほどだった」
「それも今や昔の話でございます。志賀野先生のご献身もあって、旦那様も立ち直ることができましたから。こうして米寿のお祝いができるのも、ひとえに志賀野先生のお陰でございます」
「いや、私など」
志賀野がわかりやすく謙遜しているうちに、一同は屋敷の正面玄関にきていた。甘木が観音開きの扉を開くと胸に手を当てて「どうぞ、お上がりください」と恭しく頭を下げる。
屋敷の中に入る。大理石が敷き詰められた玄関は、二階まで吹き抜けになっていて開放感があった。正面にはホール状になった玄関が広がり、横には二階へ続く螺旋階段がある。階段には毛足の長い絨毯が敷かれていた。
「一階にはリビングやダイニング、我々使用人の部屋があります。皆様に本日お泊りいただく客間は二階にございます。ですが、お部屋にご案内する前に、旦那様にお会いしていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
もちろんとまでは思わなかったが、小五郎も志賀野が尊敬する人物がどんな人間なのか気になっていたところなので頷いて意思表示した。
三人は甘木を先頭に階段を上がり、二階の一番奥の部屋に足を運ぶ。
「ここは旦那様の書斎でございます」
甘木はそう説明して、それからその重厚な扉を三度ノックした。
「旦那様。志賀野先生とお連れの佐々木小五郎様をお連れしました」
呼びかけると、扉の向こう側から「どうぞ」と声が聞こえてくる。八十八歳とは思わせない、力強い響きの声だった。
甘木は扉を開けると、横に辞した。中に入るつもりはないらしい。
志賀野が悠然と書斎に踏み入っていく後ろを、小五郎も今さら緊張しながら付き従う。
金親の書斎というその部屋は、まさしく書の斎と呼べる部屋だった。四角い部屋の四つの壁のうち、窓のある壁と扉のある壁を除いた二つの壁を本棚が埋め尽くし、その本棚を本が埋め尽くしている。そのどれも、医学書だった。
書物に囲まれた部屋の向こう、窓を背に椅子に腰を掛けているのは、壮年の男性だった。見事なまでの総白髪。中肉中背だが、指先は少し骨ばっている。若いという印象は抱かなかったが、八十八歳にも見えなかった。
金親が口を開く。
「よく来てくれたね。志賀野くん。それから、佐々木さんも」
柔らかいタオルのような声。小五郎の中にわだかまっていた僅かな緊張は、ふわりと解されてしまった。
「さんはやめてください。金親……先生」
「先生こそやめてくれ。もう現役ではないのだから。金親でいいよ、佐々木くん」
金親はそう言って、上品に微笑む。
この短いやりとりで、志賀野が尊敬する理由も垣間見えるようだった。人好きのするタイプ。距離感を掴ませず、それでいて不快感を抱かせない絶妙なバランスを持った人間。考えてもみれば、臨床医にこれより向いている人間もいないかもしれない。レジェンドと呼ばれるのも納得だ。
金親でいいと言われてしまったが、それでいいわけがないことぐらいフリーターの小五郎でもわかっていたので、以後、小五郎は彼のことを金親さんと呼ぶことにした。
「志賀野くん、こんな山奥に招いてしまってすまないね。大変だったろう?」
「いえ。自然を感じられる素晴らしい旅路でした。コンクリートジャングルはいけませんな。土のありがたさを、人から忘れさせてしまう」
「都会にも都会の良さがあるさ」
金親はくしゃっと笑みを浮かべる。
「だが、緑には緑の良さがある」
「まったくです」
「志賀野くんのように都会が似合う人間には少し窮屈な世界かもしれないが、今日と明日、存分に自然の恩寵を楽しんでくれ。あまりお構いはできないかもしれないが、この別荘を好きに使ってくれていいから」
「お言葉に甘えさせていただきます」
志賀野が答えた瞬間、金親が激しく咳き込んだ。慌てて近寄ろうとした志賀野を、金親が手で制す。
「大丈夫だ……心配かけてすまないね」
「お加減が悪いのですか?」
「いいや。歳を取るとこうなるんだ。咽頭の筋力が落ちるせいでね。老化とは度し難いよ。最近、運動をサボっていたツケが回ってきたんだろうな。志賀野くん、君も気を付けた方がいいぞ。腹が少し出てきてるんじゃないか?」
「……それを言われると弱いですね」
「この別荘にはテニスコートがある。あとで一ゲーム付き合ってくれ。とはいえ、今は長旅で疲れただろう。部屋でゆっくりと休んでくれたまえ。甘木」
金親が甘木を呼ぶと、執事は「失礼します」と言って書斎の扉を開けた。
「お二人を部屋に案内してやってくれ」
「かしこまりました」
甘木に先導される形で書斎を後にし、廊下を漫ろ歩く。
案内された部屋は、二階の東端に位置する部屋だった。扉には『Emerald』と刻印されている。隣の部屋を割り当てられた志賀野の扉には『Ruby』と刻印されていた。
「宝石……ですか?」
「左様でございます。志賀野様、佐々木様、こちらが鍵になります」
甘木が渡してきた鍵には、緑に光る石がはめ込まれていた。志賀野の鍵には赤い石がはめ込まれている。『Emerald』の部屋の鍵には緑の石が、『Ruby』の部屋には赤い石が。
まさか、本物の宝石?
いやいや、まさか。偽物だろうと小五郎は自分を納得させる。甘木に確認すれば事実を知ることができそうだったが、本物だったら怖いので確認はしなかった。
「十八時になったら、食堂にお越しください。それまではごゆるりとお寛ぎを」
言って、甘木は去っていった。
「部屋と鍵ですか……なんか、思い出しますね」
「余計なことを言うな」
志賀野は冷たく言って、部屋に入っていった。
小五郎も『Emerald』の鍵を開錠して部屋の中に入る。思ったよりは狭い部屋。
向かって正面に南向きの窓、左の壁には絵画、右の壁は幅四メートルほどの巨大な鏡が飾ってある。
窓は最近の建物らしく天井付近の高い位置にはめこまれていて、外の景色を楽しむことはできない。窓を高い位置に設置するのはプライバシーの保護や防犯が目的と聞いたことがあるが、どちらの心配もないこの別荘でそれをする意味とはなんなのだろう。外の景色が見えないせいで、空間に閉塞感がある。
「……ああ」
それで気付いた。
右の、つまり西の壁に設置されている鏡は部屋を広く見せるための工夫だろう。飲食店などで採用されるインテリアである。
ベッドは大きくはないが、そのお蔭で部屋のフリースペースを広くとれていた。
小五郎は荷物を置くと、一度大きく伸びをする。ベッドに横になると、柔らかいスプリンが身体を優しく受け止めた。弾力のあるマットレスは予想外に寝心地が良く、小五郎はそのままうっかり眠ってしまった。
※※※※※※※※※※
転寝から目を覚ますと、部屋の扉を叩く音が聞こえた。
眠るときもうっかりだったから、起きるときもうっかりだ。いつもと違うベッドの間隔に、うっかり、小五郎はベッドから落ちてしまった。カーペットのしかれた地面に強かに額をぶつけて、目の前を星が瞬く。
「佐々木くん? 大きな音がしたが大丈夫か?」
志賀野の声だ。部屋の外から聞こえる。
小五郎はスマートホンを取り出して時間を確認した。十八時十三分。十八時になったら食堂にお越しくださいと言われていたので、十三分の遅刻ということになる。志賀野が迎えに来てくれたのだろう。
鏡で素早く身なりを整えて、部屋の扉を開ける。鍵は、内側はサムターンになっていた。
「志賀野さん、すみません。うっかり寝てました」
「肝が太いな、君は」
「いつでもどこでもどんなときでも眠れるのが僕の長所です」
軽口で答えると、志賀野が眉を顰めた。
小五郎の言葉に気を損ねたという様子ではない。志賀野は小五郎ではなく、部屋の中を見て訝しがっている。
「どうしました?」
「いや、違和感があってな。なんだと思ったら、私の部屋と左右が反転しているようだ。この部屋は」
「左右が反転?」
「私の部屋は鏡が向かって左に、絵画が右にある。ベッドの位置もなにもかも、ちょうどあの壁を鏡面とするように鏡合わせになっているようだ。だから、あの鏡に映ったこの部屋が私の部屋に見えて、一瞬だけこの部屋から私の部屋が透けて見えているのかと思ったが……少し気を張り過ぎているようだな」
人に見られているのではないかという妄想。
それは統合失調症の最もポピュラーな症状だ。口で言うよりもずっと、それこそ小五郎というフリーターに頼らなければならないほど、志賀野は心労を抱え込んでいるのだろう。あのペンションでの一件がトラウマになっているのだ。
「行きましょう、志賀野さん。まずは夕食を食べて英気を養わないと」
「……そうだな」
「運動してスッキリするのもいいかもしれませんね。テニスコートがあるんでしたっけ? 志賀野さんはテニスできるんですか?」
「大学生の頃にやっていたからな。意外かもしれないが、医学部は部活が盛んなんだ。好きではなかったが、一人だけなんの活動もしないのも気が引けて、テニス部に入った。金親先生との親交は、そこからできた。金親先生は部のOBでね」
「なるほど」
なにがなるほどなのか小五郎にはわからなかったが、そんな風にテキトウに相槌を打った。大学には通っていない小五郎である。そもそも大学に部活という概念があることすら知らなかった。サークルと呼ぶのではないのか?
「じゃあ、あとで僕にテニスを教えてくださいよ。僕、やったことないので」
「……いいとも」
志賀野は鷹揚に頷いた。




