第1話 日当五万円の探偵
『佐々木くん、唐突で悪いが、今日の夜にでも会えないだろうか。夕食を食べながら、少し話がしたい』
そんな電話を佐々木小五郎が受け取ったのは、木曜日の十二時三十分丁度のことだった。
この場合、電話を受けた時間はあまり問題ではない。紅茶の味ではないのだから、午前と午後で聞き取った言葉の内容に変化があるなんてことはないし、また、絶賛求職中のフリーターである小五郎は、基本的に何時何分でも電話を取ることに問題がない生活をしているからだ。
そう、小五郎はいつだって電話を取ることができる。定職はいつまでも手に取れないのに。
暇で暇で仕方なく、閑居にこそ暇がない小五郎に掛かってきたその電話は、だから、救いの糸だった。電話がかかってきた瞬間は、うっかり採用の連絡が来たのかとぬか喜びしてしまったが、しかし、夕食の誘いも小五郎にとっては喜ばしい。
ちなみに、電話の相手は志賀野だ。
志賀野文彦――以前、縁あって連絡先を交換する仲となった矮躯の医者である。ファーストインプレッションがあまりよくなかったから、連絡先だけ交換して以来没交渉だったが、数か月ぶりにこうしていきなり電話が掛かってきて、小五郎としても目を白黒させていたところだった。
そして、開口一番に夕食のお誘いである。
「今夜ですか?」
『やはり、急には厳しいかね?』
「厳しいことはないです。時間は。懐は厳しいですが。フリーターなので」
『……無論、私から誘っているのだから私の奢りだ。金銭面の心配はしなくていい』
「さすがお医者様」
小五郎はわざとらしく歓声を上げた。
「では、ご馳走になってもいいですか?」
『……私が若い頃は、君のようながめつい若者はいなかったよ。余裕のない時代だったからね。皆、必死で真っ直ぐだった』
「歳上には素直に甘えるのが、僕なりの処世術です」
飄々と言うと、電話口から溜め息が返ってくる。
「ちなみに、僕はなにをご馳走いただけるんですか? 要望を聞いてもらえるなら、フレンチを所望します。食べたことがないので」
『相も変わらず無礼に溢れている子供だな、君は……はあ、わかった。そう高級な場所ではないが、良いフレンチを提供している店を知っている。君が持っている中で一番上等な服で来てくれ』
呆れた声で吐き捨てるように言う志賀野に、小五郎は小さくガッツポーズをした。通話が繋がっていなければ、快哉を叫んでもよかったくらいだ。
やはり世の中、所詮は縁。
縁さえあれば、フリーターの身でもフレンチを食べられる。
その縁が殺人事件に端を発したものだと思うと複雑な気分だが、しかし、美食に貴賤はない。美味い物は美味い。フレンチが美味いかどうか、まだ食べたことがないので知らないが。いや、きっと美味いのだろう。
そう確信して、小五郎は志賀野と待ち合わせの約束をしてから電話を切った。
「夜が楽しみだ」
相手が美女であったならもっと楽しみだったに違いないが、そこまでの我儘が許されるとは思っていない。いや、相手に経済的な余裕があってこそフレンチを食べさせてもらえるのだから、むしろ志賀野が中年のおっさんでよかったと喜ぶべきですらある。
しかし、喜んでいる場合ではない。
志賀野が連れていってくれるフレンチは高級店ではないそうだが、しかし口振りから察するに安価な店というわけでもなさそうだ。ドレスコードが必要ならそう言ってくれるはずだからそれはないはずだが、しかし一番上等な服で来てくれとは言われてしまった。
ところで。
「上等な服ってなんだ?」
リクルートスーツでいいのだろうか?
※※※※※※※※※※
「久しぶり、だな」
志賀野の第一声はそれだった。
記憶にあるその顔より、いくらか厳めしさが増している。しかし、背は相も変わらず低いままで――中年になっていきなり成長期が来ても、そっちの方が恐ろしいが――子供のような矮躯であることには変わりなかった。
「はい。お久しぶりです」
小五郎は微笑みを浮かべながら、志賀野に握手を要求する。志賀野は訝しがりつつも、軽く握手を返してくれた。
「志賀野さんもお変わりないようで」
「ふん」
医者は小五郎を上から下まで、舐めるように睨め付ける。
「思ったよりはまともな恰好をしてきたな。上等なスーツじゃないか。そんなものを持っているとは。てっきり、リクルートスーツなんかで来るんじゃないかと心配していたが、杞憂だったようだ」
「その可能性がなかったと言えば嘘になりますね」
「そんな上等なスーツがあるのに、リクルートスーツと迷ったのか」
「これは父親のです。さっき仕事から帰ってきた父親に泣きついて貸してもらいました。もし貸してもらえなかったら、リクルートスーツで来てましたね。僕のような求職者にとって、リクルートスーツはもはや制服のようなものです。正装と言っても過言ではないでしょう」
「世迷言を言うのは酔ってからにしたまえ」
志賀野はネクタイを直しながら、店に入っていった。小五郎も後に続く。外観はただの雑居ビルに居を構えた普通の飲食店だったが、内装は瀟洒なものだった。薄暗く、雰囲気がいい。店内はあまり賑わっていないようだったが、それが最高だった。
「ご予約の志賀野様ですね。お待ちしておりました」
どこからともなく現れたボーイが、そう言って二人を窓際の席に招いた。それほど高層階にあるわけではないので綺麗な夜景を望むことはできなかったが、煌びやかな通りを見下ろすだけでも充分だった。
「志賀野さんって、すごい人なんですね」
「急になんだね」
「いえ、こんな素敵なお店を知っているなんて」
「これくらいは大人の嗜みだ」
鼻を膨らませながら志賀野は言って、ボーイを仕草で呼びつけた。
「コースを二人分。ワインは赤で」
「かしこまりました」
ボーイは慇懃に頭を下げて、厨房の方向に消えていった。
その背中を見送って、志賀野は口を開く。
「さて、まずは急に呼びつけたことを謝罪しなければならないな」
「いえ、そんな……大丈夫ですよ。どうせ暇でしたし」
「君は相変わらず職を探しているのかい?」
「まあ、そうですね。望んでやっているわけではありませんけど」
「そうか……世の中は不条理だな」
志賀野は嘆くように言った。意図を捉えかねて、小五郎は首を捻る。
そのとき、ボーイがワインのボトルとグラスをふたつ持ってきた。目の前で赤い液体がワイングラスに注がれる。この薄暗い中、よく手元が狂わないなと小五郎は思った。志賀野がワイングラスを持ち上げる。小五郎も倣って持ち上げ、優しく乾杯した。
ワインは小五郎が今まで飲んだ物の中で一番美味しかった。スーパーに売っているような安物のワインは及びもつかず、親の金で飲ませもらったボジョレーヌーボーよりも美味しい。舌の上で酸味が躍って、芳醇な薫りが鼻から抜けていく。それでいて後味がしつこくなく、するすると飲めてしまう。
「酔っぱらってしまう前に、本題に入った方がよさそうだな」
志賀野が言ったので、小五郎はワイングラスを置いた。ボウル型のグラスの中で、ワインの赤がゆらゆら揺れる。
「君は金親霖之助という医者を知っているか?」
「……すみません。浅学なもので。有名人ですか?」
「医学界ではな。まあ、テレビタレントとかではないから、知らないのも無理はない。日本の臨床医療の、いわばレジェンドだ。医学を志す者で、彼のことを知らない人間はいない」
語る志賀野の口調には、尊敬の色が混じっていた。
小五郎は驚く。
この医者に尊敬する人間がいることに、驚く。そういうタイプの人間ではないと思っていた。が、考えてもみれば、小五郎の思い描く彼は、殺人鬼の潜むペンションの中にいる彼だ。あのときの志賀野は正常ではなかっただろうし、或いは、あの事件を機会に人が変わったのかもしれない。
「それで、その金親霖之助という人がどうしたんですか?」
「金親先生自身はどうもしていない。強いて言うなら、米寿を迎えられた。実は、その米寿のお祝いで、金親先生の別荘にお招きいただくことになってな」
「それは……おめでとうございます――で、合ってますかね?」
「合ってる。めでたいことだ。金親先生も、私にとっても」
心底喜んでいると言わんばかりの表情で、志賀野は言った。
「ただ、ひとつばかり問題がある」
「問題、ですか?」
「金親先生の別荘は、長野県の山奥にあるということだ。周辺には集落どころか人家が一軒もなく、もちろん警察署どころか交番もない」
「ああ、そういうタイプの別荘なんですか。別荘地に建てられたやつじゃなくて、ガチの秘境みたいな――それはなんというか……あれですね」
小五郎が言葉を濁すと、志賀野が苦い顔をして頷く。
言葉を濁したのは小五郎なりの善意だったが、しかし、それでは話が進まない。志賀野は泥を吐くような口調で、濁した小五郎の言葉尻を取った。
「あの事件から、まだそれほど経ってない。私はまだ、そういう場所に恐怖を覚えている――仕方ないだろう? むしろ正常な反応だ。しかし、金親先生のお誘いを断ることもできない。私はまた、山奥の別荘で寝泊まりしなければならない」
そうとは明言しなかったが、トラウマになっているのだろう。彼も小五郎も、数か月前に山中のペンションで殺人事件に巻き込まれたばかりである。たった一回と言われればそれまでのことだが、あんな事件、一度経験すれば充分である。
とはいえ、尊敬する人のめでたいお祝いを蹴るわけにもいかず、板挟みになっていたわけだ。そこまでは理解した。
「それで、僕にどうしてほしいと?」
「同伴してほしい。名探偵がいれば、なにかあったとしても安心だ」
小五郎は天を仰いだ。屋内なので、仰いだのは天井だが。光量の絞られたダウンライトが、ぼんやりと闇に浮かんでいる。
「誤解を解き忘れていたというか、嘘を告白し忘れていたというか……あの、僕はフリーターなんですよ。ただの若年求職者なんです」
「それはさっき聞いた」
「なら、さっきは言い忘れましたけど、僕は名探偵じゃないんです。どころか探偵でもないんです。志賀野さんのお気持ちは充分にお察しします。尊敬する人のお祝いのために恐怖を乗り越えようとする姿勢には敬服します。だけど、今回に関しましてはお力になれません」
人の頼みを断るのは簡単なことではない。少なくとも小五郎にとっては。しかし、なにかあったときに責任を取ることができないので、彼は素直に辞去した。
「なにかあったときに責任を取れとは言ってない。それに、どうせなにもない。殺人事件なんて異様な事態、そうそう起こりえないからな。君はただいてくれればいい。ただそこにいて、私を安心させてくれればいい」
「美少女に言われたら萌えるセリフなんですけど……」
中年のおっさんに言われても冷めるばかりだが、真摯にお願いされては弱る。
人の頼みを断るのが苦手なのだ、小五郎は。
ワインを喉に流し込む。ひりりと甘く痺れる喉から甘く息を吐いて、小五郎は小さく頭を掻いた。ちょうどそのタイミングで、ボーイがアミューズを持ってきた。サーモンとクリームチーズのカナッペだ。薄くスライスされたサーモンはピンク色に艶を放っている。
志賀野が黙ってそれを口に運ぶのを見て、小五郎も同じように口に含んだ。仄かな塩味とクリームチーズの濃厚な旨味が舌先で蕩ける。
小五郎はワイングラスを傾け、飲み下してから、口を開いた。
「志賀野さん、どんなものでもいいので、なにか僕にメリットを提示してください」
「メリット?」
「自分のことをいい奴だと勘違いしたくないので、利益で動きたいんです」
言うと、志賀野は顎に手を当てて考える。
「そうだな。金親先生はかなりの蒐集家で、別荘にはワインセラーもあるそうだ。金親先生の別荘にくれば、このワインに勝るワインを浴びるように飲むことができる……というのは、実利としては弱いかな?」
「まあ、弱くはないですけど……」
魅力的な提案ではあるが、ほとんど初対面の中年と長野の山奥までランデブーする動機としては、ちょっと弱い。小五郎は人並みに飲酒を好む人間ではあるが、そこまで酒乱というわけでもないのだ。
「というか、根本的な話になりますけど、僕が勝手に同伴して大丈夫なんですか? 言うまでもないことですけど、僕はその金親霖之助さんと面識なんてありませんよ」
「それは問題ない。金親先生に同伴者を連れていく許可は取ってある」
「はあ……なるほど」
自分が首を縦に振ることを前提に話が進められていることが若干気にならないでもなかったが、深く追求するようなことでもないのでスルーした。
「報酬を出すというのはどうだろう」
志賀野は唐突に言った。
小五郎は首を捻る。
「つまり、私に雇われるという形で金親先生の別荘に同伴するんだ。時間的拘束の対価として、私は君に報酬を支払う。そういうアルバイトだと思えば、君も納得するんじゃないか?」
「単発バイトですか。なるほど、それは僕の得意分野でもありますね」
「拘束時間は一拍二日。多少色を付けて、報酬五万円でどうだ?」
割が良いにも程があった。
五万円。言うほど儲かるわけでもないと噂の医者にとっても安い金額ではなかろうが、フリーターの小五郎にとっては大金だった。
別荘に泊まって高級な酒を飲んで一拍して帰ってくるだけで五万円なんて、こんな良縁が自分の元に転がり込んできていいのだろうか、と真剣に現実を疑った。就活ではいつもご縁がなかったと言われているのに。
「でも、なんでしょうね……なんだか、パパ活をしているような気分です」
言ってから、余計なことを言ったと小五郎は思った。
どうやら、酔いが回って舌が軽くなっているらしい。案の定、志賀野はパパ活という単語に眉を顰めた。
「そんな品性の欠落した行為と一緒にするな。これは依頼主の利益に準じて君が仕事をし、拘束時間に準じた報酬を労働者が受け取るという、立派な社会活動だ。サラリーマンや医者とやっていることはなにも変わらない。形態としては、探偵に近いかもしれないな」
「探偵ですか」
「名探偵ではないかもしれないが」
それはまあ、名探偵ではないだろう。
小五郎は名探偵ではない。一度それを演じたことはあるが、その一度で完全に懲りた。
「うーん……」
「不満か?」
「不満なんてありません。綺麗な空気吸って美味い酒飲んで帰ってくるだけで五万円なんてボロい商売だぜラッキー、くらいに思ってますけど、でも、探偵はちょっと」
「探偵が嫌いなのか? ペンションではあれほど揚々と名探偵を演じていたのに――そういえば、かの夏目漱石も生粋の探偵嫌いだったと聞くな。なにか探偵に不愉快なことでもされた経験があるのか?」
「ありませんよ。むしろ探偵は好きです。ミステリー小説もよく読むので。でも、自分が探偵となると、一抹の抵抗を抱きますね。好きだからこそ……みたいな」
理解不能、とばかりに志賀野は肩を竦めた。
「なら、探偵じゃなくてボディガードでいい。とにかく私と一緒に別荘に泊ってくれれば」
「ボディガードですか。それなら、まあ……」
小五郎は曖昧に相槌を打ちながら、志賀野のグラスにワインを注いだ。
そして自分のグラスにもワインを注ぎながら、口を開く。
「わかりました。その仕事、お引き受けします」
「なら、今月末の土日は予定を開けておいてくれ。諸々の細かい予定は、まあ、後日決めよう。今日はとにかく、料理を楽しまなければ」
志賀野が一番外側のカトラリーを手に取る。同時に、前菜のテリーヌが運ばれてきた。どうやらやっと、お楽しみのコース料理が始まったようである。




