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空白のファートゥム  作者: 小沼芙蓉
第一章
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第一章 04 『急変する世界』

光が収まる。


「地震か――?」


脳裏に浮かんだその直感をなぞるように、俺はデスクの上のリモコンへと手を伸ばしかける。テレビの緊急地震速報を確認する、そのごく自然な、日常のルーティンに身体を従わせようとした。


しかし、指先がプラスチックの筐体に触れるよりも早く、そのコードは鼓膜へと直接滑り込んできた。


――ピッ。


電子音のような、極めて無機質で、かつ洗練された高周波の接触音。


「……は?」


伸ばしかけた俺の右手の数センチ先、何もない虚空を切り裂くようにして、淡い水色の半透明な『光の板』が文字通り浮かび上がっていた。

それは、あまりにも見覚えのある光景だった。

この二年間、画面の向こう側でそれこそ数千、数万回と立ち上げ、網膜の奥にまで焼き付けてきたグラフィカル・ユーザー・インターフェース。


自身の能力や状態を定義する、ステータス画面。

三次元の座標を示す、空間マップ。

所持している概念や物品を統括する、インベントリ。


間違いなく、『律鍵と世界の謎』において表示されるシステム画面そのものだった。

だが、決定的な破綻がそこにはある。

ここは、俺の自室だ。六畳一間の、現実リアルの空間だ。ゲームの四角い筐体の中に、俺の意識がハッキングされているわけじゃない。


「……夢、か?」


ぽつりと漏らした言葉が、静まり返った部屋の空気に冷たく溶ける。

昨夜の深刻な寝不足のせいで、俺はアンケートを入力しながら、無意識のうちに机に突っ伏して眠りに落ちていたのではないか。そうした都合の良い解釈システム・エラーを求めて、俺は自分の頬の肉を強めにつねり、そのまま捩った。


「っ……!」


確かな、鋭い痛覚が神経を伝わって脳へと突き刺さる。

夢特有の、輪郭がぼやけたようなあの微睡みの感覚は一切ない。むしろ、肌に触れる夜風の冷たさや、肌が粟立つ感覚さえもが、嫌になるほど精緻な現実感を伴って俺の五感を支配していた。


「……落ち着け」


深く、肺の肺胞の隅々にまで酸素を届けるように深呼吸をする。

こういう想定外の状況バグループに直面した時ほど、思考のクロック数を一定に保ち、冷静になれ。焦ってパニックを起こしたところで、目の前の水色の光板が消えてくれるわけではない。

高校受験の面接の際、緊張のあまり声が裏返って周囲の視線を独占したあの生き地獄に比べれば、今の状況はまだ、他人の目が存在しない分だけマシだ。

……いや、状況の異常度としては、比べるまでもなく世界がひっくり返るほどの事態なのだが。


それからおよそ二十秒、沈黙の中で思考を加速させる。


「ふぅ……」


ようやく、混沌としていた脳内の情報が、少しずつ論理的なセクターへと整理されてきた。

まず、客観的な状況の確認だ。

俺は数分前、確かに『律鍵と世界の謎』が提示した、三百人限定の特別なアンケートに回答した。

その直後に発生した、世界を揺るがすようなあの地鳴りと轟音。

そして今、俺の目の前で淡い光を放っている、現実の物理法則を無視した謎のシステム画面。

これらすべての事象が、単なる偶然の積み重ねとして処理できるはずがない。


俺はゆっくりと、未だ明滅を繰り返しているPCのモニターへと視線を向けた。

そして、その画面に映る『結果』に、小さく息を呑む。


「……消えてる?」


さっきまで、システムエラーのように表示されていた緊急メンテナンスのアナウンスが、どこにもない。

いや、それどころか。PCのストレージ内に確実に大容量のデータとして格納されていたはずの、『律鍵と世界の謎』というアプリケーションそのものが、デスクトップから完全に消失していた。

実行用のフォルダも。起動用のショートカットも。

何一つ、残っていない。まるで最初から、この電子回路の中にそんなゲームなど存在していなかったかのように、綺麗に初期化されていた。


背筋を、冷たい氷の刃でなぞられたかのような戦慄が走り抜ける。

俺は反射的に、デスクの横にある本棚へと視線を走らせた。

そこには、これまで俺が独自にゲーム内のダンジョンを攻略するために書き殴ってきた数冊のノートが、変わらずに並んでいる。ベータ版時代、システムの脆弱性や隠しパラメータについて考察しまとめた、個人的なメモもそのままだ。


つまり、世界から『ゲームの存在の記憶データ』自体が消滅したわけではない。


「はぁ……」


重い、重い溜息が口から漏れた。

ここまで決定的な証拠を突きつけられれば、どれだけ現実逃避を望もうと、認めざるを得ない。

俺の目の前で起きているこの異常現象バグは、確実に、そして致命的なレベルで『律鍵と世界の謎』という世界のシステムとリンクしている。


問題は――ここから、どう動くかだ。


家族の安否はどうか。

廊下の奥の部屋で寝ている怜奈は、おそらく今も爆睡しているはずだ。あいつは、それこそ津波でも押し寄せてこない限り、一度入った睡眠フェーズから目覚めることはない。母親も日中の激務の疲労のせいで、泥のように眠っているはずだ。

周囲の環境を確認する限り、家の中に今すぐ生命を脅かすような物理的な危険が迫っている気配はない。


だったら、選択すべき最初のコマンドは一つ。

まずは、外の世界の状況確認だ。

もし、あのゲームのシステムが現実の空間フィールドへ物理的な影響を及ぼしているのだとすれば、俺の部屋だけでなく、この街、あるいはこの世界そのものに変革の波が起きている可能性が極めて高い。


そこまで思考をまとめると、俺はゲーミングチェアから音もなく立ち上がった。


──────────────────


「……よし」


玄関の三和土に立ち、金属製のドアノブに手をかける。

握りしめた手のひらが、わずかに汗ばんでいるのが分かった。自分の心臓の鼓動が、いつもより速いテンションで脈打っている。


ガチャッ。


ラッチが外れる静かな音とともに、ゆっくりと、慎重に扉を外側へと押し開く。

そして、その隙間から視界に飛び込んできた光景に――俺は、今度こそ完全に言葉を失った。


「――なっ、に、これ……」


思考の処理が追いつかず、肺の中の酸素が引き絞られるように止まる。


空が、割れていた。


夜の帳が降りたはずの、暗澹たる上空の中央。

そこには、世界の物理的な境界線を引き裂くかのような、巨大な『裂け目』が悍ましい存在感を放って広がっていた。

それはまるで、強固な硝子の天球に、内側から凄まじい質量が衝突して粉々に砕け散ったかのような、鋭利な断面を持つ亀裂。その裂け目の向こう側には、現実の星空とは明らかに波長の異なる、底の知れない暗黒に似た何かが、不気味な渦を巻いて蠢いていた。


あまりにも非現実的で、神秘的な光景。

なのに――俺の脳内データベースは、その不吉なビジュアルを、嫌になるほど正確に記憶していた。


「……やっぱり、そういうことか」


『律鍵と世界の謎』。

あの広大な偽物の世界において、プレイヤーが地図を持たずに現在地セクターを判別するための、絶対的なランドマークが存在していた。それが、上空に常に刻まれている『空の裂け目』だ。

裂け目が放つ光の波長、すなわちその『色』によって、そのエリアの中身が定義されるシステム。


つまり、今、この現実の夜空を不気味に侵食しているこの色は――。


「あれ? 怜兄、こんな時間に何してるの?」


背後から、不意に眠気の混じった声が掛けられた。

パジャマの袖を擦りながら、珍しく目を覚ましてリビングから出てきたらしい怜奈の姿。


だが、俺はそちらを振り返る余裕すら、一ミクロンも持ち合わせていなかった。

俺の視線は、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、上空の裂け目へと完全に固定されていた。


裂け目の色。

夜の闇よりもさらに深く、禍々しい輝きを放つ、深い群青――いや、紺色。

その色彩が持つ、システム上の『意味』を完全に理解した瞬間、全身の毛穴が一斉に開き、頭のてっぺんから血の気が引いていくのが分かった。


「っ……!」


まずい。本当に、まずい。

この紺色のセクターが意味するものは。あのゲームにおいて、最初期にプレイヤーの前に立ち塞がる、あまりにも苛烈な――。


思考が結論に達した刹那、俺の身体は、日常という名のブレーキを完全に破壊して地面を強く蹴り飛ばしていた。


「怜兄!?」


怪訝に満ちた怜奈の叫びが、夜の空気と同化して背後へと遠ざかっていく。

俺は制服の上着を翻し、街灯の明かりが点在する夜の坂道を、東の方角へと向かって、全力で疾走を開始した。


間に合え。

頼むから、世界のシステムが本格的に起動を始める前に、まだ、始まってくれるな――!

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