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空白のファートゥム  作者: 小沼芙蓉
第一章
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第一章 03 『家族がらみ、揶揄い沢山』

ガチャ。


「ただいま――」


玄関の鍵を開け、見慣れた我が家の空気に足を踏み入れながら、いつものように声を落とす。

だが、その安堵が肉体に染み渡るよりも早く、異変は起きた。


「怜兄おかえりー!!」


廊下の奥、死角から響く甲高いうなり。聞き慣れた声と同時に、空間の遠近感を無視するような速度で『何か』がこちらへ向かって肉薄してくる。

速い。いや、常軌を逸した初速アジリティだ。

もはや妹というより、質量を持った熱源探知ミサイルに近い。

俺は染み付いた反射神経に従って半身をずらし、そのまま勢い余って通り過ぎようとした怜奈の脇腹を、迎撃するように両手でガシリと掴んで制動をかけた。


「うおっと……危ねえな」


「むぅー……」


空中で完全に慣性を殺され、固定された怜奈は、不満そうに頬をこれでもかと膨らませる。


「次は絶対に成功させて、お腹の骨の一本くらい鳴らしてみせるからね!」


「その、物騒極まりない“次”が来ないことを切に祈るよ、俺は」


今の突撃、体感でおよそ時速百四十キロは出ていたはずだ。プロの投手が投げる直球と同等のエネルギーを朝夕関係なく叩き込もうとするな。

呆れ果てながら彼女を床へと下ろした、その時だった。


「……あれ?」


怜奈が不意に動きを止め、不自然なほど俺の胸元へと顔を近付けてきた。

怪訝に思いながら、その挙動を見下ろす。なんだ、犬かお前は。


「……何してんだ、さっきから」


「んー……」


怜奈はしばらくの間、俺の制服の袖や襟元あたりをじっと、値踏みするように見つめていたが、やがて何かを確信したように不思議そうな顔を上げた。


「怜兄から、なんか女の子の匂いがする」


「…………は?」


一瞬、脳内の演算回路が完全に停止した。


「もしかして、彼女できた?」


「ブフォッ……っ!?」


危うく、気道に入った唾液で盛大にむせ返るところだった。

いや、待て。待ってくれ。なぜその極端な結論に至る。

というか、女子の匂いなどという抽象的な概念を、ただの帰宅直後の衣服から嗅ぎ分けるものなのか。……いや、確かに水埜からは、夕暮れの廊下でかすかに、果実のような淡い香りが漂っていた記憶はあるけれど。

じゃなくて。


「ち、違う。断じて違う。完全な誤解だ」


努めて冷静に、声を低めて慌てて否定しようとする。

だが、そのわずかな動揺と、視線を逸らした一瞬の隙が決定的な敗因となった。

怜奈の、蜂蜜に似た色の瞳が、じわじわと邪悪な歓喜に輝き始める。


「あっ……その絶妙に動揺したリアクション、さては本当に――」


脳内の警告灯アラートが赤色に激しく明滅する。嫌な予感しかしない。

次の瞬間。


ダンッ!!


床を強く蹴る音が響き、怜奈はリビングへ向かって全力疾走を開始した。


「お母さーん!! 怜兄に彼女ができたよー!!」


「おい、待てッ……! 走るな!!」


俺もカバンを放り出し、慌ててその背中を追いかける。だが、時すでに遅し。

リビングの扉を開けた瞬間、そこに佇んでいた母親――神依清奈は、言葉にできないほど生暖かい、慈愛と好奇心の混ざった笑顔を浮かべてこちらを待ち構えていた。


──────────────────


「だから、ただの勘違いだって何度も言ってるだろ……」


その理不尽な誤解を解くために、実に一時間という莫大なリソースを消費させられた。

長かった。精神的な摩耗が激しすぎる。

なんとか「現在、交際している事実はない」という客観的な事実だけは納得してもらえたものの、事態は最悪な方向へ着地していた。

なぜか我が家の共有認識の中に。


『怜人の、将来の彼女候補(暫定)』


などという、意味の分からない謎のカテゴリが誕生してしまっていたのだ。

特に母親の反応が酷かった。

『怜人にも、ようやく春の兆しが見えてきたのねぇ……』などと呟きながら、終始ニヤニヤとした笑みを崩さなかった。本当に勘弁してほしい。


ようやく解放され、夕食を終えて自室へと戻った俺は、深い、深い溜息を吐き出しながらデスクの前に座り、PCの電源を入れた。

静かな起動音とともに、闇に包まれていた部屋が、液晶モニターの放つ青白い光によって淡く照らし出されていく。


「……しっかし、妙なことになったな」


チェアに深く腰掛けながら、ぽつりと呟く。

まあ、しかし――。

今日、あの夕暮れの廊下で水埜と話せたことは、純粋に楽しかった。

学校内ではいつも一歩引いていて、どこか機械的な印象さえあった彼女が、ゲームの、それもあの世界の話題になった途端、あんなにも柔らかく、熱を帯びた表情を見せるなんて思いもしなかった。

……いや、俺は何を一人で感傷に浸っているんだ。


俺は軽く頭を振って雑念を払い、デスクトップの片隅に配置された、見慣れたアイコンへとカーソルを合わせた。


『律鍵と世界の謎』


今日、水埜との間に奇妙な繋がりを作ってくれた、あの広大な仮想現実の世界。

別れ際にフレンドIDの交換だけは済ませてある。もしかしたら、すでに彼女からの申請がシステムに届いているかもしれない。

そんな淡い期待を抱きながら、タイトル画面を立ち上げる。

だが、スピーカーから流れるはずの重厚なBGMは響かず、代わりに無機質なポップアップが画面中央に静かに浮かび上がった。


【ただいま、緊急メンテナンス中です】


「……は?」


思わず、声が漏れた。

珍しい、というレベルではない。このゲームの運営は、バグの修正やアップデートであっても、サーバーを止めるような真似は滅多にしないことで有名だった。俺の二年間という記憶のログを辿っても、メンテナンスの表示を見たのは片手で数えるほどだ。しかもその時でさえ、何が変更されたのか告知すらされない不透明なものだった。


「期間……未定?」


明確な違和感が、胸の奥で小さな冷気となって広がる。

俺は不審に思いながら、詳細を確認するべくお知らせのタブを開いた。そこには、通常のアナウンスとは明らかに毛色の異なる、一件だけの新しい通知が追加されていた。


【ランキング上位三百名を対象とした、特別アンケートを実施しています】


アンケート?

まあ、サーバーが落ちている以上、今はログインすることもできない。

暇潰しがてら付き合ってやるか、と軽い気持ちでリンクをクリックし、ページを展開する。


内容は、拍子抜けするほどシンプルなものだった。

システムの満足度。お気に入りのワールド。今後、拡張を希望するコンテンツ。

どこにでもある、ありふれた運営からの質問状だ。

だが――最後の項目に差し掛かった時、俺の指先がピタリと止まった。


【Q.次期システムにおいて、使用を希望する『技能スキル』を一つ、正確に入力してください】


「技能……?」


スキル。あるいはアビリティ。このゲームでは通常、それらは『恩寵ギフト』や『システム』という呼称で統一されているはずだった。わざわざ『技能』などという、古めかしい、システム規約から外れた単語が使われた記憶はない。


いや。

一つだけ、俺の記憶の深淵に引っかかるコードがあった。


「……ベータ版の、旧仕様か」


正式サービスが開始される遥か前、ごく限られた期間のテストプレイにおいてのみ存在していた、削除されたはずの古いパラダイム。

そして、その時代にだけ実装されていた特殊な能力。

その中に、俺がかつて狂ったように使い倒し、その仕様の隙を突き詰めた技能が一つだけ存在していた。


【合成(ベータ版)】


正式サービス移行時に「ゲームバランスを著しく崩壊させる」という理由で、跡形もなく消去された呪われた技能。

だが、俺がベータ時代に他者を圧倒し、ランキング一位の座を不動のものにできた最大の原動力システムこそが、それだった。

もし、仮にあの運営が、本気でこの能力の再実装を試みているのだとしたら。


選ぶべき答えは、最初から一つしか存在しない。

俺は迷うことなく、キーボードを叩いてその文字列を入力し、送信ボタンをクリックした。


直後。

画面中央の明滅が止まり、血のような、あるいは警告のような無機質なフォントが浮かび上がる。


【ランキング上位三百名のアンケートを受理しました】

【これより、メンテナンスを終了します】


「……は?」


意味が、全く分からない。

世界中に数万、数十万といるプレイヤーの中で、たった三百人の回答が揃っただけで、なぜ全体のメンテナンスが終了する?

そもそも、この不気味なテキストの言い回し。まるで、この瞬間を――。


――ドンッ。


突如として。

大気を、肉体を、そして世界の根底を直接揺るがすような、地の底から響く地鳴りのような轟音が部屋全体を震わせた。


「っ!?」


デスクが激しく ガタガタと音を立てる。

目の前のモニターが、負荷に耐えかねたように激しく明滅を繰り返す。

地震か?

そう直感し、身構えようとした、次の瞬間だった。


PCの画面が、爆発するかのような圧倒的な『白』に包まれた。

その光の強度は、明らかに異常だった。液晶のガラスという物質的な境界線を完全に無視して、純白の輝きが、部屋の闇そのものを侵食するように溢れ出してくる。


「なっ……何だ、これ……っ!?」


光の圧力に押されるように、俺は椅子から立ち上がろうとした。

だが、それよりも早く。

世界のすべてを灼き尽くすような完全な白が、俺の視界を、無慈悲に塗り潰していった――。

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