第一章 02 『新たな知見』
「ふう、これで最後だな」
最後の段ボール箱を床へと下ろし、俺は小さく息を吐いた。
窓の外はすでに薄暗い。先ほどまで世界を赤く焼き尽くしていた茜色の空も、今は境界線を失い、少しずつ深い群青へと溶け込み始めている。
日の落ちた放課後の倉庫には、夕暮れの冷たい空気と、乾燥した段ボールの古びた匂いだけが、静まり返った空間を支配するように漂っていた。
「ありがとうございました」
背後から、水埜の静かな声が鼓膜に届く。
振り返ると、彼女は細い両手を衣服の前で綺麗に揃えながら、小さく頭を下げていた。
「いや、それにしてもすごい量だったな……」
最初に理科準備室の扉を開けたときの、あの圧倒的な光景が脳裏をよぎる。
夕日に斜めに切り取られた放課後の教室。その片隅に、人間の背丈ほどにまで積み上げられていた大量の段ボール箱の山。それはまるで、外の世界との繋がりを遮断する、小さな壁のようにも見えた。
今日の授業は全学年共通の合同実験だったから、これほどの備品や機材が集まるのも理由としては理解できる。
それでも。
「いくら慣れてるって言っても、これを往復して運ぶのは、流石に骨が折れるな」
俺が何気なくそう口にすると、水埜はほんの少しだけ、バツが悪そうに視線を落とした。
「……すみません」
「あ、いや。別に謝ってほしくて言ったわけじゃないからな?」
自分の言葉が彼女に余計な気を遣わせたことに気づき、慌てて声音を和らげる。
そもそも、頼まれてもいないのに勝手に足を止め、首を突っ込んで手伝うと言い出したのはこちらの都合だ。彼女が罪悪感を覚える必要など、どこにもない。
「俺が勝手に手伝うって言い出しただけだし、気にしなくていいよ」
そう言って少し口元を緩めると、水埜は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく安心したように息を吐いた。
倉庫の細長い窓から差し込む、消え入りそうな最後の残光が、彼女の艶やかな黒髪を淡い輪郭で赤く染め上げている。
その一瞬の光景があまりにも静謐で、世界の動きが止まったかのような錯覚さえ覚えた俺は、次の言葉を紡ぐまでに、わずかな空白を必要とした。
「……もう遅いし、途中まで一緒に帰るか?」
「え……?」
「外、もうかなり暗いだろ。物騒だし、途中までなら送るよ」
顎で窓の外を指し示す。
夕焼けの残滓は完全に地平線の彼方へと沈みかけており、校舎の窓ガラスには、すでに夜の冷たい濃紺が映り込み始めていた。
この時間帯の学校という空間は、奇妙なほどに静まり返る。昼間の喧騒が嘘のように消え失せた誰もいない廊下は、まるで昼間とは全く異なる別のセクターへ迷い込んでしまったかのような、特異な雰囲気を纏っていた。
「でも、悪いですし……神依さんにそこまでしてもらうのは……」
「気にしなくていいって言っただろ。俺も一人で帰るよりは退屈しない」
俺が淡々と言葉を重ねると、水埜は少し迷うように長い睫毛を伏せたあと、小さく、しかし明確に頷いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「了解」
そうして俺たちは、静寂の底に沈んだ校舎を後にした。
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昇降口を出て一歩外へ踏み出すと、夜の冷気を含んだ風が容赦なく頬を撫でた。
昼間にアスファルトが蓄えていた熱気はすっかり霧散しており、肌に触れる空気は少しだけ冷たい。
住宅街へと緩やかに続く坂道を、俺たちは適度な距離を保ちながら並んで歩く。
家々の灯りや、古びた街灯がぽつぽつと点灯し始めていた。その淡いオレンジ色の明かりが、隣を歩く水埜の横顔を時々ぼんやりと照らしては、また夜の闇の中へと消していく。
……正直に言おう。気まずい。
静かすぎる。
耳に届くのは、二人の規則正しい足音と、たまに通り過ぎる車の遠い駆動音くらいで、会話らしい会話が全く成立していない。
いや、言い出しっぺの俺が連れ出したのだから、エスコートする側として何か話題を振るのが筋なのだろう。だが、普段から必要最低限の人間関係しか維持していない俺の脳内データベースには、こうした「放課後の女子との会話」という高度なシチュエーションに対応するログが存在しなかった。何を話せばいいんだ、一体。
沈黙の重みに耐えかねて、何か言葉を発しようとした、その時だった。
「あの……」
「「あの……」」
声が見事に対流し、重なった。
思わず足を緩め、互いに顔を見合わせる。
一瞬だけ訪れた奇妙な間の後、水埜の口元から、ふっと小さく、 鈴の音のような笑みが漏れた。
「あ、どうぞ。神依さんから」
「いや、水埜さんからでいいよ」
「……いえ、大丈夫です。どうぞ」
綺麗な譲り合いの結果、ボールは完全に俺の足元へと転がってきた。つまり、こちらから話題を提供しろということらしい。
えーっと、と数秒の猶予を脳内で稼ぎ、苦し紛れに、しかし自分にとって最も身近な単語を口にする。
「水埜さんって……その、普段ゲームとか、したりする?」
言った瞬間、脳の片隅で激しい後悔が襲ってきた。
初対面に等しい女子への最初の話題として、なぜゲームを選んだ、俺。もっとこう、放課後の高校生らしい、最近の流行りだとか、オシャレな店だとか、無難な選択肢が他にあったはずだろう。
「あ、いや。変な意味じゃなくて、単なる世間話として――」
「やってます、私」
「……え?」
予想外の、そして一切の迷いのない即答だった。
街灯の明かりが差す暗がりの下で、水埜は細い首を縦に振り、小さく頷く。
「ゲーム、好きです」
夜風に吹かれて、彼女の黒髪がふわりと柔らかな軌道を描いて揺れた。
どこか規律を重んじる生徒会役員という彼女のパブリックイメージからすれば、それはなんとなく、意外な告白だった。
「へえ、ちなみに何のゲーム?」
「『律鍵と世界の謎』っていう……少し古い、VRのゲームなんですけど」
「……マジで?」
思わず、歩を進めていた足がピタリと止まる。
予期せぬ単語の出現に、俺の思考回路がコンマ数秒フリーズした。俺の反応の大きさに驚いたように、水埜もまた足を止め、不思議そうにこちらを見上げている。
「俺も、それやってる」
「えっ……」
夜の住宅街の一角で、数秒間の静寂が静かに流れた。
そのあと、水埜は自分が何か粗相をしてしまったかのように、慌てた様子で小さな口を開いた。
「あ、すみません……! 急に変なことを言って、驚かせてしまって……!」
「いや、違う。驚いたのは本当だけど、引いたわけじゃない。ただ……」
俺は前髪の隙間から彼女をまっすぐに見つめ、言葉を続けた。
「あのゲーム、世界規模で流行った割には、今も続けてる現役のプレイヤーってあまり周りにいなかったからさ。身近にプレイヤーがいたことに、純粋に驚いただけだ」
俺の言葉を聞いた水埜は、その蜂蜜色の瞳をわずかに輝かせ、少しだけ、本当に少しだけ嬉しそうに口元を綻ばせた。その表情は、夜の静けさに溶けていく街灯の明かりのように、ひどく繊細で、儚げだった。
「ちなみに、進行度はどの辺まで進んでるんだ? あのゲーム、後半のエリア解放の条件がかなりシビアだけど」
「最後まで……一応、メインのストーリーは全部クリアしています」
思っていた以上に、彼女は『深淵』に足を踏み入れていた。
全盛期の熱波が去った今、あの広大で難解な世界を最後まで見届けたプレイヤーの数など、全体から見ればほんの一握りに過ぎない。そこまで到達しているということは、彼女もまた、あの世界に相応の時間を捧げてきた本格的なディープユーザーであることの証明だった。
「はい。あのゲーム、世界の作り込みがやけにリアルで……まるで、本当にそこに別の世界が存在しているような、そんな不思議な感覚がして。気付いたら、ずっと続けていました」
そう言いながら、水埜は少しだけ、星の点在する夜空へと視線を向けた。街灯の放つ淡い光が、彼女の灰色の混じった美しい瞳に、小さな星のように映り込んでいる。
「分かるよ。ただのグラフィックっていう枠を超えて、自分が本当にその大気を吸って、そこに存在しているような……そんな錯覚を覚えるくらい、あの世界は美しい」
俺がそう静かに返すと、水埜は今度こそ、隠しきれない親愛の情を滲ませるように、嬉しそうに微笑んだ。
「はい……。景色も、そこに流れる音楽も本当に綺麗で。ただ高い場所に登って、遠くの景色を眺めているだけでも、時間を忘れてしまうというか」
その言葉を耳にして、俺は胸の奥で、小さく感心せざるを得なかった。
てっきり、効率的な攻略や戦闘のPvP(対人戦)を好むような、数字を追い求めるタイプかと思っていたのだ。だが、目の前の少女は違った。
彼女が愛しているのは、あの世界の背景、物語、そして『世界そのもの』の空気感。
同じゲームをプレイしていても、人によって見ている景色や、惹かれる要素は全く異なる。やはり、人間の本質を表面的な肩書だけで判断するものではないな、と一歩引いた視点で己の偏見を省みる。
「神依さんは……どこが一番、好きなんですか?」
「俺?」
突然水を向けられ、歩きながら少しだけ思考を巡らせる。
二年間、世界の頂点に君臨し続けてきた俺が、あの世界に求めたもの。
「……やっぱ、世界に散りばめられた考察要素、かな。神話の裏設定とか、何気ないNPCの台詞の裏にある緻密な伏線を見つけるのが、昔から好きで」
「あ、それ、すごく分かります」
水埜は我が意を得たりとばかりに、小さく頷いた。
「散らばっていたピースが一つに繋がって、隠された真実に気付いた瞬間……胸の奥が“あっ”て、冷たくなるような感覚になりますよね」
「そうそう、それ。あの感覚を味わうためにやってる節はあるな」
そこから先は、自分でも驚くほど、滑らかに、自然に会話の歯車が回り続けた。
お互いに好きだったシナリオの分岐点。
初めて訪れたときに息を呑んだ、忘れられない美しいロケーション。
サントラを購入するほどにお気に入りの、静かなフィールドのBGM。
ただの夜道を並んで歩いているだけなのに、体感時間は狂ったように加速していく。他者との関わりをあえて拒絶し、一人の領域を守り続けていたはずの俺の心が、ゲームという一つの共通項を通じて、驚くほど自然に彼女の波長と同調していくのを感じていた。街灯の下を通り過ぎるたびに短くなる二人の影が、夜の帳の中へ、どこまでも心地よく伸びていく――。




