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空白のファートゥム  作者: 小沼芙蓉
第一章
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第一章 01 『シラナイ岐路』

---


キンコンカンコーン――。


緩やかな高低音の連なりが、白々とした蛍光灯の光が満ちる教室へと染み渡っていく。

一時間目の終了を告げるチャイムの音。それを合図にしたように、張り詰めていた大気が弛緩し、周囲から一斉に椅子を引きずる音や、他愛のない雑音が湧き上がった。


ようやく、最初の一コマが終わったか。

机の上で軽く指を組み、小さく息を吐き出す。思考の端々を泥のように侵食していくのは、まぎれもない睡眠不足の弊害だ。昨夜の午前二時三十七分というタイムスタンプを思い出すだけで、瞼の裏がじわじわと熱くなる。正直に言って、現時点ですでに体力の限界を迎えつつあった。


「なあ怜人、今日のお前、さっきからやけに腹さすってるけどどうしたんだ?」


通路を挟んだ隣の席から、低い声が掛けられた。

視線を向ければ、こちらの様子を覗き込んでいる男の顔がある。


「いや、なんでもない……と言いたいところなんだがな。朝から妹に蹴り入れられてな」


「蹴り?」


「ああ。それも、ただの小突いたようなやつじゃない。全力の飛び蹴りだ」


言葉を濁さず淡々と事実を告げると、相手は一瞬だけ目を丸くした。だが、すぐにその状況を察したように、肩を震わせ始める。


「ハハ、お前また怜奈ちゃんの地雷踏んだのか?」


悪びれもせず笑うのは、三島樹。

俺の数少ない――いや、学校という空間において、唯一と言っていい友人の一人だ。

そしてこいつは、神様がパラメータの割り振りを間違えたんじゃないかと思えるほどの、いわゆる『完璧超人』というやつである。

学年の上位に常に名前を連ねる成績、どの部活に助っ人に行ってもエース級の活躍を見せる運動神経。その上、無駄に顔までいい。初めて高校の入学式で出会ったときは、「漫画の住人が現実に混ざり込んでる」と、本気で自分の世界認識を疑ったものだった。


「地雷ってほどでもないと思うんだがな……。朝飯のときに、ちょっと心の中で失礼なことを考えただけだ」


「それが一番アウトだっての。怜奈ちゃん、お前のそういう気配にだけは妙に鼻が利くだろ」


「……あいつの基準だと普通に重罪なんだろうな」


妹という生き物の生態は、どれだけ長く一緒に暮らしていても、時に理解が追いつかない。

俺が諦めの混じった溜息とともに「まあ、そんなところだ」と話を切り上げると、樹は椅子の背もたれに体重を預けながら、楽しげな苦笑を浮かべた。


「怜人、お前また俺のこと『イケメン』だの何だの考えてるだろ」


「……なんで分かる」


本当に、最近つくづく思う。

目の前の男は、人の思考を読み取るパッシブスキルでも搭載しているのではないか、と。プライバシーという概念が希薄すぎる。


「顔に出てるんだよ、お前は。分かりやすすぎる」


樹は手元のシャーペンを指先で弄びながら、言葉を続ける。


「というかさ、お前も前髪で隠れてるだけで、パーツ自体は普通に整ってるんだから。もう少し身だしなみとか気にして、自信持てって。勿体ないだろ」


「そうは言ってもなあ。そんな実感、一度も持ったことないし、別に今更どうでもいい」


これまで生きてきた十六年と少しの人生において、女子との甘酸っぱいイベントなど皆無だ。深く考えると不毛なだけなので、この思考は強制終了するに限る。


「それはさ、お前が自分から『人を寄せ付けない雰囲気』を常時放ってるからだろ?」


「……まあ、それは否定しないけど」


樹の指摘は、ぐうの音も出ないほどに的を射ていた。

俺は過去の、中学時代にあった『ある出来事』を境にして、必要以上に他者と深く関わらないように心の境界線を引いている。

決して、徹底的な孤立を愛する孤独主義者というわけではない。ただ、不特定多数の人間関係に巻き込まれても、ろくな結果にならないことを身をもって知っているだけだ。少なくとも、俺という人間にとっては。

だから今更、この安全なスタンスを崩してまで、他人の領域に踏み込むつもりもなかった。


「今更、撤回する気はないさ。これが一番気楽なんだよ」


「そうか。まあ俺としては、お前がぼっちだろうが、そうでなかろうが、どっちでもいいんだけどな。こうして話せればさ」


「ぼっちとは失礼な。俺にだって友達くらい……」


言いかけて、言葉が喉の奥でピタリと止まる。


……。

……あれ。


よくよく記憶のログを遡ってみる。学校という社会的な空間において、業務連絡以外でまともに、対等に言葉を交わしている相手――。


「……樹、以外に、いない?」


「お、ようやく気付いたか」


「頼むから気付かせるな。普通にダメージが入る」


胸のあたりを押さえる俺を見て、樹はついに堪えきれずに吹き出した。そして、慰めるように俺の肩をポンポンと軽く叩く。


「まあほら、俺っていう最高のダチがいるだろ? 元気出せって」


「お前……顔だけじゃなくて性格までいいとか、神様は不公平が過ぎるだろ」


そんな、中身のまったくないくだらない軽口を叩き合っているうちに、十分間の短い休み時間はあっという間に過ぎ去っていった。予鈴のチャイムが、また現実の続きを告げるように鳴り響く。


──放課後。


日直の義務である黒板消しと日誌の記入を終えた俺は、すっかり静まり返った校舎の廊下を一人で歩いていた。

窓の外を見やれば、視界の端から端までが燃えるような夕焼け色に染まり始めている。古い木造を一部に残した廊下の床には、長く、赤い光の帯がいくつも差し込んでいた。


一日の役目を終えたあとの、この時間帯の学校は決して嫌いではない。

昼間の騒がしさや、張り詰めた空気感が嘘のように消え失せて、妙に耳の奥が落ち着くからだ。歩を進めるたびに、自分の上履きの音だけが規則正しく響く。

……まあ、静かになればなるほど、強烈な眠気がぶり返してくるのだけは勘弁してほしいのだけれど。


「昨日の二時半が、ここにきて効いてるな……」


誰もいない空間にぽつりと溢した溜息は、夕暮れの空気に溶けていった。

カバンを肩にかけ直し、階段に向かって角を曲がろうとした、その時だった。


廊下の少し先、夕光のグラデーションの中に、一人の女子生徒の姿が浮かび上がった。


肩のあたりまで綺麗に切り揃えられた、青みがかった黒髪。

彼女は、自分の胸元ほどまである大きな段ボール箱を、両手で抱え込むようにして持っていた。

少し俯き気味に、足元を確かめるようにして歩くその独特のシルエットに、見覚えがあるような気がして、俺は自然と足を止めていた。


「あれ……水埜、か?」


声をかけると、彼女はびくっと、まるで小さな動物のように肩を揺らしてこちらを振り向いた。


「あ……」


夕日に照らされ、琥珀色か、あるいは蜂蜜の色を混ぜ込んだような、不思議な黄色みを帯びた瞳が、驚きを映して小さく揺れる。


水埜冰蓉。


同じクラスになったことはない。けれど、その少し変わった名前と端正な容姿は、学年内でもそれなりに知られていた。生徒会に所属していることもあって、廊下や集会で見かける機会は割と多い。

ただ、こうして一対一で、プライベートな距離感で言葉を交わすのは、これが初めてのことだった。


「ええと……」


水埜は段ボールを抱えたまま、困ったように視線を泳がせている。

どうやら、俺が誰なのか、瞬時に名前が出てこないらしい。まあ、当然と言えば当然だ。俺は学年のカーストでも底辺に近い地味な存在だし、そもそも俺自身、他人の名前と顔を一致させるのが苦手な側の人間だ。気にする方がどうかしている。


「神依怜人だ。同じ学年の」


「あ、はい……神依、さん、ですね」


どこかぎこちない、硬さの残る響きで、水埜は俺の名前をなぞった。

その声のトーンの低さに、妙な居心地の良さを感じつつも、俺の視線は彼女の腕の中へと向かう。


「……それ、かなり重くないか?」


改めて観察すると、彼女が抱えている段ボール箱は、女子が一人で持つには明らかに容量をオーバーしている。しかも、中身が隙間なくパンパンに詰まっているのが、外側の歪みからでも分かった。


「今日の授業で使った……その、備品なんです。倉庫まで、運んでいて」


「あー、なるほど」


少しだけ上がった息を整えながら説明する彼女の言葉通り、箱の合わせ目の隙間から、古びた木製の教材らしきものが覗いていた。

しかし。


「それ、一人で運んでるのか?」


「はい。あと三回くらい、往復すれば終わるので」


「三回……」


思わず、おうむ返しに呟いてしまった。

この重量の箱を、あと三往復。普通に考えて、過酷な労働だ。というか、彼女のあの細い腕のどこに、これだけの質量を支える筋力があるのだろうか。よく見れば、ローファーのつま先が、重みに耐えるようにわずかにふらついている。


根が誠実、などと自己評価するつもりはない。ただ、ここで「じゃあな」と言って通り過ぎるほど、俺の心臓は毛深くはできていなかった。ここで見捨てたら、今日の晩飯の味に、変な後味が混ざりそうな気がする。


「……持とうか? 手伝うよ」


俺がそう提案すると、水埜は今度こそ、弾かれたように丸い瞳をさらに大きくした。


「え、でも、悪いですし……神依くんも、もう帰るところですよね?」


「別に。どうせ急ぎの用事もないし、ただ帰って寝るだけだから。二人で運んだ方が早いだろ」


それに、と心の中で付け足す。女の子にそんな重労働を押し付けて、自分だけ手ぶらで帰る日常は、流石に格好が悪すぎる。


水埜は少しの間、本当に申し訳なさそうに視線を伏せ、葛藤するように段ボールの端を指先で握りしめていたが、やがて小さく、丁寧に頭を下げた。


「……じゃあ、お言葉に甘えても、いいですか?」


「ああ、任せろ」


歩み寄り、水埜の手元から段ボールの片側の端を受け取る。その瞬間、指先に伝わってきた重量に、俺の背筋が一瞬だけ強張った。


「うわ、重っ……!」


予想の斜め上を行く負荷に、思わず声が漏れる。中身は木や金属の塊か何かなのだろうか。

水埜は、それ見たことかと言わんばかりに、眉をひそめて申し訳なさそうに縮こまった。


「すみません……やっぱり、重いですよね」


「いや、謝ることじゃない。むしろ、これを一人で運ぼうとしてた水埜のほうが普通にすごい」


冗談めかして言うと、水埜は少しだけ緊張を解いたように、困ったような、はにかんだような笑みを浮かべて視線を逸らした。


「生徒会の仕事、なので。こういうの、慣れてるだけです」


その、夕日の赤を浴びた横顔を間近に見ながら、俺はなんとなく、本当に深い意味もなく思った。

綺麗な人だな、と。

こいつは樹のように、周囲の視線を一瞬で奪い去るような、派手で眩い太陽のようなタイプではない。

けれど、静まり返った湖の濁りのない水面のような、そんな静かな空気感を持っている。落ち着いた佇まいと、夕暮れの廊下という背景が、妙に調和していて――それが、俺の頼りない網膜に、ひどく鮮烈な印象として焼き付いた。


「倉庫って、どっちだ?」


「あ、こっちです。こっちの奥の階段の、下にあるんです」


小さな声でそう言って歩き出した水埜の後ろ姿を、俺は腕にかかる確かな重みを感じながら、ゆっくりと追いかけていった。

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