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空白のファートゥム  作者: 小沼芙蓉
プロローグ
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プロローグ 『コンティニュー』

「……カチ、カチ、カチ――」


静まり返った暗がりの部屋の中に、マウスのクリック音だけがやけに重く響いていた。

外の世界を拒絶するように閉ざされたカーテンの隙間から、夜の闇が染み込んでくる。ただ一つ灯る液晶モニターの青白い光だけが、この世界のすべてを証明するかのように、俺の網膜をじっと灼き続けていた。


「……っ、あ」


思考の空白は、わずか一秒にも満たない刹那。

だが、その一瞬の遅れが、画面の向こう側で決定的な『破滅』を形作っていた。


死んだ。

――いや、より正確に言うなら、現実の俺ではなく、画面の中で懸命に足掻いていたキャラクターの命が、呆気なくついえたのだ。


頭の中で、今の数秒間の光景が何度も残酷に再生される。

あと三ミリ。ほんの指先が数ミクロン、上へと照準を動かしていれば、その軌道上に待ち受けていた即死の罠を綺麗に避けて通り抜けられたはずだった。しかし現実は非情だ。俺の分身は、まるで自ら進んで終わりを望んだかのように、完璧なまでの無慈悲さでその一撃へと頭から突っ込んでいった。


やり場のない憤怒が、黒い澱のように胸の底からせり上がってくる。


「今の……避けただろ、絶対……」


誰に言うでもなく、誰もいない空間に向けて、呪詛に似た吐息を漏らす。

首を圧迫していたヘッドセットを荒々しく外すと、机の上へと放り投げた。


視線の先、高精細な画面には、これまで数千、数万の試行錯誤の中で見飽きたはずの文字列が、冷徹な赤色で浮かび上がっている。


『GAME OVER』


世界がそこで途切れたことを示す文字列。普通なら、単なるゲームの終了として片付けられるその文字が、今の俺には酷く忌々しい。

ランキング一位という絶対的な座を維持し続ける防衛の義務は、一回一回の凡ミスを、ただの失敗ではなく『看過できぬ汚点』へと変質させてしまうからだ。


視線をずらし、卓上の時計に目を落とす。


午前二時三十七分。

夜の静寂が最も深まり、世界の境界線すら曖昧になる時間帯。

学生として、翌日の生活を考慮するならば、明確に「終わっている」と断言せざるを得ない致命的な時刻だった。


「……寝るか」


明日、いや、地球の自転に従えばすでに「今日」という現実がすぐそこに迫っている。

学校という日常から逃れることはできない。そろそろ眠りにつかなければ、数時間後の俺の人生は完全に使い物にならなくなる。

……まあ、二年間という莫大な時間をこの画面に捧げ続けている時点で、俺の人生の大半はすでにこの四角い筐体に侵食されているようなものなのだが。


椅子にもたれかかり、ギチ、と軋む音を聞きながら、俺――神依怜人は、机の傍らにひっそりと置かれたパッケージへと視線を向けた。


『律鍵と世界の謎』


数年前、世界規模という名の巨大な渦を巻き起こし、多くの人々の心を奪い去ったVRゲーム。

それは、ありふれた剣と魔法の物語などという生易しいものではなかった。神話の再現、滅亡した超古代文明の息吹、そしてシナリオの裏側に狂気的な精度で張り巡らされた無数の緻密な伏線。

さらには、開発運営すらもその全貌を把握していないのではないかと噂される、あまりにも深い隠し要素。


全盛期には、動画サイトもSNSも、世界は一律にこのゲームの色に染め上げられていた。

今でこそブームの熱波は去り、凪のような落ち着きを見せているが、それでもなお、深淵に潜む現役プレイヤーの数は異常だった。


現在、ランキング制度にその名を連ねる猛者たちはおよそ一万五千人。

そして――その頂点、ピラミッドの最上層に君臨し続けているのが、この俺だった。


他者を寄せ付けぬ独走状態で、丸二年間。


「……いや、客観的に考えてキモいな、俺」


自嘲気味に呟いた言葉が、冷たい部屋の空気の中に霧散していく。

二年間、世界の王であり続けた。だが、その栄光の玉座も、永劫ではない。


「でも、そろそろ……終わりか」


ぽつりと、自分でも驚くほど感傷的な声が漏れた。


迫り来る受験の足音。大学という名の社会のシステム。その先に待つ、将来という名の現実。

現実という名の、あまりにも冷酷な世界は、ゲームのように毎日ログインするだけでボーナスを付与し、人生の難易度を優しく書き換えてくれたりはしない。


ずっと、この世界の住人でありたかった。

そう魂の底から願えるほどには、俺はこの偽物の世界を、狂おしいほどに愛してしまっていたのだ。


「……ま、仕方ないか」


抗えぬ現実の歯車を受け入れるように、俺はベッドへと身体を投げ出した。

重力に従い、吸い込まれるようにシーツへと沈み込む。視界が急速に狭まり、意識の輪郭が曖昧になっていく。俺の精神は、そのまま深い、深い暗黒の深淵へと没入していった――。



「――チ、チュン、チュン……」


鼓膜を揺らすのは、大気中を伝わる生命の波動。鳥たちの囀りだ。

光が網膜を刺激し、強制的に脳のスイッチが押し込まれる。朝だ。世界がまた、残酷に回り始めた。


最悪の目覚め、というやつだった。


「眠っ……」


眼球をわずかに開いたその瞬間、肉体が発する重みで理解する。今日の俺という存在は、機能的な観点から見て、完全に一日中使い物にならない。

そもそも人類の構造は、午前二時半に深い眠りへ移行し、午前七時に覚醒を強要されるようには設計されていないのである。これは生存戦略における基礎の基礎、テストに出る重要項目だ。


重い四肢を動かし、学校の制服という名の日常の鎧に腕を通していると、突如として。


――コンコン。


薄い木製のドアが、明確な振動を伴って音を立てた。


「誰だ?」


「怜兄! 私だよ私! 入っていい!?」


声の響きからして、該当する人物は一つしかない。だが、あえて俺は心の中でツッコミを禁じ得ない。

“私”という極めて抽象的な言葉だけで、家族の個体を識別しろというのは、あまりにも理不尽な要求ではないだろうか。


「はいはい、入って――」


拒絶の文言を口にする隙すら、その侵入者は与えなかった。


――ドンッ!!!!


「くっらええええええええええ!!!!」


「うおっ!?」


網膜が捉えたのは、文字通り「爆発」するかのように開け放たれた扉。

一瞬の後に、視界のパースペクティブを無視して、空間を高速で飛来する質量――すなわち、我が実妹の姿だった。


いや、何故だ。

何故、生命の息吹を感じるべき清々しい朝のファーストコンタクトにおいて、彼女は全力の飛び蹴りという選択肢を選んでいるのだ。

因果関係が完全に崩壊している。理解の範疇を超えた超常現象に、俺の脳内演算はエラーを吐き出す。


だが、二年間世界の頂点に立ち続けた俺の身体は、思考よりも早く、最適解の回避行動を選択していた。脊髄反射で上半身を後方へと大きく逸らす。


直後。


ズザァァンッ! ボフッ!!!


俺が先ほどまで位置していた空間を通り抜け、妹は勢いよく万年床の布団へと突っ込んでいった。実に見事な、景気のいい破壊音が室内に木霊する。


「いったぁー……!」


「自爆じゃねえか!!」


布団の海から這い出てきた不条理の体現者――神依怜奈は、涙目で自身の膝をさすりながら、理不尽極まりない憤怒をこちらに向けて頬を膨らませていた。


「なんで避けるのさ!」


「避けなかったらこっちの命の灯火が消えるからだよ!」


「大げさだなあ、もう!」


大げさなものか。

こいつの放つ攻撃には、明確に質量と加速度が乗っている。およそ一般的な女子中学生が有していい脚力の範疇を逸脱しているのだ。カテゴリに分類するならば、当たったものなら骨の一本は軽く逝きそうなものだ。


「ちぇー、つまんないの。あ、ママが朝ごはんできてるって!」


……切り替えの処理速度が早すぎる。

数秒前まで俺の生命線を脅かしていたあの純粋な殺意は、一体どこの次元へ消え去ったというのか。


俺は深い、魂の摩耗を伴う溜息を吐き出しながら、エネルギーの塊のような妹の後を追い、リビングへと移動した。


「あら、おはよう怜人」


「おはよう、母さん」


視界が切り替わり、リビングの家庭的な風景が広がる。

そこでは、我が家の絶対的な管理者である母親、神依清奈が、手際よく朝食のプレートを並べているところだった。

大気中を漂う、熱されたケチャップとバターの甘美な匂い。それを感知した瞬間、怜奈の瞳に、まるで高出力のライトが灯るかのような輝きが宿った。


「今日、オムライス!?」


「ええ、怜奈の大好物よ」


「やったぁぁぁ!! お母さん大好き!!」


朝の低血圧という概念を真っ向から否定するテンションの高さ。

本当に俺と同一の遺伝子を持つ人類なのだろうか。世界の神秘に疑念を抱いていると、


「あ、怜兄いま、すっごく失礼なこと考えたでしょ」


ピクリと、怜奈の直感が俺を捉えた。


「……なんで分かった」


「ふふん、怜兄の思考パターンなんて、この私にはすべてお見通しなのです!」


ふんぞり返り、得意げに胸を張る怜奈。

どこから湧き出てくるのか分からない、その無駄な絶対的自信は一体何なんだ。


「そうかそうか。じゃあ、俺の思考はすでに解析済みってことで、俺はもう朝の食事を終えたから――」


これ以上の追及を避けるべく、席を立とうと腰を浮かせた、その刹那。


ガシッ。


背後から、逃避を許さない鉄の爪が俺の肩を強固にホールドした。

背筋を冷たい戦慄が走り抜ける。嫌な予感しかしない。


「怜・兄・ぃ?」


「……はい」


「さっきの無礼な脳内不敬罪、まだ精算が終わってないよね?」


終わっていなかった。

我が妹という名の天災は、こういう負の負債を絶対に有耶無耶にはしてくれない。ここで逃亡を選択すれば、後で数倍に膨れ上がった災厄がカウンターとして返ってくる仕様なのだ。


つまり、この場における唯一の生存戦略は、無抵抗でその一撃を受け入れ、彼女の機嫌をリセットすること。


「……お手柔らかに、頼む」


「オッケー、肉体言語で語り合おう!」


次の瞬間。


ダンッ!!!!


「ぐはっ!!?」


一切の無駄を削ぎ落とした、美しい一閃。

完璧なフォームから繰り出された飛び蹴りが、俺の脆弱な腹部へと正確無比に突き刺さった。


――こうして。

通算「対妹・被弾記録」の二十四回目を無事に更新した俺の一日は、今日も変わらず、平和に幕を開けるのだった。

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