第一章 05 『劇場』
「ちょっと怜兄、急にどうしたの!? って、なにこれ、あの空……ッ!?」
背後から鼓膜を震わせる怜奈の悲鳴は、困惑と、未知の光景への恐怖に完全に支配されていた。
だが、今の俺にはその場に立ち止まり、彼女の肩を抱いて安心させてやるだけの時間的リソース(猶予)が絶望的に不足している。
悪い、怜奈。説明は、生きて戻ったら必ずする。
俺は心の中でそれだけを強く呟き、夜の静寂に沈んだ住宅街を、ただ一心不乱に駆け抜けた。
肺が、吸い込んだ冷気と急激な運動のせいでガラス片を呑み込んだかのように熱く、痛い。心臓が肋骨の裏側を壊れそうな勢いで叩いている。
けれど、限界を訴える肉体の警報を無視して、俺はさらに前傾姿勢を深くし、速度を上げた。
もし、俺の最悪の推測が正しいのだとすれば、今この瞬間の一秒、一コンマの遅れが、文字通り致命傷になる。
『律鍵と世界の謎』というシステムにおいて、世界各地に点在する“遺跡”と呼ばれるエリア。
それは、内部のギミックを突破し、最深部の守護者を踏破した者に対して、現実の物理法則を凌駕する強力な恩恵を与える高難度コンテンツだ。
ある者は、一撃で鉄塊を断つ『武器』を得る。
ある者は、大気を焦がす『魔法』を顕現させる。
ある者には、世界の理を歪める『特殊技能』が授けられ、またある者は強固な『ジョブ(職業)』の加護を得る。
だが――今、俺が全力で目指している東の境界にある遺跡だけは、それら有象無象のコンテンツとは完全に一線を画す『別格』だった。
紺色の裂け目。その極東の端。
そこには、ワールドの歴史において『一度しか攻略できない』という絶対的な制約を持つ、特殊なワールドクエスト指定遺跡が存在する。
俺がこうして、深夜の街をなりふり構わず疾走している理由は、大きく分けて二つ。
一つ目。
もし本当に、この現実が『律鍵』のシステムに完全侵食され、ゲーム化の一途を辿っているのだとすれば、あの遺跡の最深部に眠る『最初の報酬』だけは、何が何でも他の誰よりも先に確保しなければならない。あれは、この先の混沌とした世界を生き抜く上で、俺の絶対的な“核”になる。
そして――二つ目。
実のところ、こちらの理由の方が、今の俺にとっては遥かに重要であり、悍ましい現実味を帯びていた。
「……間に合えよ、クソが……ッ!」
激しく喘ぐ息の合間に、呪詛のような言葉が漏れる。
ベータ版のサービス初日。当時、開発運営のサーバーに処理しきれないほどの大量のプレイヤーの苦情と、絶望の悲鳴が殺到した最悪のイベントがあった。その原因こそが、あの東端の遺跡だ。
発生条件は一つ。
世界がそのセクター(紺色の裂け目)を認識してから、制限時間『二十四時間以内』に、誰か一人が遺跡を踏破すること。
もし、そのタイムリミットがゼロになるまでに達成されなかった場合――。
システムは、その紺色の裂け目が覆うエリア一帯を『エラー領域』とみなし、完全にデリート(消滅)する。
建物ごと。道路ごと。そこに生きる、何万人という人間ごと。何もかもを、最初から存在しなかったデータとして、世界から完全に抹消するのだ。
実際、ベータ版当時のプレイヤー達は、状況の理解が追いつかないまま時間を浪費し、初日に広大な初期エリアごと消滅するという最悪の洗礼を受けた。
だからこそ。この紺色の裂け目の直下に我が家があり、怜奈や母親が眠っている以上、俺が最優先で、この命を賭してでも攻略しなければならない。
視界の端で、夜空の紺色の裂け目をトレースするように走り続ける。
やがて、傾斜の急な坂道を下りきった先、かつて小さな児童公園だったはずの敷地の中央に、周囲の空間から完全に浮き浮きとした“それ”が姿を現した。
「……あった、な」
紺色の、巨大なゲート。
それは重厚な石造りの扉の形状を模していながら、その中央には何も映しておらず、ただ底の知れない純然たる暗闇だけが広がっている。
扉の輪郭だけが、ホログラムのような、あるいは波打つネオンのような電子の光を不気味に放っていた。
異様だ。現実の物質空間(三次元)に存在していい光景ではない。
けれど、俺の細めた瞳の奥には、恐怖よりも奇妙な『既視感』が勝っていた。画面の向こう側で、何度も、本当に何度もクリックし、その奥へと身を投じてきた馴染み深いオブジェクトだったからだ。
「まだ……誰も気付いてない、か……」
周囲を見渡すが、人影は一つもない。家々の窓は暗く、静まり返っている。
この真夜中という時間帯だったのは、不幸中の幸いだった。通常の感性を持つ人間なら、空の裂け目を見てパニックを起こして家に引きこもるか、あるいは警察に通報するのが関の山で、わざわざこの不気味な光の扉に近づこうとはしないはずだ。
もし、この状況の『本質』を瞬時に見抜き、このゲートへ自ら足を運ぶ者がいるとすれば――。
俺と同じ、あの世界を最後まで見届けた“プレイヤー”だけだ。
俺は躊躇うことなく、紺色の光を放つゲートの闇へと身体を滑り込ませた。
視界が、一瞬にして完全な暗黒へと反転する。
次の瞬間。
「っ……はぁ、はぁ……っ、げほっ!」
足元の感触がアスファルトから変化し、俺は激しく 膝へ手をつきながら、溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。
走った距離が距離だ。運動用のアバターならいざ知らず、完全に運動不足の極みである現実の帰宅部の肉体には、今のスプリントは過酷という言葉では足りない。額から大粒の汗がボタボタと床へ垂れ落ちる。
だが、荒い呼吸を整えながら、ゆっくりと顔を上げた瞬間――その肉体的な疲労は、脳髄を駆け抜けた衝撃によって一瞬で消し飛ばされた。
「……相変わらず、悪趣味なほどすげぇな、ここは」
そこに広がっていたのは、現実に存在するどんなホールやドームをも凌駕する、圧倒的なスケールを持つ巨大な『劇場』だった。
足元には、血の塊を思わせるような深い赤黒い絨毯が敷き詰められており、視線の先には、幾重にも、それこそ何千、何万と整然と並ぶ無人の観客席が広がっている。
見上げるほどに高い天井には、本物の星空を模したかのような、冷徹な青白い照明が無数に明滅していた。
どこか幻想的でありながら、同時に、世界の終焉を想起させるような圧倒的な圧迫感が、静寂とともに空間を満たしている。映画館のような現代的な造りではない。もっと中世の、演劇や悲劇を演じるために設えられた、古めかしい“劇場”だ。
ここは、難易度EXランク。
あるいは、システム上の分類における“第十位階遺跡”。
固有名称、遺跡【劇場】。
ゲーム内においても、最上位のプレイヤースキルとリソースを要求される、最凶の特殊エリアだった。
『律鍵』における遺跡には明確なランクが存在する。
最低位のDから、最高位のEX。あるいは、一から十までの『位階』。
通常、こうしたエリアは侵入したプレイヤーの平均レベルに応じて内部の難易度が自動変動する。だが、EXの遺跡に限り、その温い救済措置は適用されない。
期限が一日しかなく、初期段階から『適正レベル:20以上』の狂った殺意がそのまま配置されている。攻略できなければ、そのエリアごと消滅する。ただ、それだけのデスマッチ。
そして――この場所こそが、かつて俺が数多の強豪を抑え、ランキング一位の座を不動のものにできた最大の理由の一つでもあった。
「……そういえば」
空間の威圧感に飲まれかけていたが、そこでようやく重要な事実に思い至る。
まだ、自分自身の明確な『パラメータ』を確認していない。
俺は近くのベルベット調の観客席に深く腰を下ろし、自身の内なる意識の核へと神経を集中させた。
すると、その呼びかけに応じるように、視界の最前面に水色の半透明なパネルが滑らかにスライド展開される。
─ステータス─
NAME:神依怜人(Lv.01) JOB:─(未設定)
HP:04 ATK:07 DEF:05 SPD:08 (MP,SP使用不可/機能ロック中)
固有技能
Ⅰ. 合成-B版 Lv.01(クラス10・唯一)
Ⅱ. 演算眼 Lv.01(クラス8・唯一)
技能
Ⅰ. 加速 Lv.01(クラス1・一般)
Ⅱ. 歩法 Lv.01(クラス1・一般)
※その他、メニュー画面および他機能は制限中
───────────────
「……おお」
思わず、乾いた声が喉の奥から漏れた。
自分の肉体のスペックが、デジタルな数値として客観的に“視覚化”されるというのは、奇妙な全能感と、背筋がゾクゾクするような高揚感を伴う。まるで、安っぽいファンタジーRPGの主人公にでも祭り上げられた気分だ。
「SPD(速度)だけは高めで……HP(生命力)がゴミみたいに低いな……」
数値のバランスを見る限り、初期の基礎ステータスは、現在の俺の生身の身体能力をそのまま数値にコンバートしたもののようだ。まあ、中学時代までの貯金があるから運動神経自体はそこまで悪くない。だが、如何せん高校に入ってからは完全な帰宅部だ。持久力もなければ、一撃耐えられるようなタフさもない。HP『4』は、冗談抜きで少し強めのエネミーの攻撃を二発も喰らえば肉体が霧散するレベルのガラスの戦士だ。
そして。
俺の視線は、その下の一行に完全に釘付けになった。
「……って、マジで、本当にあんのかよ……『合成』……ッ!」
驚愕のあまり、座席の肘置きを強く握りしめる。
あのアンケートの受理というテキストは、やはりハッタリでも不具合でもなかった。システムは、俺の要望を完璧に反映していた。
【合成-B版】
ベータテスト時代にのみ実装され、そのあまりの自由度とゲーム崩壊能力の高さゆえに、正式版ではデータごと完全に抹消されたはずの、文字通り“幻の壊れ能力”。
「……真面目に、あのクソアンケートに回答しておいて本当に良かった……」
これがあるだけで、このクソみたいな初期ステータスのままでも、生存率(クリア確率)を強引に引き上げることが可能になる。
だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。もう一つの固有技能の欄へと視線を移す。
「……演算眼? なんだ、これ」
こちらは、俺の膨大なデータベースにも登録がない。ベータ版、正式版を含めても、少なくともゲーム内では一度として確認されたことのない、完全に未知の技能だった。
俺は不審に思いながら、その水色の文字列へ指先で軽く触れ、詳細ウィンドウを展開する。
─演算眼(Lv.01)─
クラス:8 等級:唯一
説明:
脳内リソースを消費して『演算世界』を展開。視界内における、極めて近い未来(一定時間内)に発生する物理的・システム的事象の予測ログを視覚的に確認することができる。
※あくまで環境データから確率を高速計算するにすぎず、確定した未来ではない。現在、一部権限の制限解除が必要。
取得理由:
対象『神依怜人』が先天的に保有する、特定の思考特性・観察能力のシステム変換による獲得。
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「……天性の思考特性、ね」
思わず、自嘲気味な笑いが口元に浮かぶ。
演算。確率の計算。そして、周囲のノイズを極限まで排除して対象を観察する思考。
まあ、昔から数学のパズル解きや、チェス、あるいはゲーム内のパラメータの変動パターンを秒単位で推測するような、偏執的な作業は得意だった。だが、そんな俺の個人的な『性格の歪み』のようなものまで、システムはご丁寧に能力として変換し、定義づけているらしい。この世界のルール(システム)は、思った以上にプレイヤーの『内面』を正確に監視している。
「……まあ、いい。今はスキルの出所を考察してる時間すら惜しい」
頭を振り、視覚のノイズをクリアにする。
今、この誰もいない劇場で、敵が活発化する前に最優先で行うべきアクションは一つだけだ。
「まずは……この『合成』の仕様が、ベータ版の時とどれだけ互換性があるか、試す」
俺はそう静かに呟くと、自らの手のひらを虚空にかざし、淡い光を放つ固有技能欄の文字列へと、静かに、しかし確かな意志を込めて指先を伸ばした。




