第一章 11 『一つの幕引き』
劇場の主は、データの奔流にかき消されるようにして、俺の目の前からその不気味な輪郭を消失させた。
そして、主という絶対的な楔を失ったこの灰色の空間は、まるで世界の調和を取り戻そうとするかのように、音もなく急速に元ある場所へと収束を始めていく。砕け散った時計塔の残骸も、世界に穿たれたひび割れも、すべてが薄い霧のように淡く溶けていく。
張り詰めていたすべての緊張の糸が切れ、俺は喉の奥から深い、心底からの安堵を伴った溜息を吐き出した。
「ふぅ……、終わった……」
本当に、一歩間違えれば死ぬかと思った。液晶画面の向こう側でデスペナルティを喰らうのとは訳が違う。生身の肉体で、冷たい刃の質量と死のスパイスを文字通り間近で突きつけられたのだ。俺は、ここがすでに生ぬるい電子の檻ではなく、紛れもない『現実』であることを改めて心の底から痛感していた。
「さて……、そろそろかな」
空間の再構築が完了するまで、あと数十秒もしないだろう。俺は水面から元の剧場の床へと戻りつつある世界の中で、重い身体を強引に引きずりながらゆっくりと立ち上がる。
すると――。
『そこまでしたんだから、もう振り返らないでね』
不意に、背後の闇の奥から、鈴の音のように澄んだ声が鼓膜を揺らした気がした。
「っ!」
驚き、慌てて振り返ろうとしたその刹那、視界が猛烈な光の速度で暗転する。次の瞬間に俺の靴底が触れていたのは、冷たい水面などではなく、元の静まり返った劇場の、あの赤黒い絨毯が敷かれた舞台の上だった。
結局、その声の主の姿をこの目で直接視ることはできなかった。だが、今の言葉を一体誰が口にしたのかは、わざわざシステムに問いかけるまでもなく分かった気がした。
(――はは、言われなくても……もう、後ろは振り返らないよ)
そう心の中で小さく返事をしながら、俺は消耗しきった心身を少しでも休めるため、舞台を降りて客席へと向かって歩みを進めていった。
終わったのだ。完全に。
俺は一安心すると、緊張の呪縛から解き放たれた猛烈な反動に逆らえず、背もたれの高い座席へと勢いよく身体を投げ出すようにして席についた。
「ふぅ、しかし……現実とゲームでは、こうも『差』が出るものなのか……」
肘掛けに頭を預け、天井の鈍い照明を見上げながら、俺は現実とゲームとの間に横たわる、あまりにも残酷な難易度の差に心から驚愕していた。
システム、ステータス画面という明確な規約によって、実際に自分の能力や数値を客観的に見ることができたとしても、やっぱり『現実の生』として本物の死の深淵に直面すれば、常人なら基本的には誰だって怯むし、身体が竦む。人生の中で一番、心臓が爆発しそうなほど緊張した瞬間だった。
これからの生活において、その『人生最高緊張記録』をどんどん更新していく羽目になりそうなのが、最高に頭の痛いところだが……。
「――『ステータス』」
俺は喉を鳴らし、第三章という地獄の試練を乗り越えたことで、どのような変化がもたらされたのかを確認するため、虚空に向けて静かにそのコマンドを起動させた。
網膜へと滑り込んできた半透明の光の板。そこに刻まれた新たな数値と、更新された規約を冷徹に確認し、俺はそっと視界を閉じる。
「さて……。一息ついたところだし、もう一つの『報酬』を回収しに行くか」
ここ、EXランク指定遺跡【劇場】には、通常の章クリアだけでは絶対に手に入らない、もう一つ大きな隠し報酬が存在する。まあ、それもこの世界の仕様が、俺の知るベータ版のゲームと変わっていなければの話だが。
俺は錆びたクラウ・ソラスを静かに納め、すでに完全に幕を下ろした静寂の舞台裏へと、迷いのない足取りで足を踏み入れた。
この隠し報酬へ至るためのギミックは、ほんの少しだけ頭のキレる攻略者なら、構造的に結構簡単に思いつくはずの類のものだ。
どんなに優れた名優、どんなに狂った演者であっても、その者が立つための『舞台』がなければ劇は成立しない。そして、舞台が存在するならば、当然それを作り上げる“裏方の存在”が必要不可欠になる。
それこそが、ここ【劇場】に囚われていた、あの道化師の物語の真の続き。
彼のように世界を魅了した優れた道化師が、あんな打ち切り漫画の最終回のような、唐突で救いのない人生の終わり方を甘んじて受け入れるはずがないのだ。
俺はそんなゲームの背景設定を頭の中で反芻しながら、埃の積まった舞台裏の片隅にある古びた本棚へと手を伸ばし、一冊の本を静かに引き抜いた。
著者名の記載はなく、タイトルすらも刻まれていない、周囲の蔵書とは明らかに一線を画す異質な装丁の本。
俺はその本の表紙をめくり、ページを開いた。
案の定、中身は完全なる白紙。インクの跡一つない、本当に何も書いていない空っぽの頁が続いている。
ここで俺は、制服のポケットに指を入れ、第一章の段階であらかじめ入手していた、あの古びた『しおり』を取り出した。
そして、そのしおりを迷うことなく、白紙の本の最後のページへと静かに挟み込む。
その瞬間。
挟み込まれたしおりが、生き物のようにドクンと脈打つと同時に、眩い光を放ちながらその物質的な形状をドロドロと崩していった。光の粒子は白紙の頁の上へと滑らかに染み込んでいき、徐々に、美しく整えられた本の『文字』へとその形を変形させていく。
それと同時に、システムが語るようにして、世界の底からまた一つの、失われていた物語が静かにつづられ始めた。
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世界というあまりにも広大で、あまりにも残酷な舞台で踊ることをやめた道化師は、その後、自身でもつまらない、意味のないものだと思う旅を、ただ長々と虚無的に続けていた。
だが、ある日。彼の止まっていた運命の歯車に、決定的な転機が訪れる。
立ち寄った小さな街で、彼はある日、一つの小さな演劇を観た。
その演劇の持つ圧倒的な美しさと魂の救いに、言葉を失うほど深く感動した彼は、その劇を著した『脚本家』の女性に是非とも直接会いたいと願った。彼は街の人々から彼女の居場所を熱心に聞き出し、やがて、街の片隅にある脚本家の古びた家を訪ね、その扉を叩いた。
彼女と対面した道化師は、紡がれる彼女の言葉、彼女の世界観の前に、あっという間にその物語の魅力へと引き込まれていった。
道化師は、これからの残された人生、彼女が描く物語の上で、彼女のためだけの役者(道化)として踊っていたいと、必死に、かつてないほどの情熱をもって彼女に懇願した。その純粋で、どこか壊れかけた彼の情熱を目の当たりにした彼女は、静かに微笑み、彼を自身の舞台の上で踊らせることを承諾した。
その後、脚本家の女性は、舞台の上で命を燃やすようにして踊る道化師の、その圧倒的な演技に心を打たれることになる。
彼女は、自身の脳内で描いたはずの架空の物語が、彼の肉体を介することで、まるで本当に現実の歴史として存在していたことのように見えると錯覚するほど、彼の狂気的な演技に深く引き込まれていった。
やがて、物語を紡ぐ者と、物語を演じる者。
二人はお互いの魂に引き寄せられるようにして自然と恋人同士となり、今度は二人で各地を旅しながら、行く先々の舞台を観客たちの温かい歓喜と笑顔で満たしていった。
これこそが。世界の疑念に打ち勝ち、己を証明した道化師が辿り着いた、真の人生の結末である。




