第一章 12 『零の回廊』
「じゃあ……、そろそろ家に帰るか」
静寂が支配する舞台裏で、俺はぽつりと独り言を漏らした。
一応、この特殊な遺跡の内部と外の現実世界とでは、システム的な時間の流れが3倍ほど違う仕様になっている。この【劇場】に足を踏み入れてから体感でだいたい4時間くらいが経過したはずだから、逆算すれば外の世界は今、午前1時から2時の間あたりになっているはずだ。
「……明日、普通に寝る時間が削られそうだな」
そんな懸念が脳裏をよぎったが、よくよく考えれば空が物理的に真っ二つに割れて化け物が這い出てくるような天変地異が起きたのだ。当然、今日という日は例外なく学校全体が休校になるに違いない。
そこまで思考が行き着くと、俺は張り詰めていた肩の力を抜き、ほっと胸を撫で下ろすような溜息をついた。
極限状態の戦闘を経て、精神的にも肉体的にも限界が近い。今はただ、一刻も早く自分の部屋のベッドに潜り込んで眠りにつきたい気分だった。だが、その前に家に帰ったら、あの尋常ではない速度の突撃をかましてきた怜奈に色々と謝って、この世界の異変についてきっちりと説明してやらないといけないか。
俺はそんな風に心の中で小さく呟きながら、重い足取りで【劇場】のゲートをくぐり、遺跡を後にした。
「ふう……。念願の外、だな」
外の世界の、どこか冷たくも生ぬるい夜の空気を肺いっぱいに吸い込みながら、俺は視界を遮るコンクリートの夜景を見渡した。
現実の時間経過としてはわずか1時間ちょっとくらいのはずなのだが、精神的な摩耗のせいか、体感としてはもう丸1週間くらいずっと不眠不休で動き回っていたかのような奇妙な錯覚に囚われている。実際、自分の過去のトラウマを無理矢理こじ開けられた挙句、神話級の光剣を振り回して死線を潜り抜けるという凄絶な体験をしたのだから、脳が芯から疲弊しているのだろう。酷い眠気がじわじわと網膜の裏を侵食してくる。
だが、次の瞬間。俺のその心地よい眠気は、文字通り一瞬でどこかへと消し飛ぶことになった。
バチバチッ、と。
唐突に、俺の視界の最前面に強烈な白い光の粒子がよぎったのだ。
「んぁ……? ああ、そうか。目を開けっぱなしに、していたか……」
思考の鈍った頭で、俺はまだ起動したままになっていた固有技能『演算眼』をオフにしようとする。だが、脳がその視覚情報の異常性を完全にシャットアウトする直前で、俺の指先がピタリと硬直した。
待て。今の光の波長は、一体何だ?
『ズズズッ……、ズズッ』
ここからおよそ1キロメートルほど先、住宅街の境界線に位置する暗い森の方角。そこから、まるで巨大な雷が空間そのものに停滞し、停滞し続けているかのような、禍々しい紫電のエフェクトが不気味にとどまっているのが見えた。
いや。正確には“見えた”のではない。この眼の規約によって、未来の可能性として“視えた”のだ。
脳内に構築されたシミュレートの数値からして、おそらくこれは、今から約4分ほど後の未来の景色。そしてゲームの記憶が、その不吉なエフェクトの意味を正確に弾き出す。あれは――誰かが遺跡の攻略の最終局面に失敗し、世界からデリートされる直前に発生する、防衛トラップの完全駆動エフェクトだ。
ということは。もし今の俺がこのまま何もせず、保身のために家へ帰って寝てしまえば、あそこの森の中で足掻いている“誰か一人”が、4分後に確実に死亡するということ。
位置情報から検索する。あの方角は、世界の裂け目の北東側に位置する、もう一つのEX級に指定された高難易度遺跡――『零の回廊』が存在する座標だ。
「……ハ。どうやら、俺はまだ大人しく家に帰らせてはもらえないらしいな」
俺は痛む左腕をそっと庇いながら、自身の口元が、苦笑いとも、あるいはゲーマーとしての奇妙な興奮ともとれる歪な笑みを零していることに気がついた。
九歳のあの日。俺は恐怖に背を向けて逃げ出し、誰も救えなかった。
だが、今度は違う。今の俺の手には、あの時持っていなかった『演算眼』があり、世界に介入できる『力』がある。この手で、未来の結末を書き換えて助けられる確率がそこにあるのだ。
ここで全てを知りながら見殺しにして帰るなど、道徳的観点からはもちろん、何より俺自身の精神衛生上、最高に後味が悪い。
それに。ついでと言ってはなんだが、先ほど手に入れたばかりの『道化師』のバグめいた能力のプロトタイプを、実戦で試すには格好の舞台だ。
「――『職業効果を使用』」
俺は誰もいない夜の街路樹に向かって、静かにそのシステム権限を宣言する。
「『職業:魔導士』の固有技能――【簡易転移】を、この座標へ一時的に強制発動」
これぞ、適用された特殊職業『道化師』が持つ最大の特権。
ゲーム開始の初期時点において、1日に3回まで、何のリスクも対価も支払うことなく、他職業が有する強力なシステム技能を完全に模倣してコピー発動させることができるという、インチキめいた干渉効果だ。
発動の瞬間、世界の遠近感が一瞬にして消失した。
コンマ1秒にも満たない刹那ののち、俺の肉体は空間の連続性を完全に無視して、1キロメートルほど離れた暗い森の入り口へと、文字通り“位置情報の上書き(テレポート)”を果たしていた。さすがにレベル1のステータスでぶっつけ本番で使ったため、着地の座標が数メートルほど物理的にズレてしまったが、実用には問題ない。
俺はすぐ目の前に現れた『零の回廊』の不気味な青白いゲートの前へと歩み寄り、その表面のテクスチャを鋭く観察した。
この世界の遺跡の攻略具合(進行度)は、ゲートの枠線を形作っている光の粒子の“乱れ方”で視覚的に把握することができる。
現在のゲートの枠線は、まるで磁気嵐にでも巻き込まれたかのように激しく、不規則に乱れ狂っていた。間違いない。すでに先行者は、最終局面である『第3章』のボス戦の最中にまで突入している。
しかし。この世界に異変が起きてから、まだ1時間ちょっとしか経っていないこの状況で、この場所が遺跡であることを正確に把握し、かつ躊躇なく即座に単独での行動を起こすなどという芸当ができる人間は、一体誰なのだろうか。
「まあ……どうせ、俺の知らないどこかの凄腕プレイヤーだろ。気にする必要はないな」
思考を割り切り、俺はそのまま、凍りついた不気味な輝きを放つ『零の回廊』へと一歩、足を踏み入れた。
───
「っ……、さむッ……」
ゲートをくぐり抜けた瞬間、あまりの寒さに思わず身震いした。
口から吐き出す息が、一瞬で白い濃密な霧となって空間に可視化される。ベータ版の記憶が正しければ、この『零の回廊』という遺跡は、元々はこれほどまでに極端な極寒仕様のステージではなかったはずだ。
ということは、この異常な低温は、中にいる先行者が発動させた何らかの強力な技能の残滓、その痕跡だろう。
遺跡の環境データそのものをここまで強引に氷結の位相へと書き換えるということは、中々に高いクラスの固有技能だと思われるが……。
「ん……? 氷、か……?」
氷の技能。その単語が脳細胞の片隅に触れた瞬間、今日の放課後、夕暮れ時の理科準備室の前で交わした、ある少女との他愛のない会話がフラッシュバックした。
確か、彼女はゲーム内で『氷属性の魔導技能』を好んで使っていると言っていたはずだが――。
まさか、な。
俺は最悪の予感を振り払うようにして、現在の状況を確認するために周囲へ鋭い視線を巡らせた。
そこは、無限に続くのではないかと錯覚するほど、長く、どこまでも直線的に伸びる無機質な回廊。先ほどの絢爛豪華で狂気に満ちていた【劇場】とは、美のベクトルが完全に正反対ともいえる、徹底された幾何学的な景色。
何もかもが削ぎ落とされ、光すらも無へと帰したかのような、白銀の回廊。
そして。その長く続く通路の、少し視線を伸ばした先――。
床の上に、力なくへたり込んでいる一人の少女の姿が、俺の網膜へと鮮明に飛び込んできた。
「……水埜!?」
思わず、驚愕のあまり声を荒げていた。
そこにいたのは、つい先ほどまで同じ学校の教室にいて、その帰路の夜道で肩を並べて言葉を交わしたばかりのクラスメイト、水埜冰蓉の姿だった。
そして、もう一つ。俺の目に同時に映り込んだのは、冷たい床の上に完全に座り込んでしまっている彼女の頭上に向けて、冷酷無比な軌道でその巨大な剣を真っ直ぐに振り下ろそうとしている――あの道化師の試練の時と同じように、顔のパーツが完全に消失した『無貌の剣士』の悍ましいシルエットだった。
あの一撃が直撃すれば、彼女のデータ(命)は確実にここで消滅する。
「――させるかよッ!!」
距離はおよそ500メートル。いくら全速力でこの回廊を走ったとしても、物理的なダッシュでは絶対に刃の到達には間に合わない。
なら――。
「――『略式瞬歩』!!」
俺は残されたクールタイムの規約を強引に書き換えるようにして、一歩、世界の空間を跨いだ。
世界の遠近感が爆発的に圧縮され、次に俺が瞬きを起こす、まさにその刹那ののち。
劇的な風圧とともに、水埜の華奢な肉体は、振り下ろされた大剣の射程圏外――俺の両腕の腕の中へと、お姫様抱っこの形で完全に抱え込まれていた。
「――えっ……?」
突如として死の間際から未知の速度で拐われ、見知らぬ男の腕の中に収められた水埜は、自分の身に一体何が起きたのかを脳の処理が追いつかないといった様子で、驚いたように、ただ小さく呆然とした声を上げた。




