第一章 10 『不敗の光』
「ほざけ!!」
劇場の主の仮面の奥から、鼓膜を暴力的に震わせる怒号が響き渡った。
それと同時に、奴は鏡のような水面を爆発的な踏み込みで文字通り粉砕しながら、一直線に突進してくる。跳ね上がった水飛沫が灰色の空間に散る中、奴は凄まじい腕の振りをもって、片手に握られていた魔剣――『ベガルタ』を容赦なくこちらへ向けて投げ放った。
「っ!」
回転しながら極大の運動エネルギーを伴って飛来する刃。だが、俺の『演算眼』はその軌道の奥にある本質を瞬時に見抜いていた。
本命は、その投剣じゃない。
視界を遮るように飛来する凶刃の影に隠れ、本体である劇場の主が、すでに俺の鼻先へと肉薄していたのだ。
カンッ!!
俺は光の剣クラウ・ソラスの刀身を斜めに突き出し、回転しながら迫るベガルタを強引に弾き飛ばす。しかし、その防御の硬直を突くようにして、間髪入れずに次の絶望が襲いかかった。
ギィィンッ――!!
残されたもう一振りの片刃――最悪の呪剣『モラルタ』が、真横から俺の喉元を正確に収穫せんと音を立てて走る。
速い。連撃のシークエンスが、システム的な限界値を超えて速すぎる。ベガルタの速度特化補正がまだ本体に残っているかのような、常軌を逸した剣速だった。
カンッ!
ガガガガガガッ!!
火花が水面に散り、激しい金属摩擦の音が連続して空間に鳴り響く。俺は『演算眼』の超高速処理によって網膜に描かれ続ける薄光の軌跡を必死に追い、敵の猛攻をギリギリのところで防ぎ、受け、捌き続ける。
だが、アバターの物理的な反応速度が、情報の処理速度に完全には追いつかない。
「――っ!」
一瞬。ほんのコンマ数ミリ、防御の角度がズレた。
その致命的な隙間へ、滑り込むようにして黒い呪いの刃が牙を剥く。
ズドッ――!!
「ぐっ……!?」
肉を断ち切り、骨に達する悍ましい激痛。
俺の左腕へと、モラルタの冷たい刃が深々と突き刺さっていた。
熱い。いや、違う。傷口から全身の神経へと侵入してくる呪いの毒素のせいか、痛覚の感覚そのものがメチャクチャに壊れていく。劇場の主はその仮面の奥の瞳を冷酷に光らせたまま、突き刺した刃をさらに横へと引き絞り、俺の左腕を丸ごと根本から断ち切ろうと凶悪な力を込めてきた。
「っ、あああぁッ!!」
このままではアームロス(部位欠損)による致命的なデバフを喰らう。俺は喉が裂けるような咆哮とともに、残された右脚に全体重を乗せ、水の抵抗を無視した猛烈な蹴りを奴の腹部へと放った。
凄まじい水飛沫が爆ぜ、肉体同士が衝突する重苦しい衝撃波が周囲に広がる。
その一撃に圧されるようにして、劇場の主の身体がわずかに後方へと後退した。その一瞬の隙を見逃さず、俺は自分の肉体を抉っていた呪剣を、肉がちぎれるのも厭わずに無理矢理引き抜いた。
ドッと鮮血が宙に飛び散り、散乱する赤黒い粒子によって視界が一時的に赤く染まる。
「はぁ……っ、は……っ、く……」
痛打された左腕はすでに神経の伝達回路が焼き切れたように上手く動かず、指先の感覚もひどく曖昧だった。あまりの激痛に、脳の防衛本能が麻痺しているのか、一周回って傷口からは悍ましい熱しか感じられない。
だが。
まだ、利き腕(右手)は死んでいない。クラウ・ソラスを握る指先には、まだ微かに力が残っている。ならば、まだ戦える。
「……このまま泥仕合を続けてりゃ、確実に押し切られるな」
ただのレベル1である俺のHP上限では、モラルタの呪いによる継続ダメージに耐えきるような長期戦はハナから不可能だ。なら、最初に宣言した通り。
次の一手で、一瞬ですべてを終わらせる。
俺は右腕一本だけで、黄金に輝くクラウ・ソラスの柄を強く握り直す。そのまま刃を己の左腰へと添えるようにして、身体を深く沈め、静かに呼吸を整えた。
これは、光の剣クラウ・ソラスが有する、本来の“真のシステム規約(使い方)”。
本当は、もっと先のエリアに待ち受ける強敵のために温存しておくつもりだった、切り札中の切り札だ。だが、出し惜しみをしてここでデータごと消滅して死ぬくらいなら、今ここで使い潰した方が遥かにマシだ。
「――クラウ・ソラス」
俺は、乾いた唇から小さく、その神話のコードを呟く。
そして。
─『クラウ・ソラス【化身化-太陽-】を発動します』─
瞬間、灰色の世界が、純白の光によって限界まで塗り潰された。
熱。肌が焼き焦げるような、圧倒的な熱量の奔流。
俺の肉体を中心に、重力を無視した白い炎の柱が爆発的に吹き上がる。足元に広がっていた冷たい水面が一瞬にして沸騰し、凄まじい勢いで蒸発して白い水蒸気へと変わっていく。劇場全体の空間へと、物理的な破壊を伴う熱波が全方位に広がった。
それと同時に、身体が嘘のように軽くなる。まるで世界の重力そのものが消失してしまったかのようだった。皮膚の表面の痛覚が薄れていく代わりに、自分の肉体そのものが、純粋なエネルギーの光へと変質していくような奇妙な感覚だけが脳を満たす。
吹き上がる白炎が鎧のように俺の全身を包み込む。それはまるで、天上に君臨する絶対的な太陽そのものへと、自身の存在確率が近づいていくかのような悍ましいシステム干渉だった。
─『30秒間、全ステータスが2倍になります』─
─『身体の一部が変質します』─
─『【化身化-太陽-】にクールタイム336時間を適用しました』─
『な、に……っ!?』
あまりの光景に、劇場の主が初めて一人の人間として言葉を失った。
白黒の仮面越しからでも、向こう側が完全に想定外の事態に思考をフリーズさせているのが手に取るように分かる。
「……悪いな」
全身から凄まじい白い炎を滾らせながら、俺は右手の光剣を静かに構え直す。
「宣言通り、一瞬で終わらせてやるよ」
『――おのれェッ!!』
劇場の主が、プライドを打ち砕かれたような狂おしい怒号を上げる。
同時に、奴の持つ双剣の残骸が、禍々しい紫黒の魔力によって激しく輝き出した。致命的な威力を引き上げる、上位固有技能の発動動作。
だが。
「発動する前に、その輪郭ごと潰す」
俺は思考のプロセスを省略し、真正面から直線的に走った。
鏡のような水面を、俺の身体から溢れ出る白炎が激しく蒸発させ、焼きながら、一瞬で駆け抜ける。
『馬鹿め、正面から来るとは!!』
劇場の主が、迎撃せんと呪剣『モラルタ』を全力で突き出す。
それと同時に、先ほど弾き飛ばされて水面に刺さっていた『ベガルタ』を魔力による磁界で引き戻し、俺の逃げ道を塞ぐようにして背後から投擲してきた。
完全なる前後からの挟撃。避けることの許されない、文字通りの必殺のシークエンス。
だが。
「――『略式瞬歩』」
ステータスが2倍に跳ね上がった状態で放たれる、最速の位置情報上書き。
俺の姿は、敵の双剣が交差する直前で、完全に世界の空間から消滅した。
『な――』
絶対的な速度による瞬間移動。
次の瞬間には。俺は、驚愕に目を見開いた劇場の主の、完全に無防備な背後へと音もなく立っていた。
隙。これ以上ない、システムが提示した致命的なまでの硬直。
このゲームにおいて、俺がそのチャンスを逃すはずがない。
「終わりだ」
俺は右腕にすべてのエネルギーを収束させ、クラウ・ソラスを渾身の力で振り下ろした。
純白の閃光。そして、空間を両断するような鋭利な斬撃。
ドォンッ――!!
『ぐぁぁぁぁああああッ!?』
背中を真一文字に深く裂かれ、劇場の主が悲痛な叫び声を上げて前方に吹き飛ぶ。
その凄絶な切断面からは、血の代わりに、肉体を内側から焼き尽くすような白い太陽の炎が激しく噴き出していた。
光のエネルギーによる超重度の火傷。そして、あらゆる回復魔法や自己再生のコードを無効化する、完全なる再生阻害。これこそが、不敗の剣クラウ・ソラスが持つ真の価値だ。
さらに、俺は攻撃の手を緩めない。
もう一撃。二撃。三撃。
ステータスが倍化し、光の残像と化した連続斬撃が、容赦なく劇場の主の肉体を滅多打ちに刻んでいく。白炎の刃が振るわれるたびに、奴のデータで構成された身体がボロボロと崩壊していく。
そして、その連撃の締めくくりとして。
俺は黄金の光剣を両手で握り直し、跳ね上がった劇場の主の胸元の中心へと、真正面から全力の突きを繰り出した。
ズドッ――!!
まばゆい光の刃が、奴の心臓のコアを寸分の狂いもなく正確に貫いた。
『っ……ぐ、が……あ……』
劇場の主の身体が、電流を流されたかのようにビクビクと激しく震える。
やがて、その白黒の仮面から完全に光が失われ、すべての力が抜けるようにして、奴の肉体はパシャリと静かな水面へと力なく崩れ落ちていった。
圧倒的な静寂。
ただ、俺の周囲にだけ、世界を沸騰させた凄まじい熱の余韻だけが残されている。
「……終わった、か……」
俺は、乾いた肺から大きく溜め息を吐き出す。
その瞬間だった。
─『【化身化-太陽-】の効果が終了しました』─
網膜のシステムテキストが消滅すると同時に、俺の身体を包んでいた白い炎が霧散するように消える。それと一歩遅れて、極限状態を維持していたアドレナリンが切れ、信じられないほどの殺人的な疲労感と強烈な脱力感が一気に全身へと押し寄せてきた。
両膝がガタガタと頼りなく揺れ、立っていることすら困難になる。
─『【略式瞬歩】にクールタイム1分を適用しました』─
─『残り使用回数:2/3』─
静まり返った水面へと、俺の左腕の傷口からぽつり、ぽつりと赤黒い血が落ちていく。
周りを見渡せば、硝子のように粉々に崩壊した劇場の残骸。そして、足元に物言わぬオブジェクトとして横たわる、あの哀れな道化師の姿。
その光景を、世界の終わりを見届けるかのような視線で静かに見つめながら――俺は、限界を迎えた瞼をゆっくりと閉じた。
こうして。
神依怜人は、異変を起こし、狂った現実となった世界の中で。
人生で初めての、そして誰の手も借りない単独での遺跡攻略を、完全に成し遂げたのだった。




