第68話「割れた砦」
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【シュマイザーの苦悩】
「ふーむ」
サヴァラン砦の執務室で、公弟シュマイザーは眉間のしわを押さえていた。
彼の傍らには、紋章官や副官などの幕僚たちが難しい顔で控えている。だが問題は彼らではない。
そしてシュマイザーの目の前には、守備隊の組頭たち数名が不安そうな顔で立っていた。
問題はこっちだ。
「隊長、さっきの使者が言っていたことは本当ですか?」
組頭たちは近郷の郷士や長期契約のベテラン傭兵などで、能力は高いが身分は低い。詳しいことは何も知らされておらず、デギオン公の腹の底など知るよしもない。
さすがに紋章官や副官たちはある程度の事情はわかっているので、シュマイザーの顔をちらちら見ている。
(どうしたものか……)
真実を話せば、確実に士気が低下する。それは非常に困る。
だが嘘をつけば実際の戦略との間に矛盾が生じ、さらなる動揺と不信を招く。籠城中にそんなことになればおしまいだ。
それに組頭たちは守備隊の兵士を統率する立場にある。おそらく末端の兵士が動揺し、組頭たちも部下をなだめるのに苦労しているのだろう。
ここに来たのも、おそらくは兵士たちにせっつかれたせいに違いなかった。
(仕方ないか)
シュマイザーは腹をくくって、組頭たちに正直に話す。
「かなり誇張されているが、あの使者の言ったことはおおむね合っている。我々は厳しい状況に立たされた」
まずは正直に打ち明け、そこからすぐにもっと詳しく説明をする。
「厳しくなった理由は2つある。眼下の森を焼かれたため、我が軍は敵に気づかれることなく出撃することが不可能になった。ヴァンブルク城への攻撃が始まったとしても、我々は敵を後背から奇襲できない。動きが丸見えだからな」
砦から出撃しても、軍勢を隠してくれる森がない。麓に到着する頃には敵が迎撃態勢を整えているだろう。
こちらは少数だし、襲撃したらすぐに砦に撤退しなければならない。身を潜める森がなければ、それも難しい。
「それともうひとつ。あの使者が言ったように、兄上は数年に及ぶ長期戦の構えで策を練っておられる。この策は私から見ても万全であり、おそらくはデギオン領民を守る最良の策だ。だが時を稼ぐ必要がある」
勝算があることはしっかり力説しつつ、シュマイザーは組頭たちを見回す。
「サヴァラン砦を築いた父祖たちは尾根を断ち切り、土を固めて崖を作った」
山城は敵の侵攻を阻むため、周囲の地形に手を加える。
尾根を切断した「堀切」は、登りやすい尾根からの進攻を防ぐ。
土を固めて作った「切岸」は人工の崖で、砦への接近を阻む。
そして敵の移動を妨害する、様々なタイプの「空堀」。
いずれも敵の猛攻に耐えるために不可欠の備えだ。
「だが少々やりすぎたせいで、それが土を崩れやすくしている。森が焼けた今、春の雪融け水と長雨が重なれば土が緩むだろう。敵に包囲されていてはおちおち整備もできん」
禿げ山が崩れやすいことは、少し年配の領民なら誰もが知っている。山頂の砦を守る兵が知らない訳がなかった。
シュマイザーは溜息をつき、一同を見回した。
「時を稼ぐという我が軍の方針にとって、今回の火計が大きな痛手なのは否定できんな」
「では……」
組頭の一人が口を開きかけたのを、シュマイザーはやんわりと掌で制した。
「だがこの砦を敵に奪われれば、ただちにヴァンブルク城への攻撃が開始されるのは疑う余地もない。ヴァンブルク城に近い山頂の砦は、敵にとっても価値あるものだ。敵はここを本陣か後方の集積所にするだろう」
この山頂に布陣されると、本城と砦で構成される防衛網が分断されてしまう。特に南側の防衛網はもはや死んだも同然だ。
「そして敵にとって、この砦が長期的に使えるかどうかは大した問題ではない。ヴァンブルク城が陥落するまで使えればいいのだからな」
そう言って、シュマイザーは組頭たちに笑いかけた。
「そもそも敵が開城を求めてきたのは、現状では打つ手がないからだ。この砦は簡単には落とせん。時を稼ぐ必要があるのだから、粘れるだけ粘るとしよう」
「そ、その後はどうなさるのですか?」
「防衛が不可能になったと判断したら、砦に火を放って脱出する。南の砦のいずれかに入り、軍を結集して敵を滅ぼすとしよう。その頃には敵は疲弊しきっているはずだからな」
シュマイザーは明るく笑いながら言ってみせたが、内心では困り果てていた。
(その頃には南側の砦は全て陥落し、この山の南側も焼き払われて丸裸にされているだろうな)
敵にとってサヴァラン砦は邪魔で仕方ないはずだから、あらゆる手を使って防衛網を切り崩してくる。
だがそんなことは表情には出さず、シュマイザーは組頭たちを激励する。
「これだけ困難な戦いだ、勝利の暁には兄上に進言して諸君を貴族に取り立ててもらおう」
「えっ!?」
「そんなことができますか!?」
組頭たちが驚いたので、シュマイザーは当然のような顔をしてうなずく。
「造作もないことだ。この戦いに勝てばデギオン家が新たな王室となり、サフィーデの民を導いていくのだからな。ベオグランツ帝国の後ろ盾もある。何も案ずるな」
「そ、そりゃ凄いですね……」
一同は顔を見合わせ、それからこくりとうなずいたのだった。
組頭と側近たちが退室した後、シュマイザーは窓の外を眺める。北側の窓から斜めに夕陽が差し、薄暗い部屋を赤く切り裂いていた。
「……いかんな」
シュマイザーは目を閉じ、最善の一手を模索する。
そのとき、慌ただしく副官が入室してきた。
「シュマイザー様、一大事です。その……」
副官の顔色が悪い。
彼の副官は単刀直入に用件から切り出すタイプだが、今日は妙に重い。シュマイザーは穏やかな口調で促す。
「構わん、どうした?」
副官が悲痛な表情になる。
「……脱走兵を捕らえました」
「そうか。すぐに行く。勝手に処罰はさせるな」
中庭に出ると、大勢の兵士が捕縛された味方の兵を取り囲んでいた。捕縛されているのは近郷の農民兵3人だ。見覚えがある。
彼らはシュマイザーの顔を見たとたん、サッと顔色を変えた。脱走兵を囲んでいる兵たちの中にも、辛そうな顔をしている者が何人もいた。脱走兵に怒りを向けている者は見当たらない。
(これはまずいな)
そう思って眉をひそめたシュマイザーに、すぐさま2人の組頭が頭を垂れる。
「も、申し訳ございません! 私どもの組から合計6名、脱走者を出してしまいました!」
「すると3名は既に逃げたのか」
「は、はい! 城壁の警備をさせていたのですが、点呼しても姿が見当たりません!」
シュマイザーは極力平静を装ったが、内心では愕然としていた。
(兵の士気が予想以上に下がっている。まさか降伏勧告の当日に6人も逃げ出すとは)
使者とのやり取り、特に放った矢を投げ返されたことが将としての威信を大きく傷つけたのだろう。守将の人望は士気に直結する。シュマイザーはそう判断した。
「シュマイザー様、この者たちの処断はいかが致しましょう?」
そう問いながらも、組頭たちの手は腰の剣に掛かっている。脱走兵は処刑が戦場の常識だ。自分たちの手で部下の不始末を処理するつもりだろう。
だがシュマイザーは首を横に振った。
「まあ待て。お前たち、なぜ逃げた?」
すると脱走兵たちは顔を見合わせて、それからおずおずと答える。
「に……逃げるなら、今しかないと思いました……。南側の麓に敵がいますけど、裏道を使えば村まで帰れます」
「ふむ」
シュマイザーは怒るでもなく、脱走兵の言葉に耳を傾ける。
そんな指揮官の態度が逆に恐ろしかったのか、脱走兵たちはさらにこう言った。
「南の森まで焼かれたら、逃げられなくなりますから」
「そ、それに他の砦から救援が全く来ませんし……」
殺されることは覚悟しているのか、彼らは正直に答えて頭を垂れる。
「なるほどな」
シュマイザーは素早く考える。
(退路があれば、追い詰められた兵は逃げる。国王軍がこの砦を完全に包囲しなかったのは、兵が足りなかった訳ではなさそうだな)
集まってきた側近たちがシュマイザーに耳打ちする。
「公弟殿下、御判断をお願いいたします」
「わかっている」
もしここで軍律に従い、脱走兵を処刑して見せしめにしても、この砦の守備隊がどれだけ粘れるだろうか。
初日で6名も脱走しているのだ。何年も粘るなど不可能だろう。
脱走が相次いで兵力と士気が衰えてしまっては、もはや戦うことはできなくなる。砦は十分な守備隊がいて初めて機能する。
あらゆる可能性を考慮し、シュマイザーは苦渋の決断をするしかなかった。
「お前たち、村に帰れる裏道を知っているのだな? 闇夜でも案内できるか?」
何かを察した脱走兵たちは、すぐさま何度もうなずく。
「は、はい」
「堀切に降りて尾根伝いに歩きますから、背負える荷物しか運べませんけど」
それを聞いて事情を察した兵たちがざわめき始める。組頭たちは真っ青になっていた。
「シュマイザー様、まさか!?」
「規律がメチャクチャになりますよ!?」
シュマイザーは冷静さを保ちつつ、大きな声で一同に告げた。
「構わん。この者たちには懲罰任務として、軍の先導をさせる! 脱走の件は不問とする!」
「で、ではこの砦は……!?」
震える声で副官が問うと、シュマイザーは覚悟を決めて宣言した。
「サヴァラン砦は放棄する。持ち出せない兵糧やクロスボウは敵に奪われないように処理しろ。井戸と城門を破壊するのも忘れるな。守備隊各組は点呼!」
撤退の指示を出しながら、シュマイザーはぎゅっと目を閉じる。
(兵が私に命を預けてくれないのでは、ここではもう戦えん。不甲斐ない弟を許してくれ、兄上!)
* * *
俺は急ごしらえの宿舎で焚き火にあたりながら南の山を見上げていた。
シュマイザーは戦局がよく見えている。長期的な展望があるし、頭もいい。度胸も覚悟もある。
だが彼の配下の兵たちは、そうではない。
そこにトッシュがやってくる。なぜか焼いた芋を持っていた。
「ようジン、何してるんだ?」
「ここの農民兵たちのことを考えていた。彼らにとって、王室とデギオン公の争いなどどうでもいいんだろうな」
「ははっ、そりゃそうさ」
トッシュも山を見上げつつ、手にした芋を割る。湯気がほわっと立ち上り、北風に吹き流されていった。
「デギオン公が負けても農民には関係ないからな。王室の直轄地になれば、年貢は少し軽くなるのが慣例だし」
俺はうなずく。
「ああ。見える世界は人によって違う」
デギオン公のような有力諸侯は国内の情勢はもちろん、国外の情勢にも目を光らせている。先々のことも考えていて、10年20年の長期的な展望で計画を立てる。
一方、農民の見える世界は、自分の村と年貢を納める領主で完結している。国王の存在など気にしたこともないだろう。
そして考えていることは、来年の収穫期ぐらいまでだろう。それより先は考えても無駄だ。こんな風に戦争が起きたりする。
俺は夜風に乱れる前髪を払いながらつぶやく。
「将がどれだけやる気でも、兵が弱気になっては籠城は不可能だ。明日には砦も空っぽだな。楽でいい」
「お前ってさ、そういうとこ相変わらず怖いな……」
トッシュは肩をすくめたが、すぐにいつもの笑顔になる。そして俺に割った芋を差し出した。大きい方を俺にくれるようだ。
「ほら食えよ。明日も忙しいんだろ?」
「おう、すまないな」
俺は礼を言ってトッシュに歩み寄ると、小さい方の芋をヒョイと取った。
「えっ?」
「大きい方はお前が食え」
明日は確かに忙しくなりそうだ。