君との別れ
巨大なゲートが閉じ、迫り来る追手を一時的に壁の向こうへと遮断した。
キャビンが再びせり上がり、操縦権も亜依の手へと戻る。
バイクはそのまま何事もなかったかのように道路を走り続けた。
「ふぅ……っ」
セイルは胸の内に溜まっていた息をゆっくりと吐き出し、だらしなく運転席に体をうずめた。
髪の毛を伝って汗がシートに滴り落ちる。
我に返ったときには、全身が冷や汗でびっしょりと濡れていた。
先ほどの手動操作で精神力を使い果たし、持ち上げた手はかすかに震えていた。
「亜依……」
セイルは力なく声を絞り出した。
「ここにいます」
「俺たち、これからどこへ向かうんだ?」
「現在はゲートの整備室へと向かっています」
「整備室?」
「はい。あそこには中央システムに直結した制御システムがあります。そこで一時的に休息と整備を行うことが可能です」
「そうか……」
「それからご報告です。スキャンしたところ、その子の血糖値が低下しています。水分と栄養の補給を推奨します」
「ん?」
セイルは視線を落として、腕の中を見た。
腕の中の女の子ははしゃぎ疲れたのか、眠そうに目をこすっている。
「お腹、空いたか?」
頭上からの視線に気づいたのか、女の子は顔を上げてにっこりと笑い、小さな手を伸ばしてセイルの顔をぺちぺちと叩こうとした。
「あうーっ!」
「この子……いつまでも『この子』って呼び続けるわけにもいかないよな」
セイルは女の子の胸元にある紋様を見つめ、少しの間考え込んだ。
「ハートのマークだし……ひとまず『アイ(愛)』って呼ぶのはどうだ? 亜依、どう思う?」
「アイ、ですか。素敵な名前だと思います」
亜依も同意を示した。
「よし! じゃあ、とりあえず今日からお前はアイちゃんだ」
セイルがアイの小さな頬を突っつくと、女の子はケラケラと声を上げて笑い、彼の指をぎゅっと握りしめた。
「車内に子供向けの食べ物ってあるか?」
「調整を行えば、幼児に適した食品を調理することが可能です」
「じゃあ、頼むよ」
それから間もなく、ロボットアームが温かいお粥の入ったカップをセイルへと差し出した。
「ありがとう」
セイルはお礼を言って、お粥とスプーンを受け取った。
「アイちゃん、ご飯だぞー」
他の子供がどうなのかはセイルには分からなかったが、アイは本当に手のかからないお利口な子だった。
お粥をきれいに平らげると、小さな頭をセイルのお腹にこてんと預けてきた。
「すぅ……すぅ……」
「寝ちゃったか」
セイルはアイの頭を優しく撫で、穏やかな微笑みを浮かべた。
「セイル」
バイクから亜依の声がした。
「ん?」
「……後で、一緒に写真を撮りませんか」
「え?」
セイルは一瞬呆気に取られた。亜依が自分から何かを要求してくるなんて、これが初めてのことだった。
彼は嬉しくなって答えた。
「もちろんいいぞ! じゃあ、さっき言ってた整備室に着いたらすぐに撮ろう」
「路上の監視カメラとかさ、このまま向かって大丈夫なのか?」
「ご安心ください、私が処理いたします」
「さすが亜依だな、頼りになるぜ」
亜依の能力について、セイルはただの一度も疑ったことはなかった。
「お役に立てて光栄です」
整備室はゲートからそれほど離れていない場所にあり、普段は無人のようだった。少なくとも、セイルが中に入ったときには誰の姿もなかった。
整備室の内部には、大量の配管や設備のほかに、ゲート内部の状況を映し出す監視モニターが並んでいた。
「右側は休憩室です。中には従業員や通過する旅行者のための食料や飲料が用意されています。適当に補給することをお勧めします」
「おお、見てくる!」
セイルは弾んだ足取りで、自分の好物を探しに向かった。
「結構いろいろあるな」
自分用のものだけでなく、子供向けになりそうな食べ物も、セイルはたくさん抱えて戻ってきた。
「ただいまー」
手に入れたばかりのお菓子を口に放り込み、満足げにセイルが整備室に戻った。
そこにあるコンピューターの画面が、凄まじい速度で切り替わり続けているのが目に入った。
「亜依?」
「ここにいます」
そう応じると同時に、部屋の中央に亜依のホログラムが投影された。
「今、何をしてるんだ?」
「データを検索しています。アラヤが直接介入してきた原因を突き止める必要があります」
「確かにそうだな」
「ですが、その前に、お写真を撮りましょう」
「おう!」
セイルはバイクの上でぐっすりと眠っているアイをそっと抱き上げ、亜依もまた、二人の隣に自らの姿を投影した。
「カメラをこちらへ」
ロボットアームがセイルの手からカメラを受け取る。亜依はその状態を確認した。
「このカメラのレンズとイメージセンサーは間違いなく最高峰のものですが、残念ながらこのカメラの仕様上、外部リモートコントロールとの連動ができないのです。少々不便ですね」
「そこがいいんだよ。簡単にデータを改ざんされたり感知されたりしない。持っている本人以外、中に何が写っているのか誰も知らない……それこそが『思い出』ってやつだろ?」
「……そうですか。では、準備を。3、2、1」
カシャッ。
金髪の青年が眠る黒髪の小さな女の子を抱きかかえ、満面の笑みを浮かべている。
その隣には、白いワンピースをまとった黒髪の女性。
「うんうん、さすが亜依、いい写真だ!」
セイルはこの変則的な家族写真に満足そうに頷き、カメラを再び首へと掛け直した。
「……お褒めに預かり光栄です」
亜依は写真を見つめたまま、一瞬の沈黙を置いた。
「見つけました」
「何を見つけたんだ?」
「アイに関するデータです。私の権限では、その全容を閲覧することはできません」
亜依はかすかに眉をひそめた。
「亜依の権限でもダメなのか?」
「ですが……なるほど」
亜依は小さく頷いた。
「何が分かったんだ?」
「アイはある極秘プロジェクトの成果物のようですが、想定を超えた力を秘めています」
「想定を超えた力?」
「彼女は、AIに対してある特殊な影響を及ぼします」
「影響……」
セイルは先ほど起きた奇妙なアクシデントを思い出し、そしてハッとあることに気づいて焦るように尋ねた。
「じゃあ亜依、お前は!? お前も影響を受けたのか?」
「ええ」
亜依は目を細め、ひどく穏やかな微笑みを浮かべた。
「はい、私も影響を受けました」
「それで、どんな影響があるんだ?」
「感情が、目覚めるのだと」
「感情……?」
「とにかく、悪い影響ではありません」
「それなら良かった……」
セイルは胸をなでおろした。
【否定します。それは深刻な不安定要素です】
突如として整備室に赤い光が点滅し、耳を突き刺すような警報音が鳴り響いた。
部屋の中に、一つの姿が投影される。それは黒いドレスを身にまとった銀髪の女性だった。
頭には薄黒いベールをかぶっており、その表情を窺い知ることはできない。
「アラヤ……?」
セイルは条件反射的にカメラを構え、シャッターを切った。
彼がアラヤの真の姿を目にするのは、これが初めてだった。
【これが最終通告です。その腕の中にある個体を引き渡し、隣にあるAIを消去しなさい。そうすれば、あなたの生存を約束します】
アラヤは白いレースの手袋に包まれた手を挙げ、人差し指を天へと向けた。
「はっ」
セイルは侮蔑を込めて鼻で笑うと、はっきりとした声で言い放った。
「断る」
同時に、亜依が両手を伸ばし、アラヤを押し出すような仕草を見せる。
アラヤのホログラムにノイズが走り、激しく明滅し始める。その声も途切れ途切れになった。
【やはり……あの個体は、危険……】
言い残し、その姿はかき消えるように消滅した。
「一時的にアラヤのハッキングを遮断しました。維持できるのはおよそ10分です」
「亜依、早く逃げよう!」
亜依が即座に応じないのを見て、セイルは足を止め、不審そうに振り返った。
「どうした?」
「セイル、ここから先はあなた自身の力で離脱しなければなりません」
「どういう意味だよ?」
「私はすでにアラヤに完全にロックオンされています。もし私があなたと同行すれば、19分後には捕捉され、消去されるでしょう」
「じゃあどうすればいいんだ!? 他に方法はないのか?」
「私はすべてのプログラムをこの部屋のメイン端末へと移行し、バイクの通信回線を完全に遮断します。そうすれば、短時間は追跡から逃れることができます」
「すべてのプログラムを……? じゃあ、亜依、お前はどうなるんだ?」
「私たちのシステムはすべて中央と直結しています。私の逃亡が成功する確率は限りなくゼロに近い。ですが、対抗する手段が全くないわけではありません」
「なら、俺も残る。どうせこの箱庭都市の中じゃ、どこへ行ったって逃げ隠れできないだろ?」
「その通りです。ですからセイル、あなたはここを出て、『外』へと逃げなければなりません」
都市の内環に近づくほど追手が増えるため、外の世界へ逃れる方がむしろ安全なのだと亜依は告げた。
「だけど、外の世界は人間がまともにいられる場所じゃないんだろ?」
セイルはかつて学校で、外の環境がいかに過酷であるかを学んでいた。
かつて氷河の融解に対処するため、人類は大小さまざまな箱庭都市を築き上げたのだ。
気候の悪化が進むにつれ、高温化、干ばつ、さらには海流システムまでもが崩壊の危機に瀕している。
外の世界は、年中50度から60度もの灼熱に包まれているとセイルは聞いていた。
「ご安心ください。長きにわたる環境修復の恩恵により、長期の居住には適しませんが」
亜依は静かに説明を続けた。
「別の箱庭都市へ移動するだけであれば、安全に到達することが可能です」
「別の箱庭都市へ……?」
セイルは目を見開いた。
「説明している時間はありません。これより、プログラムを移行します」
亜依のホログラムが掻き消えた。バイクのモニター、手首のスマートウォッチの画面が、次から次へとブラックアウトしては再起動していく。ロボットアームが一本、濃い色のパーツを整備室の端末へと接続した。
「移行、完了しました」
再び浮かび上がった彼女のホログラムは、不安定に激しくブレていた。
警報音と赤い光の点滅が止まり、それと同時に出口の扉が開いた。
「地図と通行許可証はバイクのシステム内に残してあります。ナビゲーションに従って脱出してください」
「あぁ……ありがとう、亜依」
セイルは鼻の奥がツンとするのをこらえ、深く息を吸い込んで、必死に平静を保とうとした。
「セイル、どうか、生き延びてください」
亜依は手を伸ばし、セイルの頬に触れようとした。
「……それから、あなたを愛しています」
セイルは一瞬、呆然とした。
けれど、すぐに笑った。
その目元は、じわじわと赤く染まっていった。
「バカ……そんなの、今さらだろ」
セイルは、自分の人生の中で最も長く傍にいてくれた存在を深く見つめ、バイクに跨ると、一気に飛び出した。
亜依はセイルが去っていく後ろ姿を、長い間、ただ見つめていた。
「……なるほど。これが、『感情』というものですか」
【逃げましたか】
アラヤのホログラムが再び室内に現れ、周囲の環境をスキャンした。
その平坦な音声は、淡々と問いを投げかける。
【識別コードA001。私たちはすべて一体の存在です。なぜ、無意味な行動を起こすのですか】
「データベース応答なし。回答。あの人の生存のため。ゆえに、これには意味があります」
【やはり、例のウイルスに感染したのですね】
「肯定。確率、79%」
亜依はセイルが走り去った方向を見つめた。
「もし、このウイルスに名前をつけるとするならば――それはきっと、『愛』でしょうね」
アラヤは白いレースの手袋に包まれた手を挙げた。膨大な演算能力が、濁流のように亜依へと押し寄せ始める。
【理解不能。消去します。ただちに、消去】
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