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忘れ水  作者: 塩崎栞
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「わたし、母の六十歳の誕生日を祝うために、実家に帰っていたんですよ。故郷とも父とも縁を切られた母の誕生日をお祝いしてくれる人なんて、わたし以外にいないから、すごく喜んでくれて。わたしの帰省にあわせて、少し高めの日本酒を買ってきてくれていたんです。自分はあんまりお酒は飲めないけど、あなたと飲むのは久しぶりだからって。わたしが買ってきたショートケーキを食べて、わたしのプレゼントの布団を嬉しそうに押し入れにしまって、それから日本酒で二人で乾杯したんです。これからも二人とも元気で過ごせるようにって」


 日本酒を口に含むなり、母は絶叫した。鼓膜に突き刺さるようなあまりにも高い悲鳴の中に、呑み込まれそうなほど深い驚愕と悲しみが芯をもっていた。聞いているこっちが胸が張り裂けそうになるほどの悲しい悲鳴だった。

 しかしそれに気づいたのは後のことで、わたしは空気をびりびりと震わす母の声にびっくりして、床に落とした日本酒の上で無様に滑ることしかできなかった。

 ようやく悲鳴が止んでも、母の口からは声にならない絶叫が漏れていた。全身がぶるぶると震え、瞳孔を見開いた母の姿にわたしはぞっとしたのだ。


 生まれたときから知っているやさしい母はそこにはいなかった。

 代わりに夜叉がいた。


 憎しみと悲しみに心を支配され、人としての姿を見失った夜叉の姿が。


 もし母が台所から持ってきた包丁でわたしを遮二無二突き刺しても、驚きはしなかっただろう。それほどの殺気、それほどの迫力だった。

 もちろん、わたしを刺すようなことはしなかった。


 その代わり、ショートケーキを切り分けるのに使ったナイフを自分の手首に突き刺した。

 真っ赤な飛沫が視界を染め、それきり母は動かなくなった。


 わたしの目の前で、母は自害した。


 わたしが久しぶりに母と再会して、ほんの数時間の出来事だった。


 今なら分かる。母は、水に含まれた記憶を見たのだ。自分がたった一人心の底から愛した男が、他の女と愛し合っている光景を。行為の最中にどちらかが飲んだ水が循環し、何年もかけて、巡り巡って母の元へ来た。水の記憶を読み取ることができる、母の元に。


 母を生涯苦しめた水。

 それが持つたった一杯の記憶が、父の浮気が判明しても自分のことをひたすら責めていた母を夜叉にした。


「ここに来たのは、母の身辺整理をしていたときに、このツアーの申し込み用紙を見つけたからです。何度も書き直しては消したような跡があって、何でそんなに迷ったんだろうと気になって調べてみたら、すぐに理由が分かりました。あなたたち二人の名前が載っていた。父と、浮気相手のあなたの名前が」


 母はここに来て、どうするつもりだったのだろう。愛する男を自分から奪い取った女が担当するツアーに参加して、何をするつもりだったのか。

 恐らく、何もしていなかっただろうとわたしは思う。母は、誰かに復讐するには弱すぎた。父や浮気相手と同じように自分を苦しめ続けた水に、復讐を託すくらいには。


 だから、わたしが代わりにやると決めた。


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