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忘れ水  作者: 塩崎栞
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 母と父が離婚したのは、わたしが中学二年生のときだ。


 もう二十年も前のことだが、今でも鮮明に思い出せる。

 期末テストの成績表を学校で返された日だった。範囲が比較的狭かったことや、いつもより徹夜して頑張ったこともあり、わたしは人生で初めて総合順位九位という成績をとった。自分の努力が実ったことが嬉しくて嬉しくてたまらなくて、それ以上にこの成績を伝えれば母が喜んでくれるであろうことが楽しみで、友人の誘いも断って一直線に家に帰った。


 夏休みが始まる直前で午前授業だったから、太陽は暴力的なまでの日差しを降り注ぎ、天は抜けるほど高く青かった。帰る途中に、空のキャンパスに真っ直ぐに伸びる飛行機雲を見つけて、今日はいい日だ、と幼心に喜んだことまで覚えている。


 母はダイニングでうなだれていた。


 真昼なのにカーテンを閉ざし、照明すらつけていなかった。急にげっそりと痩せ、普段より一層青白い母の姿をみて、何もないと思うほど鈍感ではなかった。成績表のことなど頭から吹き飛んで、恐る恐る近づいたわたしに、母は異様なまでに思いつめた目を向けたのだ。


 父さん、浮気してたんだって。だから母さん、離婚しましょうって言ったの。本気じゃなかった。まさか別れるはずないって。なのに、あの人は分かった、って。あの人、私より浮気相手を取るって。


 一言一句覚えている。あのあと母が泣き崩れたことも、呆然として何も言えずにいたわたし自身も、結局カバンから取り出されることはなかった成績表のことも。

 庭で鳴きわめく蝉だけが、残酷なまでに元気だった。ひどく生命力に溢れた夏だった。母の目の前には、父の名前が書かれた離婚届が無造作に置かれていた。


「父さんと浮気してたの、あなたなんですよね。母から聞きました」


 後藤弘子。何度その名を聞いたことか。父と離婚し、狭いアパートにわたしと共に引っ越した後、酒に酔いつぶれる度に母はその名を口にした。


 後藤弘子さんという人。あの人を私から取ったのは。本当好きだったのに。たった一人。たった一人、私を受け入れてくれた人だった。情けない。そんな大事な人を失った自分が何より情けない――。


 何度も何度も口にした。グラスを満たす生ぬるいビールに語りかけるようにして。


 今になって思う。母は自らの感情を水に閉じ込めていたのではないか。


 水は全てを吸収する。通り過ぎる人間の体内に刻まれた思い出さえも。

 ならば、全ての感情や思い出や呪いの言葉を水に押し込めて、閉じ込めて、そのまま流してしまおうと母が考えたのも想像に難くない。

 忘れてしまえば、それはなかったことになる。母そのものを含んだ水は川になり、蒸発し、雲になり、雨になり、また人間の体内を流れて循環する。

 そうして、いつかその水が父に辿りついたら。初めて母は父に本当の復讐ができる。罪相応の、いやそれ以上の罰を与えることができる。そう思ったのではないか。


 しかし、水によって滅んだのは母の方だった。


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