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忘れ水  作者: 塩崎栞
7/10

7

「……え?」

 後藤は勢いよくわたしを見た。首を急に動かしたから、拭き取れていなかった汗の粒が辺りに舞い散る。

 彼女は信じられないものを見るような目をしていた。


 出目金だ。


 わたしは思う。年に似合わないあどけない瞳を最初みたときから連想していたが、ちからいっぱいに目を見開いている今、彼女の瞳はますます突き出ていた。かすかに灯っていた光が消えたことも相まって、ますます夏祭りで子供たちの餌食となる出目金のように見える。


「……今、なんておっしゃったの?」

「後藤さんはもう上がってきません、と言いました。そろそろ効く頃ですから」

「効くって何が?」


「わたしが彼に飲ませた毒入りカプセルが」


 下側から甲高い悲鳴が響いてきた。大水槽を見物していた観客たちの悲鳴だ。


 押し倒す勢いで柵にかけよる後藤に並んで、わたしも水槽のなかを覗く。

 大きな翼のような体を伸ばして悠々と泳ぐエイ。短い手足を懸命にばたつかせているアオウミガメ。集合して泳ぐことで大型魚からの攻撃を優雅にかわしている小型魚たち。この水槽は自分が支配する王国だといわんばかりに堂々と真ん中を突っ切るサメ……多種多様な魚たちと珊瑚に囲まれて、彼が沈んでいた。


 ダイバースーツの下の筋肉は弛緩し、背中を上にした状態でぴくりとも動かない。まるで清掃中にうたた寝してしまったかのような体勢だが、彼の口からどす黒い血が一筋漏れ、水面へと浮かんできていた。


 動く力を失った彼は、水槽の水の流れに合わせてゆらゆらと揺れる。


 水藻のように、右に、左に。


「どういうこと……?」

 愕然とした後藤の声が耳朶を打つ。その顔は青色を通り越して、土器のような土褐色になっていた。

「わたし、今は梶原ゆう子ですけど。旧姓は佐原なんですよ」

 わたしの言葉に、後藤は声にならない悲鳴を漏らした。

 がくがくと震える頬が、彼女の心情を物語っている。

「佐原って、まさか……」


「あのダイバー、わたしの父です。あなたと再婚する前はあの人、佐原っていう苗字だったでしょう? 両親はもうとっくに離婚したから、父親とはいえないかもしれないけど」


 今まさに水槽に沈んでいるあの男は、正真正銘血を分けたわたしの父だった。母が心の底から愛したたった一人の男でもある。


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