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忘れ水  作者: 塩崎栞
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「今日の昼食で、わたし何回もドリンクバーに水を汲みに行ったでしょう? そのときに、あの人のグラスに毒入りのカプセルを淹れたんです。ほら、あなた言ってたじゃないですか。ここは食事処だけでなく、お客さんやダイバーの休憩所としても人気だって。わたし先週からずっとここに通っていて、あの人が昼食時にあの店で休むのを知っていたんです」


 ドリンクバーから自分の席に戻るまでの、ほんの少しの時間。あの人がグラスから目を放す一瞬を、わたしはじっと窺っていた。


 あの人のグラスの中にとぷりと落としたカプセルは、みるみるうちに水へと溶けていった。


 水は全てを吸収する。

 母の言葉を私は繰り返す。


 毒入りのカプセルも、底なしの悪意さえも。


 わたしが言葉を重ねるごとに、後藤はどんどん血の気がなくなっていった。今は指先さえぴくりとも動かすことができず、しかし顔の皮膚は恐怖に耐え切れないように細かく痙攣している。

 わたしはそんな後藤をしばらく眺めてから、柵を乗り越えた。空いている隙間に何とか飛び降り、ずっと背負っていたリュックを傾けないよう慎重に降ろす。


 中でちゃぷりと水が跳ねるような音がした。


 わたしはリュックのなかの母に向かって、声には出さずに話しかける。


 お母さん。やっとだよ。やっと水のなかで泳げるよ。他の魚と同じように、ただひたすら優しい水のなかで、自由に生きることができるよ。


 リュックのなかは水槽で埋まっていた。わたしはそれを抱きかかえるようにして取り出す。


 水槽の静かに澄み切った水のなかには、一匹の魚が泳いでいた。


 母が自害した後、遺体の代わりに残ったのがこの魚だった。どろりと流れる母の血の海の中で、母の服に纏わりつかれながら、この魚は懸命に地面を叩いて進もうとしていた。


 この魚――この母――を水族館の大水槽で泳がせてあげたかった。

 世界で一番愛し、一番憎んだ男の死体が沈む水槽のなかで。


 わたしは水槽の蓋を外し、大水槽の穴に向かってそっと傾けた。何かから身を守るように小さく身震いした魚は、やがて大水槽の水のなかへ身を躍らせた。



 水面辺りを大きく一周した後、その体をくねらせて、大水槽の底へと滑らかに滑り降りていった。


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