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忘れ水  作者: 塩崎栞
5/10

5

 S**水族館名物だという大水槽の裏側は、息をするだけで汗が滲むほど蒸し暑かった。

 館のなかでもとりわけ涼しいクラゲ館にいたから、余計にそう思うのかもしれない。

 後藤はハンカチで額を忙しなく拭きながら、「ここが大水槽の入り口にあたります」と柵の下を覗き込んだ。


「ここから餌をやったり、魚の体調管理をしたり、ダイバーが潜って水槽のなかを掃除したりします。水槽の水を波立たせて海と似た環境を作り出す技術は、ここが日本発なんですよ」


 柵をへだてた地面には、何十個もの小さな水槽や、一目見ただけではどのように使うのか想像もつかないような機器が大量に置かれていた。その内側にはまた柵が設置されていて、もう一個下の地面には巨大な穴がくり抜かれている。


 そこが巨大水槽の入り口なのだった。


 じっと見ているとそのまま吸い込まれていきそうな深い穴からは、お世辞にも綺麗とは言いがたい水が漏れ出ていた。あの水に水銀灯を当てて、ラッピングをすると、数えきれないほどの魚を抱え込む美しい海となるのだ。

 わたしは、この水族館に来て最初に目にした大水槽を思い出す。壁一面ガラス張りで、波打つ水が壁や床にゆらゆらとした影を始終映し出していた。水槽のなかを泳ぐ魚たちはみな伸び伸びとしていて、内側から輝くばかりの銀色の鱗を惜しげもなくわたしたち観客に見せびらかしていた。


 このツアーの内容を考えた人は、子供のときから夢というものを見なかったのだろうとわたしは想像する。大水槽の裏側を見せられたって、夢が夢のままでいてくれる保証はない。


 後藤が息を吐いた。額には汗の粒が浮かんでいる。

「もう少ししたら、ダイバーが水槽に潜って掃除する様子を見られますよ。柵から中に入ることはできませんが、ここからでも十分に見られます。それと一つ気になっていたのですが……」

 後藤は、わたしが背負っているリュックを遠慮なしにじろじろと眺めた。

「かなり大荷物ですよね。ここからは立ちっぱなしになるので、もしよろしければロッカーに荷物を預けてきては? すぐ近くにあるので」

「いえ、結構です。そんなに重くないですし、大切なものが入っていますから」

 わたしはリュックの横のポケットに入れていた水筒を取り出した。


 昼食のときから感じていた渇きは、一層耐えがたいものとなってわたしの体を浸食しようとしていた。半分の量を一気に呷るが、無味無臭の水の塊が喉を通っていくのを感じただけで、満たされない。

 もう一度呷ろうとして、後藤の視線がわたしに絡みついていることに気づき、水筒を閉まった。

 柵の下に視線を移して、穴の中を泳ぐ魚を眺めるふりをするが、一度感じてしまった後藤のぶしつけな視線は、中々外れない。


「いつも喉が渇いているんです、わたし」


 言い訳がましく言う。しかし本当のことだった。


 母が死んだあの日から、どんなに水を飲んでも渇きが満たされなくなっている。


「……そうですか。大変ですわね」


 後藤が不信感を隠さずに言ったのと同時だった。わたしたちがいる場所と向かいの扉が開いて、一人の男性が姿を現したのは。 


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