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忘れ水  作者: 塩崎栞
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4

「母はいつも言っていました。水族館に来ると、気分が落ち着く。私にとって最も不可解で恐ろしい水のなかで、魚たちがそれはそれは気持ちよさそうに泳いでいる。魚が水の記憶に気づいていないのか、気づいたうえで受け止めているのか、それともずっと水のなかにいるから感覚が狂ってしまっているのか、それは分からないけど、魚が水と共に生きている光景を見るだけで私は救われたように感じる。ずっとそのまま泳いでいてほしいと感じる。願うなら、水槽のなかに入って私も一緒に泳ぎたい、と」

「……お母さまとは、よく水族館に行かれたのですか?」

「ええ、何度も」


 クラゲ館は静かだ。何の音も聞こえない。


 後藤も今ばかりは口をつぐみ、わたしと同じような体制で突っ立って水槽を見上げている。彼女の熱い息遣いや、わたしの呼吸は、静寂そのものに吸い取られていた。


 海の底のように静まり返った館内で、クラゲだけが泳いでいる。わたしは、ここが生と死の狭間の場所ではないかと錯覚する。鳥肌が立つほどに涼しく静まり返っているが、自分の存在は確かに感じられる。そのまま死に吸い込まれることも、生に向かって手を伸ばすこともできる、そんな曖昧とした境目。


 なら、ここには母がいる。母の心臓は動くことをやめたが、完全に死んではいない。


 生と死の堺を、母はまだクラゲのように漂っている。


「わたしが幼いときには、母は暇さえあれば水族館へ連れて行ってくれました。さっき話したように、母が水族館が好きだったこともあるけど。一番は父がそこで働いていたから。母は人生の一番辛いときに水族館へ行って、そこで父と出会ったんです」

「なら、私たちと同業者だわ。もしかしたら会っているかもしれない」


 後藤が声を弾ませる。

 わたしは続けた。


「母は父を愛していました。月並みな表現ですが、本当に心の底から愛していたんです。不遇な子供時代を送った母にとって、誰かから愛されるということは何よりも嬉しいことだったから。父が休みのときには家族三人でピクニックや買い物に。父が仕事のときにはわたしを連れて水族館に訪れ、父の仕事ぶりを嬉しそうに眺めていました」

「仲が良かったんですね、とても」

「母にとっては、そうでした。今振り返ると、あのときが一番幸せだったかもしれない」


 水槽のなかでかぽりと気泡が生まれた。

「そろそろ行きましょうか」と後藤が急かした。


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