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忘れ水  作者: 塩崎栞
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「海の生物のなかでも、クラゲは特によく知られています。その涼やかな姿が人気なんですね。でも、クラゲだと断定できる特徴をお知りの方は、意外に少ないのではないでしょうか。具体的には、クラゲは刺胞動物門に属していて……」


 ベテランのようだから、もう何度もツアーの参加者に向けて語ってきたことなのだろう。流暢に話し続ける後藤の声をわたしは聞き流していた。


 もともと、魚にそれほど興味があるわけではない。


 円筒形の水槽をみあげると、無数のクラゲが風に流される葉っぱのように水のなかを漂っていた。一筋の糸のように細くて長い触覚が絡みあい、含んだ毒を見せびらかすように優雅に泳いでいるものもいる。

 後藤の語りは続く。

「このクラゲ館は本来なら一か月後に開館予定のものですが、このツアーのために特別に入館許可をいただくことができました。この後は、当館名物の大水槽の裏側も案内するつもりです」

 広々とした空間に、後藤の声が反響している。


 ここ、S**水族館のツアー案内を見つけたのは、偶然だった。


 母の部屋を整理していたときだ。

 汚れて黄色になったファイルからこのツアーの申し込み用紙が出てきたのだ。新聞紙のチラシの一つだったらしく、独特の臭気を発する紙には、濃い化粧を施した後藤の顔が載っていた。

 用紙は皺だらけで、くしゃくしゃだった。何度も記入欄に名前や電話番号を書いては、消した跡があった。このツアーに参加するかどうか、母が迷っていたのは明白だった。

 気になったのだ。いい意味でさっぱりとしていた母が、こんなにも迷ったツアーがどういうものなのか。応募用紙の裏に書かれていたツアーの詳細を読んだわたしはすぐにボールペンを手に取って、母のかすれた名前を消すようにして「梶原ゆう子」と記入した。


 後藤ははっきり言わないが、このツアーが年々来館者が少なくなっているS**水族館を少しでも盛り上げるために企画されたことは、参加費に見合わない豪華な内容や、参加者がわたし一人しかいないことなどの端々から感じることができる。夏休みシーズンで家族連れは増えているものの、定着しないのだろう。


 水族館は定期的に訪れる場所ではない。


 クラゲ館の開館も、恐らくプロジェクトの一環だ。


 いくつもある巨きな水槽が、水銀灯に照らされている。

 水槽に映り込んだわたしの顔は歪み、青褪めていた。後藤の顔も血色が悪く、出目金のようにぎょろりとした目はますます顔から突き出ているように思える。

 水族館は水銀灯が多用されていて、相手の顔色が悪く見えるから、双方が気を使ってしまい、結果として水族館デートは別れやすくなる。

 どこかで聞いた覚えのある雑学が、脳裏を掠める。母が父と初めて出会ったのは、水族館だった。

「お魚、好きなんですか?」

 後藤が笑顔でわたしの横に立つ。「一つ一つの水槽をとても真剣に見ていられるから」と続けた。

「……わたし、水族館の水槽を見るといつも思うことがあるんです」

「何ですか?」

「魚はずっと水のなかにいますよね」

「ええ」

「水が持っているあまりに膨大な記憶を、魚は感じ取っているのでしょうか。感じ取ったうえで、あんなにも空を舞うように泳いでいるのでしょうか。それとも記憶に呑み込まれてしまったからこそ、こんな場所に閉じこめられているのかしら」

「それは……どういう……」


 気をつけなさい、ゆう子。

 母は何度もわたしに語った。水が持つという記憶について。


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