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「とてもたくさんの水をお飲みになるんですね」
驚きと遠慮が混じった声音だった。
水族館ツアーの案内を担当する女性の館員は、わたしの手元を凝視していた。ホットドッグを齧るたびに、濃い化粧では隠しきれない皺が蠢く。
「暑いですか、ここ。場所を変えましょうか」
「いえ、場所がどうこうというわけではないので。いつも喉が渇いているんです、私。それにここは涼しいですよ。真夏とは思えないくらい」
「潮風がちょうどこのテラスを通るんですよ。それに屋内の冷房の風も漏れてくるから、夏でも快適に過ごせます。食事処だけでなく、お客さんやダイバーの休憩場所としても人気ですよ」
客の波に吞まれて、ほとんど無理やり引きずり込まれたフードコートは確かに快適だった。とくにテラス席は目の前に海が広がり、心地よい風を浴びながら食事できる。
ガラスを通して店内を見やると、家族連れやカップルで賑わっていた。夏休みの真っただ中だからだろう、小学生やもっと幼い子どもが走り回ったりもしている。
わたしはグラスを呷った。強い日差しに照らされてぎらぎらと輝く水が、口内に満たされ、やがて喉を伝っていく。
たしかに飲みこんだはずなのに、腹に水が溜まる気配はなく、わたしはドリンクバーへ向かう。
もう九杯目だ。
「びっくり」
食べ終わったホットドッグの包み紙を丁寧に折っていたその女――ツアーの初めに後藤と名乗っていた――は、思わずといったように呟いた。
「お腹たぷたぷになりません?」
「まだまだ足りないくらいです。これ以上待たせるわけにはいかないので、さすがにこれを飲んだら、今日は終わりにします」
「いえ、ツアーの参加者は梶原さん一人ですし、時間が厳重に決まっているわけでもありませんから、好きなだけ飲んでいただいて結構ですけど……」
白いペンキで塗られた瀟洒なテーブルに、水が影をおとしている。
一つの形に留まることなくゆらゆらと形を変える影は、浜辺に寄せる波のように掴みどころがない。一瞬、影が大きく伸びてテーブルの上のわたしの掌をすっぽりと包み込んだ。そのまま引き寄せるように動き、またグラスの周りでさざ波をたてる。
指でグラスを弾いた。
「水には記憶があることをご存じですか」
「え? 何ですって?」
声が聞こえなかったのだろう。聞き返す後藤には何も返さず、九杯目の水を体のなかに流し込む。
ずくりと下腹が熱くなったように感じた。ずくりずくりと何かが鼓動するのに呼応して、今まで飲みこんだ水が急速に乾いていく。皮膚から蒸発し、今までよりさらに大きな渇きが咆哮をあげる。
ふいに母の声がよみがえった。
やさしい母だった。よその家の子にも、わたしにさえ、声を荒げた姿を見たことがなかった。
――だからこそわたしは、父が母にした仕打ちに耐えられないのだ……。
「ゆう子」と母はいった。
「水は循環している。天から雨となって降り注ぎ、それが私たちの飲み水となり、私たちの体を通って外に出て、それが川に流れてまた天に還っていく。何度も何度も。私たちが想像できないくらいの長い旅を、水は続けている。
だからね、ゆう子。水にはあまりにも多くの記憶が宿っているの。水は全てを覚えているから。
水を飲むときは気をつけなさい。呑み込まれてしまうよ」




