貝児(かいちご)
暗い話が続きます。ご注意ください。
「久しぶり。具合はどう?」
驚きで動けない釦に近づき、今までと変わらない様子で、そっと抱きしめながら誠が言った。
「あ、うん。大丈夫」
「誠、って名前で呼んでくれてるの?」
「いや……その」
ナディアやミシェルは誠の名字に慣れていないだろうと思って、あえて彼女たちの前でだけ使っている呼称なのだが。そんな事実を言うべきかどうか迷っていると、耳元で嬉しげに釦、と囁かれた。まるで恋人のように、愛しげに。
頬に熱が集まる。
「釦、面白い話をしているんだな」
釦は腕を伸ばして少し距離を開け、お互いの視線を交わらせる。
ぞっとした。
口元は微笑んでいるのに、目は全く笑っていない。明らかに、勝手な行動をした釦を責めていた。
「ご、めん、なさい」
考えるよりも先に謝罪が口をついた彼女を咎めたのは、気遣いを見せながらも質問に答えてくれていたミシェルだった。
「なんでアンタが謝るのよ。別に悪いことしてるわけじゃないんだよ」
その言葉には誠もこくりと頷き、「釦が謝る必要はないよ」と言った。優しく頭を撫でる。
「俺がムカついてるのはその神官の方だから」
「え?」
そう疑問を口にする釦には答えず、美しい青年はミシェルに視線をやって強い口調で問うた。
「『ベラベラといらないことを話すな』そう言ってたはずだが」
「『あたしがそれに従う義理はない』ってそん時にちゃんと言ってるもん」
「お前みたいなガキが不用意に要らないことを話すと、彼女だって混乱するだろう。お前は邪魔だ。この部屋に入るな。釦に関わるな」
「アンタに言われる筋合いなんて」
「ある。お前より、ずっと釦のことを大切に思っている。彼女の辛さがわかるし、痛みがわかる。出て行け。消えろ」
冷たい表情で淡々と要求、というよりは命令する誠に、流石のミシェルも少したじろいだ。それを見て、さらに言葉を畳み掛ける。
「釦は俺が守る、お前なんかいらない。不必要な情報を与えて、辛い思いなんてさせなくていいんだ」
「違う」
咄嗟に、否定した。
違う。ミシェルに情報提供を頼んだのは釦自身だ。釦が。
「私が、この世界のことを教えてほしいと頼んだの。ミシェルは手伝ってくれただけなのよ。及川くん、それだけは……」
違う、というよりも早く。
「俺よりも、そいつのことを信じるのか!」
ミシェルへの弁護は、誠の悲鳴のような問いかけに遮られた。ビクッと肩を跳ね上げた釦を見て、彼は自嘲的な笑いを漏らす。
「ミシェル、か。よく手懐けたもんだなあ、神官。俺には他人行儀な呼び方しかしないっていうのに。俺の方が昔からの知り合いなのに。俺の方が釦のことを大切にしているのに。
なあ、釦。俺は、お前に幸せになってもらいたいんだ。何不自由なく過ごしてもらいたい。守りたい。釦、俺は。俺は、俺は――」
まるで凍ってしまったかのように動かない表情と、純粋な望みを訴える声とが、全くかみ合っていない。呆然とした表情のまま、口だけははっきりと動いている。
怖かった。呆然自失という言葉がこれほど当てはまる光景に、釦は出くわしたことがない。今までずっと完璧な青年だったのに。感情を前面に出すことのない、完璧で公平な人間だったのに。こんな乱暴な口調で話す人間ではなかったのに。
「釦」
一拍。
「お前も、俺を裏切るのか」
裏切る。そう言った誠の目には憎しみが溢れていて、悪いことはしていないはずなのに釦は言葉が詰まる。
「裏切った、訳じゃない」
「なら、どうして」
「おいか……誠。私はね、あなたにばかり無理をさせたくない。自分でできることは自分でやりたい。守ってもうばかりじゃなくて、私も誠の役に立ちたいの」
そう釦が告げると、誠をまとっていた怒気が少し和らぐ。
「役に?」
「そう、一緒に頑張りたいの」
二人の視線が交差する。誠がうっすらと口を開いて、閉じた。言葉を選んでいるというよりも、状況を飲み込んでいると言った方が正しい感じがした。
長い沈黙の後、おもむろに誠が口を開いた。
「俺の家はね、裏切り者が居たんだ」
「でも、私は……え?」
家に裏切り者?
「俺が、小学生の時に外国に行ってたって話はしたっけ?」
「うん」
「小学4年生の時、父親の仕事の都合でアメリカに行ったんだ。機械系の――ロボット関係の仕事をしていたらしくてさ、まあ、栄転ってやつだったんだろう。社内新聞で取り上げられて家族の写真が載ったりして、母親は大喜びだった。昔は芸能関係の世界で仕事をしていたっていうから、元々目立つことが好きなんだろうな」
優秀な父親に、元芸能人の母親。彼の明晰な頭脳は男親から、誰もが見惚れる美貌はその妻から受け継いだのだろう。顔貌が似ていないとしても、雰囲気としての美しさは遺伝する。なんにしても、すばらしい一家。絵にかいたような幸せで完璧な家族。これこそ誠にふさわしいと言えるような。
「父親はよく言ってた。『勉強ほど楽しいものはない』って。『アメリカは日本とは比べ物にならないくらい研究が進んでる。思う存分研究ができる』と。俺は父親が楽しそうにしているのを見るのが好きだったし、母親もそうだった。
あの人、気が急いたのか、転勤が決まったころからアメリカのアニメを俺に見せるようになってさ。行く頃には、小学生ながら向こうの漫画は一通り知ってたっけ」
楽しかった、と彼は呟く。あの頃は幸せだったと。
「母親は俺を現地の学校に入れた。日本人学校に入って教科書通りの英語を習うよりも、子供たちが使うありのままの英語を学ばせたいって。バイリンガルにしたかったんだろうな」
けれど。
幸せはそう長くは続かない。幸福の頂点が来てしまったら、その後は緩やかに下っていくしかないのだ。
「子供は残酷だった」
「残酷?」
「俺は物珍しい日本人――黄色人種として、向こうでは絶好のからかい相手だった。うまく意思疎通はできないし、当然勉強にもついて行けない。教師にはダメな生徒として扱われて、しょっちゅう怒られてたよ。正直、怒っている内容もよくわからなかったんだけどね」
人種のコンプレックス。それを小学生の時分から感じなくてはいけなかったのか。
「それは……大変だったんだね」
釦の同情を、しかし誠は否定する。
「それだけなら、まだよかった。まだよかったんだ」
「まだ?」
「そんな中、母親が妊娠した。俺は嬉しかったよ、ずっときょうだいが欲しいと思っていたから。けど、あの人の顔は優れなかった。俺はそのことに気付いてたけど、父親はわからなかったみたいだ。研究に没頭していて、家に帰ってこないこともあったから」
「お母さん、病気だったの?」
そのことに気付かなかったから、父親を恨んでいるのか。釦が尋ねると、誠は頭を振った。それだけだったらどんなによかったことか、と。
「長い妊娠期間を経て出てきた赤ん坊は――青い瞳をしていた」
青い瞳。それは日本人にはあり得ない色で。
「まさか……」
「そのまさかだ、驚きだよな。あの女は向こうの知らない男とデキてたんだ。俺が学校で無邪気な差別を受けているときに、あいつは邪魔者がいないうちにと恋人と楽しく過ごしてた、って訳」
誠の口調は普段通りに聞こえる。だが、その表情は苦しげで痛々しい。
ああ、だから彼は、あの時。
『似てるかどうかは……わからないな。父親に似てるとは思うけど』
『及川くんはお母さん似なの?』
『ううん、そういうわけじゃないんだけど』
かつての記憶。今考えれば、誠は不自然なほど曖昧な言葉を紡いでいたではないか。
「妹は明らかに俺の父親の血を引いてなかった。信じられなかった。裏切られたと思った。俺の本当の妹だと思いたかった。でも、現実は変わらない。
あの女はその可能性に気付いてたみたいだ。当然だよな、自分の体のことなんだから。あいつ、開き直って、退院するなり言ったんだ。『別れて』って」
別れる。離婚。別離。
「『私はあの人を本気で愛しているの。この子と一緒に、もう一度人生をやり直すわ』だってさ。今までの、俺たちと一緒にいた時間は、まるで無駄だったかのような口ぶりだった」
男と女は、結婚して子供を産めば親になる。そうなってしまえば、個体としての欲求よりも親としての責任を重視しなくてはいけなくなるときも、必ず出てくる。好きな人ができても、子供のことを思えば諦めなくてはいけない。それが親になるということなのだ。
人間としての権利はどうなのか、とか、個人の幸せを抹殺するのか、という問題も出てくるだろう。でも、そういうことをすべて飲み込んで、責任として受け入れるのが親だと、釦は思う。
「ひどい……」
「俺のことをいらないって言うんなら、俺もこんな女いらないって、正直おもったんだ。捨てられるくらいならこっちから捨ててやる、って。別れればいいって思ってた、父親はそうじゃなかったみたいだけど」
「どうして」
「社内新聞に載った、って言っただろう。成功者として行ったはずのアメリカで、妻を現地の男に寝取られてすごすごと帰ってくることが、父親の今後に影響を与えることは明らかだった。完璧な負け犬だもんな」
父親も、母親も。誠のためには動かなかった。それぞれが自分のためだけに行動した。彼はなおも続ける。
「絶対に別れない、って父親は言った。子供は自分の娘として認知するってさ。流石にそこまで言われたら母親もどうしようもなかったみたいで、結局離婚の話はなかったことになった。妹は無事に及川の姓を得た。ねえ、釦」
「何?」
「俺の妹の名前、憶えてる?」
彼の妹の名前。いつか聞いたことがある。人気のない図書室、人目につかない読書スペースで、確か。
「樹里ちゃん、だっけ――あ、」
ジュリ。その響きは。
「まるで外国人みたいだろう? あの女は、自分の恋人の面影を少しでも残すために、わざと海外でも通じるような名前にしたんだ。馬鹿馬鹿しい反抗だけどね」
「それで、日本に帰ってきたのね」
大きな秘密を抱えて。辛い過去を担って。
彼は頷く。そして、淡々と言い放った。
「だから、俺は友達を作ることを諦めた」
話が長いので、一旦切ります。次回も誠の過去です。おそらく。




