骨女(ほねおんな)
少し気分を害する描写があります。ご注意ください。
そうだ、だって、ナディアは言っていたではないか。釦の中で彼女の声が反芻される。
『魔法は想像できるものでないと作用しないのです。魔法の完成後のイメージがつかないと、正常に作動しません。』
この世界の人間に、どうして釦たちが現代に帰ったところの想像ができるというのだろう。日本なんて見たことがないだろうに。もし仮に現代の様子を知っていたとしても、どうやって戻すのか、どの地点に帰すのか。そして、現代では今、何時何分何秒なのかを考えるのは、時計のないこの世界の人たちでは不可能であろう。細部にまで想像力を働かせなくてはならないのだから。
紙のように真っ白な顔をして俯いている釦に、無邪気に喜んでいたナディアたちも異変を感じたらしい。どうしたのですか、と顔を曇らせて尋ねてくる。
けれど、そんなことは釦にとってどうでもいいことだ。
頭の中では、先ほどの感覚がひたすらにめぐっている。守れ、という自分の声。そして、ナディアをはじいたあの空気。
時間とか、場所とか、天気とか。そういうことすべてが想像できたとしても。今の私ならわかる。本能が告げている。この世界のどんな強い魔法使いも、きっと私たちを帰せない。
そこまで考えると、目の前がぐにゃりと歪んだ。くるくる回る視界、ぐるぐるめぐる感覚。喉にせりあがる酸味。そして
「う……うぅぇえぇ」
胃の中のものが逆流し、嫌なにおいが辺りに充満した。それも相まって、釦の眩暈はさらにひどくなり、視界の端がじわりと滲む。気持ち悪い。嫌だ。
「ボタン!」
すべてのことをシャットアウトする直前、釦の瞳には、急いで近寄るミシェルと、一歩離れたナディアが映った。
たゆたう意識の中、長谷川釦は願った。
もう嫌だ。嫌だ。嫌だ。どうしてこんなところに連れてこられたの。なんで私なの。どうやったら帰れるの。私が何をしたっていうの。辛い、嫌だ、帰りたい。家に帰って、自分のベッドに寝そべって、気ままに本を読んで。なんでそんな普通のことをさせてくれないの。誰か助けて。誰か、誰か、誰か。今まで、私のことを助けてくれた人はどこ。困ったときに手を差し伸べてくれるのは、いつだってあなただった。お願い、ねえ――
「たすけて、おいかわくん……」
「長谷川!!」
耳元で男性の硬質な声がして、釦はゆっくりと覚醒する。息を吸い、吐く。暖かい空気が肺に広がり、自然と瞼が持ち上がった。初めは白んでいた世界が次第に晴れてくると、人形のような整った顔が見つめていることに気が付いた。
「おい、かわくん」
「よかった、気付いた」
久しぶりに見る彼は、少し痩せたようだった。心配そうな顔をしているから、余計に頬の陰が目につく。ちゃんと食べているのだろうか。なぜかいたたまれずに、そっと床に目をそらすと、白いはずのそれを夕日がオレンジ色に染めていた。そういえば、こんな時間にどうして彼がいるのだろう。釦のなかで次々に疑問が湧き起こる。
「どう、したの?」
「どうしたじゃないだろう。長谷川が倒れたって聞いて」
「わたしが?」
そういえば、喉が妙に乾いている。どうしてだっけ、と思い返し、ああ、吐いたのかと結論付けた。水を欲して手を伸ばそうとするが、うまく上がらない。目で辿ると、誠の白い手が、腕の筋がはっきりと見えるほどのものすごい力で、釦のそれを握っていた。
釦はとりあえず痛い、と呟く。それが聞こえたのかどうかは定かではないが、代わりに誠は寝そべったままでいる彼女の頭を撫でて、そのまま頬に手を当てた。冷たい彼の手は、ぼんやりとした釦の頭を冴えさせてくれる。
「過労と睡眠不足らしい。ずっと寝てなかったの?」
「そんなことないよ。ちゃんと、休みはとってたもん」
「だめだよ。こっちにきてまだ3週間だ。慣れてないことが多すぎるんだから」
まだ、ではなくもう、だ。あと2、3日で、日本の夏休みは終わってしまう。その前に帰らなくては、釦が行方不明だということが学校にばれてしまう。それだけは避けたいのに。
恐らく、彼女の両親は警察にこのことを届け出てはいないだろう。仮に失踪届を提出していたとしても、家出と判断される可能性は極めて高い。いつそうしてもおかしくない環境に、釦はいたのだから。
だが、学校が始まったらどうだろう。流石に隠し通したまま、というわけにはいかない。釦がいないことが知られ、友達は心配するだろう。仮に元の世界に戻っても、一度失踪してしまったという烙印は消えてはくれない。
仮に元の世界に戻っても。
そこまで考えて、釦は自分が帰れないことを思い出す。ふいにまた眩暈がした。ぐるぐるぐるぐる。世界が回る。
「長谷川、大丈夫か」
「気持ち悪い……」
起き上がって手洗い所に向かおうとすると、誠がさっと洗面器のようなものを出した。そして背中を優しくさする。
「無理しないで。もしも吐きたいんだったら、これで」
正直立ち上がるのも億劫だった釦は、ありがたくそれを受け取った。気持ち悪い、でも吐きたくない。俯いたまま気分が収まるのを待っていると、徐々に眩暈が収まってくれた。優しい彼は、洗面器を片付けてから、コップに入った水を差しだした。
「大丈夫そう?」
「……うん」
心底心配そうな様子で窺ってくる誠に、釦の視界がじわりと霞む。
「もう、やだなぁ、私」
なんで元クラスメイトの前で吐かなきゃいけないの。
羞恥で目頭がじんじんとする。それをどうにか抑えようと瞬きをすると、かえって目元に水が溜まった。
それでも、釦は必至で自分に言い聞かせる。泣くな。私よりも及川くんの方がずっとつらいはずなんだから、私がここで泣いたらダメだ。泣くな、と。
すると、不意に力強い腕に抱きすくめられた。こちらに来てから何度も感じた暖かさ。必ず守ると言ってくれた人の、腕。
あ、と釦が思った瞬間、ぽろりと一粒涙が落ちる。頬を伝って顎の先までするすると流れ落ちる感触に、もういいや、という声が頭に響く。
彼女の涙腺はとうとう決壊した。
「長谷川……」
「もう、やだ。帰りたい。もうやだよぅ」
涙は次から次へと溢れ出し、釦はしゃくりあげながら帰りたいと訴える。
「うん。そうだよな、帰りたいよな。ごめん……ごめん、ごめんな」
胸の中で、子供のようにひたすら泣きじゃくる釦へ、彼はどこまでも優しい言葉をかけ続ける。自分の方がつらいはずなのに。ずっとこの世界で、一人で戦ってきたはずなのに。
「高校での生活がちゃんとあるのに、無理やり連れてこられて。こんな風に無理矢理魔法を練習させられて。嫌だよな。本当にごめん。何にもわからない状態で、誰も頼れないときに、俺が近くにいれなかった」
違う。及川くんは悪くない。その気持ちを伝えたくて、釦は必死で首を振るが、彼はひたすら謝罪を繰り返すばかり。
「ごめん。本当は、もっとずっと幸せに生活してほしかったんだ。あのころからずっと、こちらにきてからは、よりいっそう、そう思ってた。俺の一番の願いなのに」
「及川くん……?」
「ごめん、ごめんな。辛い思いをさせたくなかったのに、守りたかったのに、ごめん――」
§
時は遡り、太陽が真上に位置する頃。
『疲労と睡眠不足みたいだよ、見る限り』
『そうですか、ありがとう』
釦の部屋の前でそれを聞いたナディアは、ほっと胸を撫で下ろした。万一彼女に何かあったら、誠は烈火のごとく怒るだろう。
そんな彼女の様子に、訝しげな声がかかる。
『それだけ?』
『それだけとは?』
『城なら常駐してる医者くらいいるでしょ? そいつを連れてきた方がいいんじゃない』
『マコトが、彼女にあまり多くの人間を関わらせたくないと思っているのです』
ナディアが滔々と語ると、隣から大きな溜息が聞こえた。見遣ると若葉色の目を細めて、ミシェルがそんなにマコトが大事なの、と聞いてくる。
『あたしたちよりずっと仲良さそうに話してるし、言葉遣いも親密だよね』
『そういうわけでは』
『それはいいとしてもさ、ボタンともここ3週間ぐらいずっと一緒にいたんでしょ。だったらボタンにとってベストな選択をするべきだと思うけど』
釦にとってベストな選択。それなら、多分問題ない。
『この世界では、ボタンはかなり優遇されています。マコトが守り、私もそれを補佐しているのですから。快適に過ごせるよう、私たちがどれだけ苦労しているのか知らないでしょう』
『でも、アンタがそういうことをしてるのは、全部マコトが望んだからでしょ』
ミシェルが苦々しげに吐き捨てる。
『マコトがもし、ボタンなんてどうでもいいって言ったなら。ナディア、アンタは簡単にボタンのことを捨てるんだよね』
『ミシェルこそ、ずいぶんとボタンの肩を持ちますね。最初は随分つっかかっていたのに』
釦が吐いたときも、ミシェルは純白のローブが汚れるのも厭わずに介抱していた。神官だけに許された、特別なものなのに。
『別にあたしは、あいつのことが好きなわけじゃない。でも、ナディアがマコトをあまりにも優遇してるのは、正直見ていて不愉快』
不愉快。それならば、ナディアは釦がのうのうと過ごしているのを見ている方が、よっぽど不愉快だ。誠の苦労なんて知らないで。誠がどれだけの思いをしてここにいるか知らないで。
『なら、誰がマコトの味方をするんですか? この世界にたった一人で投げ出された少年を、誰がサポートしてくれるというんですか』
いまだに思い出す。狭い地下室の中、殴られた頬から血を流し、すべてに絶望しきった少年の表情を。ひと月の間、日の光を浴びることはおろか、満足な食事も与えられずに罵倒され続けた少年の姿を。涙など枯れ果て、最後には獣のような憎しみを宿していた少年の黒い瞳を。
思い出す。思い出さずにはいられない。ナディアたちは罪を犯した。彼から殺されても仕方がないような、外道な振る舞いをしでかしたのだ。
『今はほとんどの人間が、アイツに対して協力的じゃん』
『それでも、釦に比べればその質は大分劣るでしょう』
別にナディアとて、釦が嫌いなわけではない。大屋八郎の言葉で話さなくてはならないという手間はあるが、真面目で出しゃばらず、驕らない釦の性格は、好ましい部類に入る。
だが、それでも比べてしまう。わずか3週間で音を上げる彼女を見て、甘えるなと思ってしまう。誠はその頃、まだ牢に繋がれていた。骨の浮き出た細い腕で、ナディアに向かって手を伸ばしていた。自分がどれだけ恵まれているかも知らないで、ただ辛い辛いと嘆く釦を、愚かだと思わずにはいられない。
『だったら、ボタンにも同じだけのことを求めてみりゃいいじゃん。そうじゃなくても、この世界のことを教えるとかさ。あたしは止めないよ』
『そんなことは望んでいません。それに、マコトが絶対に嫌がるでしょう』
誠は釦を守りたいと思っている。彼女に不利な情報を一切見せずに、仮初の楽園で待っていてほしいと願っている。だから、ナディアはそれに協力する。彼女の持つすべての権力を使って、誠の守っている釦を守る。それがナディアに出来る唯一の贖罪なのだ。
『結局、そこに行きつくわけね』
ミシェルがフンと鼻を鳴らした。
なぜか筆が進んだ。わーい、と言いたいところですが、この後の目処が立っていません。わお←




