倩兮女(けらけらおんな)
中学生のときから一人この世界に連れてこられた誠を、このまま頼り続けるわけにはいかない。釦だって彼の役に立たなくてはいけないのだ。
その思いを胸に、釦は魔法の訓練を受け続けた。早く、早く、早く身につけなくちゃ。それが私の役目なの、と。
しかし。
「切れませんね……」
ナディアが、ここ3週間一向に変形する気配のない棒を見ながら呟く。空はすでに茜色に染まり、そろそろ妖怪退治の鐘が鳴らされる時間になった。にもかかわらず、釦は集中力を途絶えさせずに一心に木切れを見つめている。息を止め、一切の表情をなくして睨み付けるその様子はまるで腹をくくった武士のようで、そんな存在を知らないナディアでさえ異様な雰囲気を感じ取るほどだった。
「ボタン、そろそろ終わりましょう」
「……」
「ボタン」
「……何、ですか?」
「夕食にしましょう」
ナディアにそう言われ、釦はゆるゆると頭を動かす。外を見ると確かに日が傾いていて、今日もまた何の成果もなく終わってしまったという虚無感だけが彼女の心に流れ込んだ。
「もう、そんな時間だっけ」
「ええ。今日は昼食も抜いていましたから、お腹が減ったでしょう。すぐに準備をさせますから」
「……そんなに、減ってないんだけど」
釦が自分の腹部に手を当てながらそう言うと、見目麗しい神官は悲しそうな顔をする。
「食べないと、体によくないですよ。マコトも心配していましたし」
3週間。釦はナディアに、初日よりも厳しく指導するように頼んだ。自分が甘やかされないように、早く誠と一緒に現世へ帰れるように。イメージトレーニングとして紙に模写したり、棒を折って断面を確認したり、一日中「折れろ」とつぶやいていた日もあった。だが、それらは結果に結びつくことはなく、いたずらに時間だけが失われていく。努力が実らない毎日に、釦の焦りは日に日に増していった。
「お……誠だって、最近はどんどん帰るのが遅くなってるのに」
そして、それは誠にも言えたことのようであった。初めの1週間は毎朝、そしてまれに夕方も一緒に食事をとっていたのに、だんだんと顔を合わせる頻度が低くなっていき、ここ2,3日は全く姿を見ていない。
「マコトとあなたは別です。それに、私は、彼からあなたの世話役を請われているのですよ。ボタンが倒れたら怒られます」
釦は自分の中で、不安と焦りだけが日増しに膨張していくのを感じてはいた。そして、それがあまり良いことでないということも、何となくわかってはいるのだ。焦りは努力を空回りさせる。けれど、それでも気になってしまうのだ。
召喚されて3週間経った。もうすぐ夏休みが明けてしまう。宿題だって終わっていないのに。帰ったらやらなくちゃ。ああ、そういえば、友達はどうしてるだろう。私のことは警察に届け出されたのかしら。学校では、近所では、家では、どうなっているのかしら――と。
こちらで過ごせる時間は無限ではない。居続ければそれだけ、向こうに戻った時の問題が多くなるだろう。現に、釦と誠は2年の学年差があるのだ。それがどうしようもなく取り返しのつかないことだとは彼女とて思わないが、放っておいてもいいものでもない。
「どうして、うまくいかないんだろう」
「力の発現までにかかる時間は、人それぞれです。急ぎすぎるのも危険かと」
「それでも、私は今できる限りのことをしなくちゃ」
心配そうな目線をあえて無視しながら、釦はそう宣言した。自分に言い聞かせるように。不安に蓋をするように。早く、早く、早く。
次の日、釦がいつも通り地下室で訓練を受けていると、扉の隙間から真っ白な紙風船が入ってきた。風のない地下室でものが飛ぶはずもなく、つまりは意志をもって飛んでいるということだ。
「ナディア神官、あれって……」
「ああ、あれも魔法ですよ、私の紙飛行機と同じ種類の。伝達手段として使われています」
「色々な形式があるのね」
「想像する力といいますか、魔法をイメージする方法は様々なので、人によって媒体が違うこともありますよ」
伝達手段は主にその二種類ですが、と説明しながら、彼女はその紙風船を掴んで耳を当てる。すると、突然。
『――――――――――』
紙風船の中から声がする。英語で話されているため、何を言っているか釦には見当もつかないが、ナディアは静かな表情でそれに聞き入っている。
飛行機はメールの役割を果たしていたが、こちらは電話なのか、と様子を眺めるが、それにしては金髪の神官は一向に口を開く気配がない。ということは、音声メールのようなものだと考えれば妥当なのか。
そんなことを考えているうちに、紙風船は言いたいことをすべて吐き出したらしく、小さく萎んでナディアの手中に収められていた。
「ボタン、こちらに人がやってきます」
「えっ」
突然の予告に、釦は目を見開く。彼女が今までに会った異世界の人間は、ナディアを含めても片手で収まるほどだ。それでも不自由はなかったし、必要も感じなかったのだが。
その旨をナディアに言うと、なぜか彼女は悲しそうな顔をする。
「?」
「いえ、彼女が希望しているだけですので。ただ、二人きりでずっと練習をしていると、気が滅入ってしまうでしょう。たまには、他の人間が来てもいいのでは」
「ふうん」
そういうものなのか。
「誰が来るの?」
「音声では、神官が来るとしか。この時期に城にいる神職者なんて、あまりいないはずなのですが……」
釦は、勝手に神官はナディア一人しかいないものだと思っていた。しかし、彼女の口ぶりを見るに、どうやらそうではないらしい。
「日本語――私たちの世界の言葉は話せるの?」
「はい。神官は皆、古代文献が読めるように義務付けられていますから」
つまり、その人と会話をすることもできるということだ。釦の中で、少しだけ興味が湧いた。
「城にいないなら、他の人はどこにいるの?」
「各地の教会の視察にいったり、あとは総本山の神殿で神に仕えていますよ」
「総本山」
「神がお生まれになったとされる聖地に、大きな神殿があるのです。城にも勿論神殿はありますが、」
「総本山の方がずっと大きいし、権力もあるんだよね」
不意に、子供独特の高い声が割って入った。
「え?」
釦たちがあわてて扉に目を向けると、オレンジ色の短髪の少女が立っていた。いつの間にか到着していたらしい。動揺する釦を尻目に、5月の森を彷彿とさせるような色の瞳は、楽しそうに辺りを見回す。
「ミシェル……あなただったのですか」
「そうだよ、こんなところに毎日いたんだ。それで、あんたが二人目の『旅人』なの?」
釦のことを顎でしゃくりながら、彼女が問うてきた。明らかに年下の子供に見下されている。その行儀の悪さに一瞬眉間に皺が寄るが、それよりも疑問の方が勝った。
「旅人?」
「この国では、ボタンたちのように異世界から来た人間を『旅人』と呼ぶのです」
「夕襲の国」だとか「旅人」だとか。この国の人間は総じてロマンチックなのかしら。
ナディアが若葉色の瞳をした少女に近づき、紹介をし始める。
「彼女はミシェル。ミシェル・モンカペッツィオです。ミシェル、こちらはボタン。あなたの予想通り、彼女は『旅人』です。無礼のないように」
「ふうん。よろしく、ボタン」
ミシェルの挨拶に頷きながら、釦は不思議に思う。モンカペッツィオ、とは確か……。
「ナディア神官の妹?」
「いいえ、私の元々の姓はナディア・ヴィクトリカ・オーウェル。マコトからすでに聞いているかもしれませんが、この国の王家の出身です。モンカペッツィオとは神官になり自分の家を――つまりは身分など一切を捨てた時に拝受できる、特殊な名字なのです」
日本でいえば臣籍降下のようなものか、と釦は一人納得した。『源氏物語』の光源氏が後継ぎ争いを避けるために賜姓したことを考えれば、別におかしなことではない。
「この国の王とは、どういう間柄なの?」
「5番目の子になります」
「お姫様じゃない!」
もとの世界には王がいなかったから、細かいことはわからない。しかし、ナディアが国でもかなり高位の身分だということは、容易に想像がついた。
「一応はそういうことになりますね。ですが先ほど申し上げた通り、私はすでにその身分を捨てたので、今ではただの一神官です。それに、5歳の時に神殿に入れられたので、王族という自覚もほとんどありません」
「あたしたち神官は、みんな兄妹みたいな感覚よ。生まれとかはあんまり関係ないし。ねぇ、そんなことよりさ」
「何?」
無邪気に釦を軽蔑の眼差しで見つめるミシェルに、自然と顔がこわばった。何、なんか、嫌な予感がする。
そんな釦を気にも留めず、ミシェルは曇りのない笑顔で言葉を放った。
「どう、あんたがいた世界より、こっちの方がずっといい待遇でしょ?」
「え……?」
『ミシェル! 何言ってるの!』
ナディアの鋭い声にも臆さず、年下の少女はただ「うるさいなぁ」と呟いた。
「魔法なんて習って妖怪退治するよりさ、のんびり今後の生活のことを考えた方がいいんじゃない」
『マコトの話を聞いていないのですか、あまりおかしなことを言っては』
『まだこっちにいるこの子が混乱する、って? 聞いてるよ。でも、あたしがそれに従う義理なんてどこにもないもん』
『あなた、マコトに対して悪いと思ってないのですか』
『思うわけない。あの時出した判断は、ベストのものだった』
金髪の神官がこれほどまでに感情を高ぶらせているのを見たことがない。
目の前で繰り広げられる姉妹喧嘩のようなものに、釦は言葉を失う。というより、もともと聞き取れない英語が凄まじいスピードで話されているため、何一つ理解できなかった。
いくつかやり取りした後、確認するようにナディアが日本語でゆっくりと話す。
「それでも、今ボタンは自分の考えで努力しようとしているのです。邪魔をするなら帰りなさい」
まるでそれで話が終わったとばかりにミシェルから目をそらした彼女に、けれど年若い神官はなおも言葉を続けた。
「努力してたって、結局できてないでしょ。魔法の才能があるかどうかも分かんないのに、なんで時間ばっかり無駄にしてんの? 馬鹿みたい」
ナディアの表情が凍る。
「こんな細い棒の形すら変えられないなんて、もともと向いてないのよ。いい? 魔法ってのはね、こうやるの、よっ!」
ミシェルがさっと棒に向けて手を伸ばすと、棒がぐにゃりと曲がっていく。下に、斜めに、上に。あっという間に固結びされた木の枝が出来上がっていた。ご丁寧に、棒の先端は鋭く尖らせて天井を指している。まるで鋭利なナイフのように。
「――すごい。きれい」
釦がそう呟くと、ふふんと鼻で笑われる。それが、彼女のボロボロの自尊心をさらに傷つける。
「こんなの、この国の魔法が使える人間なら誰でもできるよ」
「ミシェル、いい加減に」
「師が悪いわけじゃないもんね。だって、私に教えたのもナディアだし――」
「できるわ!!」
釦の中で、何かが弾けた。
これ以上、馬鹿にされてたまるか。毎日毎日こんなに一生懸命やっているのに、それを無意味なことだと笑われて、たまるか。
「ボタン、無理しないでください。初めてまだひと月もたっていないのですから」
ナディアが気遣わしげに声をかけてくるが、黙って、と釦は首を振る。
「見てて」
そして腕を前に出した。棒に照準を定めて、折れろ、と強く念じる。
折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ、折れろ。
しかし。
「なんにもかわんないじゃん」
無邪気で、だからこそ残酷な声が間に入る。
「なん、で……」
どうして何も起こらないの。やっぱり、
「才能がないんだね」
見せられる現実。役立たずの烙印。釦は誠に頼ってばかりで、結局何にも手助けできない。
釦は両手で顔を覆う。もう嫌だ、という気持ちが、彼女の胸にふつふつと湧きおこる。
「ボタン、今日はもう休みましょう。……ミシェル、あなたは帰りなさい」
ナディアが冷たい声を出すと、流石にミシェルもやりすぎたと思ったのか目を泳がせた。一方釦は地面に座ったまま、動こうともしない。礼儀正しい神官が近づき、もう一度声を掛けようと口を開くと。
「……んで」
「え?」
「なんで、私にはできないの!」
感情が高ぶった釦が、ナディアを突き飛ばした。完全に不意を突かれた彼女は、バランスを崩して背中から倒れていく。その後ろには、先ほどミシェルが作った棒が。
「あ……っ」
「ナディア!」
嘘、嫌だ、私のせいで。助けて、何かマットを、間に合わない。背中が。嫌だ。守れ、守れ、守れ、守れ、
「守れーーーーーーー!!!!!!」
瞬間。
ドン、という鈍い音がしたかと思えば、ナディアが釦の方ほうに倒れてきた。手を伸ばすも届かず、そのまま神官は大きく転んだ。
「っつ……」
「大丈夫!?」
急いでミシェルが彼女の背中を確認するが、目立った傷は一つもない。
「だ、大丈夫です」
「一体、何が」
「刺さりそうになった瞬間、背中を押された感覚がしました。力が強すぎて逆方向に転びましたが。ミシェルがやったのでは」
「違うよ、私は瞬間的な魔法が苦手だもん」
では、と二人の目線が釦に向けられる。真っ青な顔をして、地面にへたり込んでいる釦に。恐る恐る、ナディアが問うた。
「ボタン、あなたが……?」
「そう、みたい」
信じられない、という顔をしているのはお互い様だ。
「すごい! さっきまでできなかったのに!」
「ボタン、やりましたね!」
二人が歓喜して釦に近づいてくるが、当の本人はそれどころではなかった。ぐるぐるぐるぐる、先ほどの感覚がリフレインする。
魔法が使えた。まるで今までできなかったのが嘘のように、簡単に、自然に。仕組みが勝手に頭の中で理解できた。どういう風にイメージすればいいのか、感覚的に入ってきた。
だから、わかってしまった。
妖怪退治が終われば、この世界の魔法使いが現代に帰してくれるといっていた。でも、それは嘘だ。
釦たちは、帰れない。
遅くなりました。ごめんなさい。




