↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/25

9. 政略結婚だったのか

十二月二十二日。


優弥の命日だった。


紗綾はいつもより早く家を出た。


まだ出勤には少し早い。


車は事務所とは反対の方向へ走り、朝日トンネルを抜けて、梅林のある山裾へ向かった。


梅林を過ぎ、さらに細い道を上る。


その先に愛田家の墓地がある。


山腹に作られた古い墓地だった。


江戸時代後期から残っている墓石も多い。


奥に並ぶ幾つかの墓石は長い年月に角を削られ、刻まれた文字さえ読み取れなくなっている。


一面を苔に覆われたもの。


明治、大正、昭和と年代が新しくなるにつれて、墓石の輪郭も次第にはっきりしてくる。


その一番新しい墓石の前で、紗綾はしゃがんだ。


持ってきた花を供える。


線香に火をつける。


冬の朝の空気の中へ、白い煙が細く上っていった。


「寒いね、ゆーちゃん」


誰もいない墓地で、紗綾は言った。


墓石は当然、何も答えない。


「もう六年だよ」


紗綾は手を合わせた。


そこから少し顔を上げると、向こうの丘に梅林が見える。


一誠が設計している、新しいアトリエ兼自宅の建設予定地も見えた。


まだ何も建っていない。


裸になった梅の枝。


冬枯れの斜面。


その向こうに薄く霞んだ関東平野。


冷たい風が吹いた。


つくば市内よりも、こちらの方が冬は冷えるような気がする。


山に囲まれた土地だからだろうか。


紗綾はコートの襟を寄せた。


「今ね」


墓石に向かって言った。


「新しい事務所、作ろうとしてるの」


少し笑う。


「新人の子に設計させてる」


線香の煙が風に流された。


「まだ全然駄目だけどね」


そう言ってから。


少し間を置いた。


「でも……面白い子だよ」


紗綾はもう一度、梅林の方を見た。


六年前。


優弥が死んだのも、寒い十二月だった。


日曜日の夜だった。


二人で夕食を食べた。


特別な日ではない。


ごく普通の日曜日。


食事を終えた優弥は、


「ちょっと疲れた」


と言って、リビングのソファに横になった。


紗綾はキッチンで後片付けをしていた。


しばらくして。


妙に静かなことに気づいた。


眠っているのだと思った。


ところが、声を掛けても返事がない。


「ゆーちゃん?」


肩を揺すった。


反応がない。


「ゆーちゃん」


もう一度。


それでも反応しない。


その時初めて。


何かがおかしいと思った。


救急車を呼んだ。


電話口で言われるまま確認した。


呼吸。


反応。


意識。


ほとんどなかった。


救急隊が到着するまでの時間が、紗綾には異様に長く感じられた。


搬送された病院で。


医師から告げられた。


脳血管障害を起こし、その後心停止に至った可能性が高い、と。


死亡が確認された。


あまりにも突然だった。


朝まで普通に喋っていた人が。


夕食を一緒に食べた人が。


数時間後には、もういない。


紗綾は理解できなかった。


三十年間近く、自分の人生にいることが当たり前だった人間だったからだ。


紗綾が優弥を初めて意識したのがいつだったのか。


本人にも分からなかった。


物心がついた頃には、もう優弥がいた。


愛田家と本多家は、古くから付き合いがあった。


週末になれば互いの家を行き来した。


四歳上の優弥は、紗綾にとって最初は兄のような存在だった。


「ゆーちゃん」


幼い紗綾は、そう呼んで後をついて回った。


優弥が自転車に乗れば、自分も乗りたがった。


優弥が本を読めば、隣に座った。


優弥が勉強していれば、何をしているのかも分からないままノートを覗いた。


中学生になる頃。


大人たちは、二人に少しずつ言うようになった。


将来、お前たちは結婚するのだ、と。


今なら、ずいぶん古臭い話だった。


二人の家はそれぞれ地域では古くから続く家だった。


本多家には事業があり。


愛田家には土地があった。


家同士の結び付きを強めたいという思惑がなかったとは言えない。


だから、外から見れば。


確かに二人は「許嫁」だった。


もっと露骨に言えば。


政略結婚。


そう呼ぶ人間がいても、不思議ではなかった。


ところが。


当人たちは少し違っていた。


中学生になった紗綾は、親戚から、


「紗綾ちゃんは大きくなったら誰のお嫁さんになるの?」


と聞かれると、当然のように答えた。


「ゆーちゃん」


「本当に?」


「うん。私はゆーちゃんのお嫁さんになるの」


恥ずかしがりもしなかった。


それ以外の人生を考えたことがなかったからだ。


優弥の方は、そのたびに、


「勝手に決めるなよ」


と笑った。


しかし否定もしなかった。


高校受験の時。


優弥は家庭教師代わりになった。


数学。


英語。


物理。


紗綾が分からないと言えば、何度でも教えた。


大学受験の時も同じだった。


ただ一つ。


紗綾がどうしても苦手だったのが数学だった。


「何でこんなの分からないかな」


「分からないから聞いてんでしょ」


「昨日も同じこと教えた」


「忘れた」


「威張るな」


「ゆーちゃん、説明下手」


「お前が馬鹿なんだよ」


「ひどい!」


そんな喧嘩をしながら勉強した。


優弥が東京のW大学建築学科へ進学すると。


数年後、紗綾も東京のT女子大学家政学部住居学科へ進んだ。


周囲は、


「やっぱり優弥君を追いかけたのね」


と笑った。


紗綾は、


「別に」


と否定した。


だが。


半分くらいは当たっていた。


二〇〇四年の春。


二人は結婚した。


優弥、二十四歳。


紗綾、二十歳。


学生結婚だった。


豪華な結婚式を挙げた。


本多家と愛田家の結婚。


事情を知る者の中には、家同士の結婚だと思った者もいただろう。


それは、ある意味では間違っていない。


しかし。


式が終わり、都内の小さなマンションへ帰った夜。


紗綾はウェディングドレスを脱ぎながら言った。


「ねえ、ゆーちゃん」


「何?」


「本当に結婚したね」


「したな」


「私、子供の頃から言ってたでしょう」


「何を」


「ゆーちゃんのお嫁さんになるって」


優弥は笑った。


「執念だな」


「何よ、それ」


「怖い女だ」


「今さら遅いからね」


「分かってるよ」


そんな結婚だった。


誰かに無理やり一緒にされた二人ではない。


むしろ。


周囲が決めるよりずっと前から、二人の中では一緒にいることが自然になりすぎていた。


大学卒業後も、二人は建築を続けた。


東京の大学院へ残る選択肢もあった。


しかし両家の親から、


「そろそろ地元へ戻ってきたらどうだ」


と言われた。


表向きはいろいろ理由をつけられた。


だが本音は分かっている。


早く孫の顔が見たい。


それだった。


二人は地元に近いTX大学大学院へ進学した。


優弥は博士課程へ。


紗綾は修士課程へ。


研究室は違った。


専門も少し違った。


それでも。


帰る家は同じだった。


二〇〇七年。


優弥は都内の大手設計事務所へ就職した。


つくばから東京へ通った。


翌年。


紗綾はつくば市内のアトリエ系設計事務所へ入った。


二人とも忙しかった。


特に優弥は忙しかった。


朝早く家を出て。


帰宅は深夜。


休日にも仕事をしていた。


それでも二人の生活は続いた。


ただ。


一つだけ。


思い描いていたようにはならなかったことがある。


子供だった。


結婚した時は、何も心配していなかった。


そのうちできるだろう。


二人とも若かった。


一年。


二年。


三年。


それでも授からなかった。


最初は笑っていた。


「まあ、そのうちね」


と。


だが年月が過ぎるにつれて、その言葉は少しずつ重くなった。


つくばの産婦人科へ行った。


専門の医師にも相談した。


東京の病院まで通ったこともある。


検査も受けた。


その結果。


どちらか一方に明確な原因があるわけではなく、二人とも妊娠に結び付きにくい要因をいくつか抱えている、と説明された。


治療も試した。


体外受精の話も出た。


そこまで進むかどうか。


二人は何度も話し合った。


ある夜。


紗綾が言った。


「ねえ」


「ん?」


「私たち、子供いなくてもいいかな」


優弥はすぐには答えなかった。


「疲れた?」


「少し」


紗綾はソファの上で膝を抱えていた。


「子供欲しくないわけじゃないよ」


「うん」


「欲しい」


「俺も」


「でもね」


紗綾は少し笑った。


「何か、子供作るために結婚したみたいになってきた」


優弥は黙った。


「私、ゆーちゃんと一緒にいるために結婚したんだけどな」


その言葉を聞いて。


優弥も笑った。


「俺もだよ」


そして二人は、いったん治療から距離を置いた。


養子を迎えるという選択肢について話したこともある。


いつか。


二人で。


もう少し仕事が落ち着いたら。


そんな未来もいいかもしれない。


ようやく、そう思い始めていた。


二〇一二年。


優弥は独立を決めた。


愛田建築設計事務所。


後に皆が「アトリエ愛田」と呼ぶことになる小さな事務所だった。


吉田が加わった。


紗綾も参加した。


翌年には彩華が入所した。


仕事は少しずつ増えた。


優弥は忙しくなった。


誰よりも働いた。


朝早くから。


夜遅くまで。


自宅に帰っても図面を見ていた。


紗綾は時々言った。


「もうやめなよ」


「あと少し」


「そのあと少しが長いのよ」


「分かってる」


「全然分かってない」


そんな会話を。


何度しただろう。


そして。


二〇一四年十二月二十二日。


優弥は帰らぬ人になった。


墓前に立つ紗綾は目を開いた。


線香は半分ほど燃えていた。


六年。


長いのか。


短いのか。


分からない。


紗綾にとって優弥との結婚生活は十年余りだった。


けれど。


優弥との時間は、それよりはるかに長い。


恋人だった期間。


夫婦だった期間。


そんな区切りにはあまり意味がない。


物心がついた時から、優弥がいた。


だから彼が死んだ時。


夫を失っただけではなかった。


兄のような人。


友達。


先生。


恋人。


夫。


そして。


これから先の人生を当然一緒に歩くと思っていた相手。


それを一度に失った。


周囲は言う。


まだ若いんだから。


再婚したっていい。


いい人がいたら。


紗綾は、そのたびに笑って聞き流した。


別に再婚を否定しているわけではない。


いつか誰かを好きになることも、ひょっとしたらあるのかもしれない。


けれど。


少なくとも今は。


そんな気にはなれなかった。


優弥が残した事務所を守る。


吉田と。


彩華と。


千鶴と。


新しく入った東郷と。


そして一誠と。


事務所を維持する。


できれば、優弥がいた頃より良い事務所にする。


それが紗綾にとって。


今も残っている優弥への想いを、置いておける場所だった。


紗綾は墓石に水をかけた。


「じゃあ、仕事行くね」


返事はない。


いつものことだった。


「また来るから」


立ち上がる。


そして梅林の方をもう一度見た。


新しいアトリエが建てば。


あそこへ自分も移る。


優弥と暮らしたマンションを離れる。


そのことを考えると、胸の奥が少し痛んだ。


それでも。


いつまでも同じ場所にいるわけにはいかない。


「ねえ、ゆーちゃん」


紗綾は小さく呟いた。


「私、新しい家に住んでもいいよね」


冬の風が吹いた。


梅の細い枝が、遠くで揺れた。


その日の午後。


事務所では一誠が、新しいアトリエ案の模型を作っていた。


中央に厚い壁が一本。


その両側に。


アトリエと住宅。


斜面へ張り出す水平な床。


南へ大きく開くリビング。


一誠にはまだ分からない。


自分が設計しているものが。


単に新しい家ではないということを。


紗綾にとってそれは。


優弥と暮らした場所を離れ。


初めて一人で住むための家だった。


夕方。


一誠は給湯室で吉田と二人になった。


ふと思い出したように聞いた。


「チーフ」


「ん?」


「今日って、所長の旦那さんの命日なんですよね」


吉田の手が止まった。


「誰に聞いた」


「片山さんです」


「そうか」


一誠は少し迷った。


しかし、前から引っ掛かっていた疑問が口から出た。


「チーフ、一つ聞いていいですか」


「何だ」


「所長と先代って」


「うん」


「許嫁だったって、本当ですか」


吉田は一誠を見た。


「本当だよ」


一誠は少し間を置いた。


「じゃあ……」


「何?」


「政略結婚だったんですか」


吉田の表情が変わった。


そして。


一誠をしばらく見た後。


突然、笑った。


「は?」


「いや」


「誰からそんな話聞いたんだ」


「噂です」


「噂ねえ」


吉田はコーヒーを一口飲んだ。


「確かに、家同士が決めた許嫁だった」


「やっぱり」


「でもな」


吉田は笑った。


「お前、あの二人見たことないから、そんなこと言えるんだよ」


一誠は黙った。


「俺は大学の頃から知ってる」


「はい」


「優弥が紗綾さんを連れてきて、『今度結婚する』って紹介された時からな」


吉田は少し遠い目をした。


「政略結婚ねえ……」


もう一度笑う。


「少なくとも俺には、そんなふうには一度も見えなかったよ」


「……」


「むしろ逆だ」


「逆?」


吉田は答えず、紙コップを捨てた。


「知りたきゃ、そのうち所長本人に聞け」


「そんなこと聞けませんよ」


「だったら余計な詮索するな」


そう言って給湯室を出ていった。


一誠だけが残った。


――むしろ逆。


その言葉の意味を考えた。


そして。


あのマンションのピアノの上にあった優弥の写真を思い出した。


政略結婚だったのか。


確かに二人は許嫁だった。


家同士が決めた結婚でもあった。


けれど。


人と人との関係は。


そんな言葉一つで説明できるほど、単純ではない。


一誠がそのことを本当に知るのは。


もう少し後のことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。