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8. 所長の秘密

## 『ウチのボスはメリーウィドゥ』


### 第一部・第1話〜第7話 あらすじ(約1,000字)


若くして夫・愛田優弥を亡くした建築家、愛田紗綾。亡き夫が残した設計事務所「愛田設計」を引き継ぎ、所長として仕事に打ち込んでいた。優弥は幼い頃からの友人であり、人生をともに歩むはずだった最愛の人でもある。紗綾にとって事務所を守ることは、夫との思い出を守ることでもあった。


そんな愛田設計に、大学を卒業したばかりの上原一誠が入所する。建築への情熱と才能を持ちながら、実務経験の乏しい一誠は、設計事務所の仕事の厳しさを知ることになる。


紗綾は、若い一誠に容赦なく意見をぶつける。建築は美しい図面を描くだけでは完成しない。施主の希望、敷地の条件、構造、施工、予算。そのすべてに答えを出さなければならない。一誠は失敗や戸惑いを重ねながら、少しずつ実務を学んでいく。


一方、愛田設計には倖田彩華をはじめ、個性豊かなスタッフたちがいる。彩華は優れた設計能力を持ち、仕事にも人間関係にも積極的な女性だった。新人の一誠にとって、紗綾は尊敬すべき所長であり、彩華は身近な先輩として刺激を与える存在となる。


一誠は、紗綾の設計に対する考え方に強く惹かれていく。紗綾もまた、経験不足ながら自分の意見を持ち、ときには所長に反論する一誠の中に、建築家としての可能性を見いだしていく。


しかし、紗綾には優弥を失った悲しみが残っていた。仕事では毅然としていても、私生活では孤独を抱えている。事務所を守る責任と、自分自身の人生をどう生きるかという問題は、まだ解決していなかった。


一誠との出会いは、そんな紗綾の日常に小さな変化をもたらし始める。二人は所長と新人という立場でありながら、建築について語り合う中で、互いの考え方や感性を知っていく。


一方、一誠もまた、設計者として成長するだけでなく、彩華をはじめとする周囲の人々との関係を通じて、自分の居場所を見つけ始める。


物語の序盤は、夫の遺した事務所を守ろうとする紗綾と、一人前の建築家を目指す一誠を中心に、愛田設計という小さな組織で働く人々の姿を描いていく。


建築をつくることは、人と向き合うことでもある。


それぞれが仕事への情熱と個人的な思いを抱えながら、愛田設計の新しい日々が動き始める。



一誠が所長のベッドで酔い潰れた話は、翌日には事務所中に知れ渡っていた。


誰が広めたのかは分からない。


いや、正確には分かっている。


彩華が一誠を迎えに行った。


その彩華が翌朝、いつも通り出勤した。


そして小さな事務所である。


隠せるはずがなかった。


もっとも、紗綾自身は特に気にしている様子もなく、


「一誠君、次からは自分の酒量くらい分かって飲みなさいよ」


と笑っただけだった。


問題は周囲である。


吉田は何も言わない。


ただ一誠を見る目が、時々笑っている。


彩華はもっと露骨で、


「所長のベッド、寝心地良かった?」


などと聞いてくる。


一誠としては、勘弁してほしかった。


その日の夕方。


一誠は小払いの精算で、事務担当の片山千鶴のところへ行った。


「片山さん、これお願いします」


レシートを差し出す。


千鶴は電卓を叩きながら、ふと顔を上げた。


そしてニコニコしながら言った。


「所長のマンション、凄かったでしょ」


一誠は少し身構えた。


「えっ」


「この前」


「ああ……はい」


「広かったでしょう」


「凄かったです」


「でしょうね」


千鶴は精算伝票に印鑑を押した。


「所長、いいところのお嬢様だから」


一誠の手が止まった。


「え?」


「知らないの?」


「何をですか」


千鶴が意外そうに一誠を見た。


「あら、一誠ちゃん。所長の旧姓」


「旧姓?」


「本多よ」


「本多……」


聞き覚えがある。


というより。


茨城で暮らしていれば、知らない方がおかしい名前だった。


一誠はゆっくり顔を上げた。


「本多……ホンタ?」


千鶴が笑った。


「そう」


「えっ」


「そのホンタ」


一誠の頭の中で、いろいろなものがつながった。


ホームセンター。


大型ショッピングセンター。


資材館。


ガーデンセンター。


画材店。


県内各地で見かける看板。


「日立、常陽に次ぐ……」


「そう。県内でも指折りの企業グループ」


千鶴は現金を数えながら言った。


「創業家のお嬢様」


一誠は呆然とした。


「知らなかった……」


「あなた、もっと勉強した方がいいわね」


「建築のですか」


「いろんな意味で」


「……」


「はい」


千鶴は精算した現金を渡した。


「どうぞ」


一誠は受け取った。


「ありがとうございます」


千鶴はまた笑った。


「所長のこと、何も知らないのね」


その言葉だけが妙に残った。


その晩。


一誠は彩華にLINEした。


《所長ってホンタの本多家なんですか》


しばらくして既読になった。


《知らなかったの?》


《今日初めて聞いた》


すぐ返信。


《ウチ入る時調べなかったの?》


《調べてない》


少し間があった。


《呆れた》


続けて。


《暢気を通り越して間抜け》


《そこまで言わなくても》


《言う》


《知らないものは知らない》


《だから間抜けなの》


散々である。


しばらくして彩華から別のメッセージが来た。


《そういえば今度、そのホンタの仕事やるらしいよ》


一誠は少し驚いた。


《どこの?》


《千葉NT》


《大きい?》


《かなり》


《チーフ担当?》


返信。


《無理》


《チーフも案件抱えてる》


《じゃあ誰?》


《中途採用するらしい》


一誠はスマートフォンを見た。


《新しい人?》


《先週、みんな外出してる時に面接来てたって》


《どんな人》


《W大出》


《大手ゼネコン》


《施管やってた》


《一級建築士》


《へえ》


最後に彩華から来た。


《あんたより遥かに即戦力》


《余計なお世話です》


返信はなかった。


翌週月曜日。


朝礼で紗綾が、新しいスタッフを紹介した。


「今日から一人、仲間が増えます」


紗綾の横に立っていた男が頭を下げた。


背が高い。


短く整えた髪。


黒縁の眼鏡。


服装もきっちりしている。


一見すると、かなり堅い。


「東郷隼人です。二十九歳」


本人が挨拶した。


「前職ではゼネコンで施工管理をやっていました。設計実務はまだ勉強することも多いですが、よろしくお願いします」


声も真面目そうだった。


紗綾が補足する。


「一級建築士持ってるから、一誠君も色々教えてもらうといいよ」


一誠が小声で言った。


「僕が教えてもらうんですか」


彩華が横から囁く。


「当たり前でしょ」


「僕、一応先に入ってますけど」


「半年先輩?」


「そうです」


「威張れる立場じゃない」


東郷の席は、彩華と一誠の間になった。


一誠は少し複雑な気分だった。


昨日まで隣は彩華だったのだ。


東郷は机に荷物を置くと、早速ファイルを開いた。


几帳面そうである。


紗綾が言った。


「しばらくは彩華、面倒見てあげて」


「はい」


「一誠君もね」


「はい」


「二人でいじめないように」


彩華が笑う。


「所長、私そんなキャラですか」


「十分」


「ひどい」


東郷は真面目な顔のまま聞いていた。


その日の午前中。


東郷は吉田と二人でホンタ本社へ打ち合わせに出た。


紗綾も現地で合流するらしい。


いきなり大仕事である。


「入った初日から本社案件か」


一誠が呟いた。


彩華が答えた。


「だから採ったんでしょ」


「施工管理出身だから?」


「現場分かる人間が欲しかったんじゃない」


なるほど、と一誠は思った。


彩華の方は、コンペに勝った図書館の実施設計に入っていた。


実施設計となれば、コンペとは別世界である。


夢だけでは建物は建たない。


納まり。


法規。


構造。


設備。


防火。


コスト。


現場。


現実との戦いになる。


「来週から平詳入るから」


彩華が言った。


「平詳?」


「平面詳細図」


「知ってますよ」


「今、知らない顔してた」


「略し方に慣れてないだけです」


「そのうち嫌でも慣れる」


一誠も、自分のアトリエ案に戻った。


前の案は捨てた。


正確には、捨てきれずに机の引き出しに入れてある。


ただ、もう戻る気はなかった。


白いトレーシングペーパーを前にして、鉛筆を持つ。


しかし。


なかなか線が出てこない。


ふとすると。


あのマンションの窓を思い出す。


三方向へ開いたリビング。


遠くまで続く空。


白木。


本棚。


ピアノ。


料理をしていた紗綾。


そして。


ピアノの上に置かれた優弥の写真。


あの部屋には、不思議な二面性があった。


とても明るい。


とても開放的。


人を招く。


料理をする。


音楽を聴く。


外を見る。


それなのに。


ある一点だけ、時間が止まっている。


一誠は窓の外を見た。


「……」


「何」


彩華の声が飛んできた。


「え?」


「さっきからボーッと外見てるけど」


「考えてるんですよ」


「暇なら私の平詳手伝う?」


「嫌です」


「即答するな」


「自分の仕事ありますから」


「進んでないでしょう」


「進んでますよ」


「どこが」


「頭の中で」


彩華は呆れた。


「設計者が一番言っちゃいけない台詞ね」


「でも」


一誠はトレペを見た。


「プランって難しいですね」


彩華が手を止めた。


そして信じられないものを見るような顔をした。


「何、バカなこと言ってるの」


「え?」


「難しいに決まってるでしょ」


「いや、大学の時より」


「当たり前」


彩華はまたマウスを動かし始めた。


「大学は、自分が格好いいと思うもの描いてればいいの」


「……」


「実務は人が住むの」


その一言で。


一誠の鉛筆が止まった。


――人が住む。


この前と同じことだ。


敷地だけではない。


建築だけでもない。


紗綾が住む。


一誠は新しい紙を取った。


まず一本。


水平線を引いた。


斜面とは逆だった。


敷地は傾斜している。


ならば建物まで傾斜に従う必要はない。


むしろ。


水平な床を、斜面の上へ差し出す。


二本目。


三本目。


三つのレベル。


一番下にアトリエ。


その上にリビング。


一番高いレベルの奥に寝室。リビングの上は吹抜け。


そして。


アトリエと住宅の間へ一本の厚い壁を描いた。


RC。


地面から立ち上がり。


屋根を突き抜ける。


建築全体を支える背骨。


一誠は手を止めた。


――これだ。


まだ粗い。


平面もない。


けれど。


前の案とは全く違う。


その日の午後。


一誠は模型で確認したくなった。


「彩華さん」


「何」


「ホンタの画材店行ってきます」


「何買うの?」


「スチレンボードとか。模型材料」


「社用車ないよ」


「自分ので行きます」


「はい、行ってらっしゃい」


事務所からホンタの画材店までは、北大通りから東大通りへ抜けて車で三十分ほどだった。


一誠はスチレンボード。


バルサ材。


アクリル板。


接着剤。


カッターの替刃。


その他細々したものを買い込んだ。


大きな紙袋を持って駐車場を歩いていると。


前方から数人のスーツ姿の男たちが歩いてきた。


その中央に見覚えのある女性がいる。


紗綾だった。


「あ」


紗綾も気づいた。


「あら、一誠君」


「所長」


「買い物?」


「はい。模型材料を」


紗綾が一誠の持つ袋を見る。


「もう模型作るの?」


「確認したくなって」


「そう」


紗綾は嬉しそうに笑った。


そして隣にいた男へ声を掛けた。


「お兄さん」


男が振り返った。


三十五歳くらい。


落ち着いた雰囲気で、紗綾とは目元が少し似ている。


紗綾が紹介した。


「こちら、ウチの若手のエース」


一誠は驚いて紗綾を見る。


――いつからエースになった。


「上原一誠君。今、梅林の家を担当してもらってるの」


男が一歩前に出た。


「そうですか」


手を差し出す。


「本多市之丞です」


一誠は慌てた。


右手には手提げ袋を持っている。


持ち替えて握手する。


「上原です。よろしくお願いします」


「いつも妹がお世話になっています」


その台詞に一誠は妙な違和感を覚えた。


普通、逆ではないか。


自分が紗綾に世話になっている。


「いえ、こちらこそ」


市之丞は笑った。


「梅林の件も、よろしくお願いしますね」


「はい」


「期待しています」


一誠には、その言葉が妙に重く聞こえた。


紗綾が言う。


「じゃ、一誠君。また後でね」


そして。


小さくウインクした。


一誠は一瞬固まった。


紗綾は何事もなかったように兄たちと歩いていった。


事務所へ戻ってから、一誠は千鶴に聞いた。


「片山さん」


「何?」


「今日、所長のお兄さんに会いました」


「ああ」


「市之丞さん」


「一番上のお兄さんね」


「一番上?」


「兄弟いるのよ」


「へえ」


「市之丞さんは次期社長って言われてるみたい」


一誠はまた驚いた。


「社長になるんですか」


「たぶんね」


「……」


一誠は少し考えた。


「所長の実家って、本当にお金持ちなんですね」


千鶴が笑った。


「今頃?」


「いや」


「マンション見て気づかなかった?」


「広いなとは思いましたけど」


「車も」


「車?」


「メルセデスにBMW、それにレンジローバー」


一誠の顔が止まった。


「え?」


「知らなかった?」


「一台だけじゃないんですか」


千鶴が声を出して笑った。


「三台よ」


一誠は思わず呟いた。


「あ……」


頭の中で、梅林の要求事項が蘇った。


――ガレージは三台分ね。


「そうか」


「何?」


「だからガレージ三台なんだ」


少し離れたところから彩華の笑い声がした。


「今気づいたの?」


「うるさいですよ」


「ほんっと鈍い」


千鶴も笑っている。


そして、少し声を落とした。


「旦那さんともね」


「はい?」


「優弥さん」


「……」


「許嫁だったって話もあるのよ」


一誠は顔を上げた。


「許嫁?」


「家同士で昔から決まってたとか」


「え」


「政略結婚みたいなものだったって噂」


「政略結婚……」


その言葉が、一誠の中へ落ちた。


紗綾。


優弥。


本多家。


梅林。


愛田家。


自分とは違う。


あまりにも違う。


自分は会津の造り酒屋の息子ではある。


しかし。


それでも。


紗綾が生きてきた世界は、自分が考えていたよりずっと遠いところにある気がした。


「ゴホン」


製図室から咳が聞こえた。


「ゴホン、ゴホン」


わざとらしい。


吉田だった。


千鶴が口を閉じた。


一誠も振り返る。


吉田はモニターを見たまま何も言わない。


ただ。


これ以上その話をするな。


そういう意味なのは、一誠にも分かった。


一誠は製図室へ戻った。


彩華の隣まで行く。


「これ」


「何?」


「新しい案」


トレーシングペーパーを渡す。


彩華が見る。


断面スケッチだった。


南へ下る斜面。


しかし。


建築の床は斜面には従っていない。


二枚の水平なスラブが、地面から空中へ突き出している。


最下層。


アトリエ。


その上。


リビング。


さらに奥の一番高いレベル。


ベッドルーム。


中央には、地面から立ち上がった一枚の厚いRC壁。


一誠が説明した。


「この壁を建物の芯にします」


彩華は黙って見ている。


「アトリエと住宅を分けるんですけど、完全に切らない」


「うん」


「壁の両側で機能を分ける」


「階段は?」


「この辺」


一誠が指す。


「リビングは?」


「南へ全面開口」


「テラスは?」


「ここから張り出します」


彩華が図面を少し離して見た。


「前より全然いい」


一誠の顔が明るくなった。


「本当ですか」


「うん」


「所長、好きそうですか」


彩華は少し考えた。


「それは私には分からない」


「……」


「施主じゃないから」


そして。


トレペを一誠へ返した。


「明日、それ所長に見せなさいよ」


「もう?」


彩華が睨んだ。


「もう、じゃない」


「まだ断面だけですよ」


「だから」


「もうちょっと模型――」


「一誠」


低い声。


「はい」


「前の失敗、もう忘れた?」


一誠は黙った。


彩華は少し笑った。


「私はいいと思うよ」


「……」


「でも、私が住む家じゃない」


一誠は改めて図面を見た。


その言葉の意味は、今なら分かる。


「分かりました」


「本当に?」


「明日見せます」


「よろしい」


彩華は自分のモニターへ戻った。


一誠も席へ戻る。


トレーシングペーパーを机に広げた。


もう一度、新しい案を見る。


その中央に描いた厚い壁が、妙に気になった。


一枚の壁を境に。


仕事をする場所と。


暮らす場所。


現在と。


過去。


明るさと。


影。


一誠はそこまで考えて、鉛筆を止めた。


そして、ふと思った。


自分は、まだ紗綾のことをほとんど何も知らない。


明るい所長。


人のいい所長。


建築家。


未亡人。


大企業の創業家の娘。


優弥の妻。


そのどれもが紗綾なのだろう。


けれど。


どれが本当の紗綾なのか。


あるいは、全部なのか。


一誠にはまだ分からなかった。


ただ一つ。


今日聞いた「政略結婚」という言葉だけが、どうにも引っ掛かっていた。


ピアノの上に置かれていた、優弥の写真。


あの写真を見つめる紗綾の顔を、一誠は見たことがない。


――本当に、政略結婚だったのだろうか。


その疑問は。


一誠の知らないところで、愛田設計の古い記憶へとつながっていた。

登場人物  (2016年4月時点)

愛田紗綾 32歳 急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった明るい性格で、人が良い

上原一誠 24歳 設計意匠スタッフ新人彩華と付き合うが秘密にしている

吉田忠司 38歳 チーフ事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹している

倖田彩華 28歳 二番手デザイナー何事も、物怖じしない

片山 千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い

愛田優弥 紗綾の亡夫 6年前に逝去 紗綾とは許嫁で結婚 事務所を創設

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