7. 時間の止まった部屋
登場人物 (2016年4月時点)
愛田紗綾 32歳 急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった明るい性格で、人が良い
上原一誠 24歳 設計意匠スタッフ新人彩華と付き合うが秘密にしている
吉田忠司 38歳 チーフ事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹する
倖田彩華 28歳 二番手デザイナー何事も、物怖じしない
玄関で迎えた紗綾は、事務所にいる時とは少し違って見えた。
髪を後ろで緩くまとめ、黒のブラウスに長いスカート。
化粧も普段より控えめだった。
それだけなのに、一誠には妙に眩しく見えた。
いつもの「所長」という枠が外れて、一人の女性として目の前に立っている。
そんな錯覚を起こした。
――いやいや。
一誠は心の中で首を振った。
これは仕事だ。
遊びに来たわけでもない。
ましてや恋人の部屋へ招かれたわけでもない。
施主の暮らしを知るための、れっきとした打ち合わせである。
そう言い聞かせながら、紗綾の後について廊下を進んだ。
玄関から続く廊下は、意外なほど狭く、暗かった。
そのためだろう。
廊下の先にある扉を抜けた瞬間、一誠は思わず立ち止まった。
「すご……」
リビング・ダイニング・キッチンは、一転して明るかった。
いや、明るいというより、光そのものが部屋を満たしているようだった。
最上階。
しかも三方向が外部に開いている。
大きな開口部の向こうには、関東平野が広がっていた。
空気の澄んだ日なら、本当に地平線まで見えるのではないかと思うほどだった。
一誠はしばらく黙って部屋を見回した。
後になって、ふと気づく。
どこか、ライトの落水荘のリビングに似ている。
もちろん石造りの巨大な暖炉もないし、森の中でもない。
けれど、低く抑えられた天井と、水平方向へ広がる空間。
室内にいながら、視線だけが遠く外へ抜けていく感覚。
もしこの部屋の中央に、あの巨大な岩石の暖炉があれば――。
そんなことを考えた。
東側にはアイランドキッチン。
その先に、大きなウォールナットのダイニングテーブルが置かれている。
キッチンでは、紗綾が忙しそうに料理をしていた。
丸鶏の周囲にローズマリーやタイムを散らしている。
どうやらこれからオーブンへ入れるらしい。
一誠は目を丸くした。
「所長」
「何?」
「僕以外に誰か来るんですか」
紗綾が振り返った。
「え?」
「いや、そのチキン……」
「ああ」
紗綾は笑った。
「今日は一誠君だけよ」
「一人分じゃないですよね」
「残ったら明日、事務所へ持っていくわ」
「なるほど」
一誠はまだ部屋を見ている。
紗綾が呆れたように言った。
「見学が終わったら、そこ座ってね」
「あ、はい」
「アハハ。ほんと建築屋ねえ」
一誠は苦笑した。
しかし、見ずにはいられなかった。
インテリアにも統一感がある。
家具や造作材には白木が多い。
一誠は壁際へ寄った。
木目を見る。
細かい。
「これ、スプルース*ですか」
「分かる?」
「たぶん」
「優弥が好きだったの」
その名前が出た。
一誠は一瞬黙った。
北側の壁一面には、造り付けの本棚があった。
床から天井まで。
建築関係の本が圧倒的に多い。
ライト。
アアルト。
コルビュジエ。
カーン。
スカルパ。
日本の近現代建築。
建築雑誌のバックナンバー。
しかし、それだけではない。
文学。
美術。
哲学。
自然科学。
音楽。
植物。
料理。
旅行。
一誠は何冊かの背表紙を目で追った。
――この人、こんなの読むんだ。
事務所にいる紗綾からは見えなかった一面だった。
西側にはグランドピアノが置かれている。
その周囲には椅子が何脚かあった。
一誠には見覚えがある。
「これ、ワーグナーですよね」
「そう」
「あっちはミース?」
「うん」
「本物ですか」
「もちろん」
「怖くて座れないな」
「椅子なんだから座りなさいよ」
紗綾が笑った。
そのピアノの上に、写真立てが一つ置かれていた。
男性の写真。
一誠はすぐ分かった。
優弥だ。
若い。
写真の中で笑っている。
一誠は見なかったふりをした。
なぜか、じっと見ることが失礼な気がした。
「所長、ピアノ弾くんですか」
「昔はね」
「昔?」
「子供の頃から習ってたの」
「へえ」
「高校の時、コンクールで優勝したことある」
一誠は振り返った。
「本当ですか」
「失礼ね」
「いや、すごいなって」
「今は全然よ」
「弾いてくださいよ」
「いいわよ」
紗綾は何でもないように答えた。
「あとで少しだけね」
「楽しみだな」
「その前にご飯」
紗綾がダイニングテーブルを指した。
「さ、座って」
置かれていたのは、ハンス・ウァーグナーのYチェア*だった。
一誠は腰掛けながら思った。
――本当に何でもあるな、この家。
料理も本格的だった。
ローストチキンが焼き上がるまでの前菜として、まずスズキのカルパッチョが出てきた。
そこに白ワイン。
小皿には梅のシロップ煮。
「これ」
紗綾が梅を指す。
「あの梅林のよ」
「え?」
「去年採れたやつ」
一誠は口に入れた。
甘酸っぱい。
「美味しい」
「でしょう」
「これも新しい家で作るんですか」
「もちろん」
「梅仕事する場所も必要ですね」
紗綾が笑った。
「ほら、もう要求増えた」
「所長が増やしてるんでしょう」
「あれ、私?」
「全部メモしてありますから」
二人で笑った。
メインのローストチキンが出てきた。
一誠は本気で驚いた。
皮は香ばしく、肉は柔らかい。
付け合わせの野菜まできちんと火が通っている。
「下手な店より美味しいですね」
「下手な店と比較しないでよ」
「あ、いや」
「普通に褒めて」
「すごく美味しいです」
「よろしい」
紗綾は満足そうにワインを飲んだ。
不思議なことに、会話はほとんど仕事の話にならなかった。
むしろ紗綾が意識的に避けているようだった。
「一誠君って、会津なんだっけ」
「はい」
「実家は?」
「造り酒屋です」
紗綾が目を丸くした。
「あら」
「結構古いですよ」
「どのくらい?」
「江戸時代かららしいです」
「うちの梅と一緒じゃない」
「そうですね」
「じゃあ日本酒詳しい?」
「多少は」
「いいわねえ」
紗綾の目が明らかに輝いた。
一誠は思い出した。
そういえば、事務所で聞いたことがある。
愛田設計の所長は、かなり酒が強い。
仕事を取るために酒席へ出れば、むしろ相手を潰して帰ってくる。
過去には紗綾を口説くつもりで飲みに誘った施主や会社経営者が、反対に泥酔させられ、翌朝には愛田設計へ仕事を依頼する羽目になった――。
そんな半ば伝説めいた話まである。
「年末、実家帰ったら持ってきますよ」
一誠が言った。
「本当?」
「はい」
「嬉しい」
その笑顔を見ると、本当に酒が好きなのだろう。
二人でワインを一本空けた。
二本目が開いた。
紗綾には何の変化もない。
顔色一つ変わらない。
一誠は次第に口数が多くなってきた。
「所長って、本当に強いですね」
「そう?」
「全然変わらない」
「一誠君が弱いんじゃない」
「そんなことないですよ」
「顔赤いよ」
「暑いんです」
「エアコン二十四度だけど」
「……」
紗綾が笑った。
料理は終わり、デザートになった。
柿とアイスクリーム。
「柿もあそこ?」
「梅林の隣」
「何でもありますね」
「田舎だからね」
紗綾は笑った。
一誠は部屋を見渡した。
明るい。
広い。
風景がある。
好きな本がある。
ピアノがある。
料理のできる大きなキッチンがある。
お気に入りの家具がある。
そして、亡くなった夫の写真もある。
一誠はようやく少し分かってきた。
この前、自分が描いた半地下の家。
あれは確かに紗綾の家ではなかった。
建築としては成立していた。
敷地にも合っていた。
しかし。
この人は暗い場所へ潜りたい人ではない。
光の中にいる。
窓を開ける。
人を呼ぶ。
料理を作る。
音楽を聴く。
遠くを見る。
そんな人だった。
――そうか。
一誠の頭の片隅で、何かが動き始めた。
新しいアトリエの輪郭が、ほんの少し見えた気がした。
「一誠君?」
「はい?」
「ぼうっとしてるけど」
「あ……」
「少し酔った?」
「まあ、少し」
「少しじゃないでしょう」
紗綾が立ち上がった。
「水持ってくる」
「大丈夫です」
立とうとした一誠の身体が、わずかにふらついた。
紗綾が腕を掴んだ。
「あら」
「平気です」
「全然平気じゃない」
「大丈夫」
「奥で少し寝る?」
「え?」
「酔い醒ましてから帰りなさい」
「でも」
「その状態で帰したら、私が彩華に怒られそう」
一誠は、その名前に少し反応した。
「彩華さん?」
「何?」
「あ、いや」
紗綾は気づいていない。
「ほら、立って」
一誠は紗綾の肩を借りた。
柔らかな香りがした。
――まずいな。
頭の片隅でそう思った。
だが、酔った頭ではそれ以上考えられなかった。
奥の部屋へ通された。
そこは寝室だった。
照明は落としてある。
ベッドが一つ。
壁には絵が掛かっている。
一誠はそこへ倒れ込むように横になった。
「靴下そのままでいい?」
「はい……」
「水、ここ置いとくから」
「すみません」
紗綾が薄い上掛けを掛けてくれた。
その瞬間。
寝具から、ほのかに紗綾の香りがした。
――所長のベッド?
そう思った。
思ったところまでしか覚えていない。
次に目を覚ました時。
最初に見えたのは、女の顔だった。
一誠はぼんやり目を開けた。
「……」
彩華が立っている。
怖い顔をして。
非常に怖い顔をして。
「起きた?」
「……彩華さん?」
「起きたなら帰るわよ」
「何でいるんですか」
彩華の眉間に皺が寄った。
「それ、こっちが聞きたいんだけど」
「え?」
「何で所長のベッドで寝てんのよ」
一誠は飛び起きようとした。
「痛っ」
頭がぐらりとした。
寝室の入口を見る。
そこに紗綾が立っていた。
困ったような、可笑しそうな顔をしている。
「ごめんね、彩華。呼び出しちゃって」
「いえ」
彩華は一誠の腕を掴んだ。
「ほら、立って」
「ちょっと」
「歩いて」
「自分で歩けますよ」
「歩けてないでしょう」
紗綾が笑った。
「無理させないでね」
「大丈夫です。所長、すいませんでした」
「いいのよ」
「ご迷惑かけて」
「迷惑なんて」
紗綾は一誠を見た。
「一誠君も、気をつけて帰ってね」
「はい……」
一誠は情けない気分で頭を下げた。
玄関を出る。
エレベーターの中でも、彩華は何も言わなかった。
駐車場へ出る。
車に乗る。
彩華が運転席。
一誠が助手席。
エンジンが掛かった。
まだ何も言わない。
一誠は恐る恐る口を開いた。
「怒ってます?」
「別に」
来た。
一番怖いやつだ。
「いや、怒ってるでしょう」
「怒ってない」
「顔が」
「何」
「怖いです」
彩華が睨んだ。
「誰のせいよ」
「飲みすぎただけですよ」
「所長の家で?」
「勧められたから」
「ベッドまで借りて?」
「酔ってたんだから仕方ないでしょう」
「ふうん」
一誠は窓の外を見た。
――何言っても駄目だな。
しばらくして彩華が言った。
「で」
「はい」
「何しに行ったの」
「何って、アトリエの参考ですよ」
「参考になった?」
一誠は少し考えた。
そして。
「なりました」
彩華が横目で見る。
「そう」
「前の案が駄目だった理由、分かった気がします」
「へえ」
「僕、敷地しか見てなかったんですよ」
彩華は黙って聞いている。
「斜面とか、景色とか、方位とか。そればっかり考えてた」
「うん」
「でも、そこに誰が住むかを考えてなかった」
彩華は前を向いたまま、わずかに頷いた。
「遅い」
「はい」
「だから施主に会えって言ったの」
「はい」
「小まめに見せろとも言った」
「はい」
「人の話聞かないから」
「はいはい」
「一回でいい」
「はい」
彩華はようやく少し笑った。
一誠も笑った。
車は夜の市街地を走っていく。
一誠は助手席の窓から、流れていく街灯を眺めていた。
頭はまだ重い。
それでも、頭の中には新しい建物が浮かび始めていた。
地面へ潜る家ではない。
斜面の上へ伸びる家。
大きな屋根。
空へ向かって開くリビング。
梅林へ張り出すテラス。
風が抜けるアトリエ。
そして、遠く関東平野まで視線が届く場所。
そこまで考えて。
一誠は、ふと思い出した。
「あ」
彩華が訊く。
「何?」
「ピアノ」
「は?」
「所長、弾いてくれるって言ってたんですよ」
「……」
「結局、聴けなかった」
彩華はしばらく黙った。
「一誠」
「はい」
「今それ言う?」
「え?」
彩華はアクセルを少し強く踏んだ。
「ちょ、速い速い」
「うるさい」
一誠は慌ててシートベルトを握った。
その夜。
彼の頭に残っていたのは、紗綾のベッドの香りでも、飲み過ぎたワインでもなかった。
窓いっぱいに広がっていた空だった。
そして――。
明るい場所に立ちながら、それでも六年前から、心のどこかに一人の男を住まわせ続けている女性の姿だった。
*スプルース : マツ科トウヒ属に属する針葉樹の総称で、和名では米唐檜と呼ばれます。北米やヨーロッパなどの寒冷地に広く分布しています.目と質感: 白〜淡い黄色で、まっすぐな木目が特徴です。軽量で柔らかく、加工がしやすい素材です。建築・建具: 障子、ドア、内装材、フローリング、羽目板など。楽器: 軽くて振動が伝わりやすいため、アコースティックギターやバイオリン(ストラディバリウスのトップ材)、ピアノの響板などに広く使われます。
ハンス・ウァーグナーのYチェア* : ハンス J. ウェグナー(Hans J. Wegner)がデザインし、カール・ハンセン&サン(Carl Hansen & Søn)が1950年から製造を続ける北欧家具の代表的な名作椅子「CH24(Yチェア)」。字型の背もたれ: アームと背もたれを一体にした曲木加工を支える、特徴的なY字のパーツが名前の由来です。ペーパーコードの座面: 職人が1脚あたり約1時間かけて手作業で編み上げており、使い込むほどに体に馴染みます。




