6. 住む人を読む
(5,600文字、約11分)
八月に入った。
うだるような暑さが続く中、愛田設計事務所に待ちに待った知らせが届いた。
隣町の図書館設計コンペの審査結果である。
結果発表の日。
午前十時を少し過ぎた頃、事務所の電話が鳴った。
片山千鶴が取ろうとしたが、その前に所長室から出てきた紗綾が受話器を取った。
「はい、愛田設計です」
スタッフの手が止まった。
皆、何となく察している。
紗綾の表情を、四人がそれとなく窺った。
「はい」
紗綾が頷く。
「はい……ありがとうございます」
その顔が少しずつ明るくなっていった。
彩華が椅子から半分腰を浮かせた。
一誠もモニターから顔を上げる。
吉田だけは腕を組み、黙って紗綾を見ていた。
「はい、分かりました。ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
受話器を置いた。
一瞬。
紗綾は何も言わなかった。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「取った」
彩華が立ち上がった。
「えっ!」
「一位」
次の瞬間。
歓声が上がった。
「やった!」
彩華が叫ぶ。
一誠も思わず椅子から立った。
「本当ですか!」
「本当」
紗綾が笑う。
「愛田設計が最優秀」
吉田が大きく息を吐いた。
「いやあ……よかった」
千鶴まで拍手している。
彩華はしばらく呆然としていたが、やがて両手で顔を覆った。
「ああ……良かったあ」
提出直前の三日間。
眠れなかった。
何度も案を捨てようと思った。
紗綾に屋根をひっくり返され、吉田に断面を直され、一誠には模型を作り直させた。
その全部が、ようやく報われた。
紗綾が言った。
「今日は勤務終了後、お祝いよ」
最後まで聞こえなかった。
再び上がった歓声に、その声がかき消されたからだ。
その晩の打ち上げは、少々大変なことになった。
主役である彩華が、最初から飛ばした。
ビール。
ワイン。
日本酒。
普段なら酒量を考える人間なのだが、今日は違った。
「私の建物が建つのよ!」
三軒目で、すでに何度目か分からない台詞を繰り返した。
「まだ実施設計ありますよ」
一誠が言う。
「分かってるわよ!」
「監理も」
「分かってる!」
「じゃあ飲み過ぎない方が」
「うるさい!」
その一時間後。
彩華はテーブルに突っ伏していた。
紗綾が困った顔で一誠を見る。
「一誠君」
嫌な予感がした。
「はい」
「彩華、送ってあげて」
「僕ですか」
「家知ってるでしょ?」
一誠は一瞬返事に詰まった。
吉田が横で妙な顔をした。
紗綾は何も気づかず続ける。
「タクシー呼ぶから」
「……分かりました」
結局、一誠が彩華をマンションまで送り届けた。
タクシーの中で、彩華は一誠の肩にもたれながら、
「模型、良かったよ」
と呟いた。
「今日、もう三回聞きました」
「じゃあ四回目」
「はいはい」
「ありがと」
それだけ言うと、また眠った。
翌朝。
彩華は出勤してきた。
顔色は、明らかに悪かった。
「大丈夫ですか」
一誠が聞く。
「大丈夫」
「顔、青いですよ」
「大丈夫」
そう言った十分後、化粧室へ消えた。
午前中だけで三回。
千鶴が呆れて言った。
「休めばいいのに」
「本人が来るって言うんだから仕方ないよ」
吉田は苦笑した。
そんな彩華を横目に、一誠は自分の仕事を進めていた。
梅林のアトリエ。
今描いているのは断面だった。
南へ下る斜面に沿って、建物を段状に配置する。
北側は地面へ食い込ませる。
アトリエ部分は半地下。
その上に住宅。
屋根も斜面と同じ方向へ流す。
建物全体が丘の一部になるような構成だった。
自分では悪くないと思っている。
むしろ、かなり気に入っていた。
その時。
一誠の後ろを通りかかった紗綾が、ふと足を止めた。
「一誠君」
「はい?」
「それ、梅林?」
「そうです」
「見せて」
一誠は少し緊張した。
彩華から何度も言われていた。
所長には早く見せろ。
方向性だけでも確認してもらえ。
ところが結局、まとまった形で見せるのは今日が初めてになった。
「断面なんですけど」
「うん」
紗綾は一誠の隣に立った。
「説明して」
一誠はトレーシングペーパーを指した。
「まず、敷地の傾斜をそのまま建築に取り込みたいと思ってます」
「うん」
「北側を少し埋めて、南へ向かって段状に下げます」
鉛筆でなぞる。
「ここがアトリエ」
「ここ?」
「はい。半地下になります」
紗綾の顔から、少し笑みが消えた。
一誠はまだ気づかない。
「その上が住宅で、リビングはこのレベルです。南側へ全面開口を取れば、梅林越しに田圃まで見えます」
「……」
「屋根も斜面と同じ勾配で流して――」
「一誠君」
話を遮られた。
「はい」
紗綾は断面図を見たまま言った。
「私、半地下の家には住みたくないわ」
一誠は言葉を失った。
「……え?」
「嫌」
あまりにもはっきりしていた。
「でも、ここ住宅部分は――」
「そこじゃなくて」
紗綾が図面を指す。
「家全体が地面に押し込まれてる感じがする」
「敷地と一体化させようと思って」
「それは分かる」
「じゃあ……」
「でも、私はこういう家に住みたいとは思わないな」
その言葉は一誠に効いた。
建築として悪い、と言われるより効いた。
自信のあった案だったからだ。
「これじゃ、駄目ですか」
一誠の声が少し弱くなる。
紗綾は即答した。
「駄目」
吉田のマウスを動かす手が、ほんの一瞬止まった。
彩華もモニターを見ながら、耳だけはこちらへ向けていた。
紗綾は続ける。
「もっと明るい家にして」
「明るい?」
「そう」
「南は全部開けてますよ」
「そういう意味だけじゃないの」
一誠は黙る。
「朝起きて、カーテン開けたら空が見えるとか」
紗綾は図面ではなく、まるで実際の家を思い浮かべるように話し始めた。
「テラスに出たら梅林が見えて、その向こうに田圃が見えて」
「……」
「友達が来たら、外でお茶できて」
「はい」
「窓開けたら風が抜けて」
「はい」
「そういう家がいい」
紗綾は一誠を見た。
「地面の中に籠もるような家じゃなくて」
一誠は何も言えなかった。
「チーフ」
紗綾が呼んだ。
「はい」
「少しこの案、見てあげて」
吉田が立ち上がった。
「分かりました」
「一誠君」
「はい」
「格好いい建築を作ろうとしなくていいからね」
その言葉を残して、紗綾は所長室へ戻っていった。
しばらく誰も喋らなかった。
一誠は図面を見つめている。
やがて吉田が隣へ来た。
「見せて」
彩華も立ち上がった。
三人で断面を覗き込む。
吉田は一分ほど黙っていた。
そして言った。
「ああ」
「……」
「アイデアはいい」
一誠が顔を上げる。
「本当ですか」
「建築としてはね」
「じゃあ――」
「でも」
吉田が笑った。
「所長好みじゃないな」
一誠の肩が落ちた。
彩華は黙っていた。
ただ心の中では、
――だから言ったのに。
と思っていた。
何度言ったことか。
早く見せろ。
小まめに確認しろ。
一誠はそれを聞かなかった。
吉田がトレペを一枚取った。
「一回、原点に戻ろうか」
「全部ですか」
「全部捨てなくていいよ」
鉛筆で線を引く。
「この斜面に沿わせる考え方は悪くない」
「はい」
「ただ、建物を地面に潜らせるんじゃなくて、逆に持ち上げる方法もある」
「持ち上げる?」
「所長が言ってるのは、眺望だから」
「……」
「ここ」
吉田が南側を指した。
「テラスを張り出して、リビングを一番いい高さに置く」
一誠は黙って図面を見た。
「まあ、別案考えてみよう」
「はい」
「設計なんて、そんなもんだ」
吉田は一誠の肩を軽く叩いた。
彩華だけは何も言わなかった。
言えば、
「あれほど言ったでしょう」
になる。
今それを言うのは、少し可哀想だと思った。
三十分ほどして。
吉田は所長室へ入った。
「所長」
「何?」
紗綾はパソコンから顔を上げた。
「梅林の件ですけど」
「うん」
「一回、ちゃんと要望まとめて、一誠に渡した方がいいですよ」
紗綾が意外そうな顔をした。
「そんなことするの?」
吉田は思わず笑った。
「しますよ」
「だって、何回も話してるわよ」
「それと設計条件は別です」
「そう?」
「そうです」
吉田は椅子に座った。
「一誠は所長の好みを知りません」
「毎日一緒にいるじゃない」
「毎日一緒に働いてるだけです」
「でも、学生の頃からここに来てるのよ」
「四、五年知ってたって」
吉田は苦笑した。
「所長がどんな家に住みたいかなんて、分かりませんよ」
紗綾は少し不満そうだった。
「そんなものかしら」
「そんなものです」
「優弥なら分かったのに」
紗綾が何気なく言った。
吉田は一瞬黙った。
「そりゃ、夫婦でしたから」
「……」
「一誠にそこまで求めちゃ駄目ですよ」
紗綾は少し考えた。
「じゃあ、何を書けばいいの?」
「そこからですか」
「だって施主になったことないもの」
「所長」
「何よ」
「建築家って、施主要望を聞く仕事でしょう」
「人のはね」
「自分のも同じです」
紗綾は椅子にもたれた。
「面倒ねえ」
「面倒なんです」
吉田は笑った。
「だから週末にでも、一誠とちゃんと話してください」
「はいはい、分かったわよ」
返事はいかにも不満そうだった。
吉田は所長室を出ながら、心の中で苦笑した。
――お嬢様気分は、相変わらずだな。
紗綾とは長い付き合いだった。
大学では優弥の一学年下。
優弥が独立すると聞いた時、最初に声を掛けられたのが吉田だった。
そしてある日、
「今度結婚する」
と言って紹介されたのが紗綾だった。
まだ二十代前半。
明るく。
人懐こく。
少し我儘で。
そして、自分が大事にされることを疑ったことがないような女性だった。
六年。
夫を亡くし。
事務所を背負い。
従業員を抱え。
経営者になった。
ずいぶん変わった。
強くもなった。
それでも時々、昔の紗綾が顔を出す。
吉田にとっては、それもまた紗綾だった。
週末の金曜日。
夕方。
一誠は所長室に呼ばれた。
「一誠君」
「はい」
「明日、予定ある?」
一誠は一瞬警戒した。
「えっ」
「何?」
「休日出勤ですか?」
紗綾が呆れた顔をする。
「バカね」
「違うんですか」
「明日、私のマンションに来られる?」
一誠は固まった。
「……マンション?」
「そう」
「所長の?」
「私のマンション以外、誰のマンションよ」
「いや、そうですけど」
紗綾は笑った。
「お昼、作るから」
「え?」
「私の手料理、ご馳走してあげる」
一誠の頭の中に、いろいろな疑問符が浮かんだ。
「どうしてですか」
「どうしてって」
紗綾は少し考えた。
「私の暮らしを見てもらった方が早いかなと思って」
「暮らし?」
「そう」
「……」
「どんなものが好きで、どんな家具使って、どういう生活してるか」
そこでようやく、一誠にも話が見えた。
「ああ。設計のためですか」
紗綾が笑った。
「当たり前でしょう」
「ですよね」
「何だと思ったの?」
「いや、別に」
「変なの」
一誠は少し顔が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、十一時に来てね」
「分かりました」
「お腹空かせてきて」
「はい」
「待ってるから」
所長室を出た後も、その最後の一言だけが妙に耳に残った。
その晩。
一誠は彩華に電話した。
普段なら、わざわざ報告するようなことでもない。
ただ、前回の蕎麦屋の件を考えると、黙っていた方が後で面倒なことになる気がした。
「明日、所長んち行くことになりました」
電話の向こうが静かになった。
「……何で?」
「アトリエの件」
「マンションに?」
「はい」
「二人で?」
「そりゃ、そうでしょう」
また沈黙した。
「手料理作ってくれるそうです」
「……」
「彩華さん?」
「聞いてる」
「何なんですか」
「別に」
一誠は苦笑した。
「それ、僕が言うと怒るやつですよね」
「うるさい」
少し間があった。
彩華が言った。
「単に食事しに来いって話じゃないと思うよ」
「そうですか?」
「自分の暮らし方を見せたいんでしょう」
「そう言ってました」
「じゃあ、それでいいじゃない」
「でも、それならどこかの店でも――」
「家じゃなきゃ分からないことあるでしょ」
「まあ」
彩華は、自分に言い聞かせるように続けた。
「別に変な話じゃないよ」
「変な話って?」
「一誠を誘惑するとか」
彩華が笑った。
「あはは」
一誠も笑った。
「あはは」
だが。
彩華の笑い声は、自分でも分かるほど少し引きつっていた。
電話を切った後も、何となく胸の奥がざわついている。
紗綾はそんな人ではない。
分かっている。
一誠だって、仕事で行くだけだ。
それも分かっている。
なのに。
自宅へ男を呼ぶ。
料理を作る。
二人だけで過ごす。
その言葉を並べると、どうにも落ち着かなかった。
彩華はソファに寝転がった。
「……何なのかな」
自分でも分からなかった。
翌日。
午前十時五十分。
一誠は紗綾のマンションの前に立っていた。
普段の現場へ行く時とは違う格好をしている。
白いシャツ。
濃紺のパンツ。
手には、小さな花束。
途中で花屋を見つけ、
手料理をご馳走になるのだから、何か持って行った方がいいだろう。
そう考えて買った。
それだけである。
それだけなのに。
エレベーターで上がってくる間、妙に緊張した。
玄関前に立つ。
時計を見る。
約束の十分前。
一誠は一度、花束を見た。
――これ、逆に変じゃないか?
今さら思った。
しかし、もう遅い。
意を決してインターフォンを押した。
ピンポーン。
数秒。
スピーカーから紗綾の声がした。
「はい」
「あ、上原です」
「あ、一誠君?」
声が弾んだ。
「ちょっと待ってね」
ロックが外れる音がした。
一誠はドアの前に立つ。
やがて玄関扉が開いた。
「いらっしゃい」
普段、事務所で見る紗綾とは少し違っていた。
髪を後ろで緩くまとめ。
薄い色のブラウスに、長いスカート。
化粧も控えめだった。
一誠は一瞬、言葉を忘れた。
紗綾が手元を見る。
「それ、何?」
「あ」
一誠は慌てて花束を差し出した。
「これ……どうぞ」
紗綾が目を丸くした。
そして。
ふっと笑った。
「何よ、それ」
「いや、手ぶらもどうかと思って」
「お客さんみたい」
「客でしょう、一応」
「設計者でしょう」
そう言いながら、紗綾は花束を受け取った。
「でも、ありがとう」
一誠は靴を脱いだ。
玄関の向こうから、料理の匂いがした。
「入って」
紗綾が先に歩いていく。
その後ろ姿を見ながら、一誠は思った。
今日、自分がここへ来たのは。
アトリエを設計するためだ。
敷地を見るだけでは足りなかった。
今度は、そこに住む人間を知らなければならない。
そのはずだった。
けれど――。
玄関の扉が閉まった瞬間。
一誠は、自分がほんの少しだけ別の場所へ踏み込んだような気がした。




