5. 驟雨の中
(4,600文字、約9分)
彩華の図書館コンペ案は、結局、最後にはスタッフ総掛かりになった。
提出期限の一時間前。
彩華と吉田が最終チェックを終え、必要書類と模型を車に積み込み、市役所へ直接持参した。
模型を担当したのは一誠だった。
大学時代から模型作りは得意だったが、今回は自分でもかなり上手くできたと思っていた。
彩華も珍しく素直に褒めた。
「これ、いいじゃん」
吉田も模型を真横から覗き込みながら、
「写真映えするな。プレゼンには効くよ」
と言った。
外観表現はパースだけでなく、模型写真、あるいは模型そのものの提出も認められていた。
そのため彩華は、完成した模型をそのまま市役所へ持っていった。
戻ってきてから、
「結構、受け良かったよ」
と上機嫌だった。
「受付の担当だけじゃなくて、奥から何人か出てきた」
「役所の人ですか」
「そう。みんな模型覗いてた」
「それ、期待していいってことですかね」
「そこまでは知らない」
そう言いながらも、彩華は嬉しそうだった。
ただし、その代償は大きかった。
最後の三日間は、ほぼ徹夜だった。
正確には、一度帰ってシャワーだけ浴びて戻った者もいるので完全な三徹ではなかったが、気分としては徹夜三連荘である。
かつて紗綾が宣言した「勤務時間改善」は、一体どこへ行ったのか。
提出翌日の朝。
死人のような顔で机に突っ伏しているスタッフを見回した紗綾は、さすがに何も言えなくなった。
そして、
「今日から三日間、出勤自由」
と宣言した。
それを聞いた一誠は、そのまま帰った。
暦はすでに七月に入っていた。
三日目の朝。
一誠は自宅で、何をするでもなくぼんやりしていた。
疲れは取れているはずなのに、何もする気にならない。
ソファに寝転がり、スマートフォンを眺めていると、LINEが入った。
彩華だった。
《何してんの》
一誠は返した。
《別に》
すぐ返信が来る。
《だったら、学園西のコナズでお茶しない》
《行く》
話は、それだけで決まった。
久しぶりのデートだった。
少なくとも一誠は、そう思っていた。
会う前、一つだけ決めていたことがある。
今日は事務所の話はしない。
コンペも終わった。
アトリエの話もしない。
久しぶりなのだから、仕事を忘れて普通に過ごしたい。
ところが。
会って十分もしないうちに、彩華が言った。
「梅林、どうなってるの?」
一誠は攻略し始めたストロベリー&バナナホイップパンケーキンの山陰から彩華の顔を見た。
「……何がですか」
「アトリエ」
「エスキースしてますよ」
「どこまで?」
「まだ全体の形を考えてるところです」
「所長には見せた?」
「まだですけど」
彩華が眉を寄せた。
「見せた方がいいよ」
「まだエスキースですよ」
「だからよ」
「もう少し固まってからでいいかなって」
「駄目」
即答だった。
「ある程度進んでから見せて、根本からひっくり返されることあるから」
「……」
「施主には小まめに見せた方がいい」
「分かりました」
返事はした。
しかし内心、一誠は少々うんざりした。
また始まった。
事務所では先輩。
二人きりになっても先輩。
建築の話になると、どうしても彩華は経験談や蘊蓄を語り始める。
だから今日は仕事の話をしたくなかったのだ。
ただ、困るのは――。
その助言が、大抵正しい。
そこが一番腹立たしい。
彩華のマンションへ移った後は、二人で酒を飲んだ。
その夜、一誠が自宅へ戻ったのは、もう明け方近くだった。
結局ほとんど寝ないまま、出勤し午前中から机に向かった。
アトリエのエスキースを続ける。
現地調査で撮った三百六十度のパノラマ写真は、自席前の壁いっぱいに貼ってあった。
仕事に行くたび。
電話をしながら。
コーヒーを飲みながら。
暇さえあれば、それを見る。
梅林の景色を頭の中へ染み込ませるためだった。
現地へのアプローチは、フルーツラインから市道へ入り、Y字路を折れる。
そこから緩い上り坂を進むと、右手に梅林が現れる。
敷地は南斜面。
日当たりは申し分ない。
眺望もいい。
しかし一誠を悩ませていたのは、進入方向だった。
アプローチも南側。
つまり、一番眺めのいい方向と来客の進入方向が重なる。
前庭と駐車場をうまく分離しなければ、せっかくの景観が車で埋まってしまう。
事務所スタッフ。
来客。
打ち合わせ。
将来の増員。
最低でも十数台程度の駐車スペースが欲しい。
しかも将来の増築予定スペースも入れておくように、吉田に言われた。
さらに敷地入口近くの車庫は、紗綾から、
「ガレージは三台分ね」
と言われていた。
「三台?」
「うん」
「所長一人ですよね」
「私一人だけど」
「……」
「あと物置も欲しい」
「どのくらいです?」
「タイヤとか、キャンプ道具とか、庭仕事の道具とか」
一誠はメモした。
打ち合わせをするたびに、要求事項が一つずつ増えていく。
暖炉。
食品庫。
大型収納。
客室が2つ。
南面は全面にテラス。
事務所側にも模型室、資料室、サンプル庫。
――増えてる。
確実に増えてる。
しかし施主はボスである。
「それ、要りません」
とは言えない。
一誠は黙ってメモを取った。
やがて平面から断面へ検討が進むと、今度は敷地の高低差をより正確に把握する必要が出てきた。
既存資料だけでは足りない。
そこで再度、梅林へ測量へ行くことになった。
今度の同行者は彩華だった。
七月最後の金曜日。
午後。
長引いた梅雨が明けそうで明けきらない、不安定な天気だった。
事務所を出て車に乗ると、彩華が聞いた。
「一誠、
レベル使ったことある?」
「ありませんよ」
「大学でやらなかった?」
「芸術学群ですよ」
「……」
「彩華さんだって、大学じゃやってないでしょう」
彩華が少し考えた。
「あ」
「ほら」
「そうだった」
「忘れてたんですか」
「私も事務所入ってから覚えたんだった」
「今日は教えてくださいね」
「了解」
彩華は助手席で資料をめくった。
「じゃあ一誠、スタッフ持ちね」
「スタッフ?」
「……そこから?」
「スタッフって誰ですか」
「人じゃない」
「じゃあ何です?」
「目盛りの入った棒」
「ああ、あれ」
「標尺」
「最初から標尺って言ってくださいよ」
「現場じゃスタッフって言うの」
「へえ」
「本当に何にも知らないね」
「新人ですから」
「威張るな」
そんなやり取りをしながら、三十分ほどで現地へ着いた。
朝から空は曇っている。
いつ降り出してもおかしくない。
「降る前に終わらせよう」
彩華が言った。
車から機材を降ろす。
三脚。
オートレベル。
スタッフ。
野帳。
彩華は手慣れた様子で三脚を開いた。
「ここ、脚押さえて」
「はい」
「もうちょっと」
「こう?」
「そう」
一誠が見ている前で、彩華はレベルを据え付ける。
整準し、望遠鏡を覗く。
「じゃあ、あそこ立って」
「はい」
一誠がスタッフを持って移動する。
「もっと右」
「ここ?」
「行き過ぎ」
「こっち?」
「そこ」
「真っ直ぐ?」
「前に倒れてる」
「こうですか」
「今度は後ろ」
「難しいな、これ」
「真っ直ぐ立つだけでしょう」
「自分でやってみてくださいよ」
「私は見る人」
「ずるい」
現場に出ても、結局こうなる。
彩華が指示を出し。
一誠が従う。
考えてみれば、プライベートでも似たようなものだった。
最初のうちは不慣れな一誠のせいで、作業はなかなか進まなかった。
しかし一時間もすると要領が分かってきた。
彩華が数字を読み、一誠がポイントを移動する。
北側へ。
東側へ。
既存梅の根元へ。
道路境界へ。
残るのは敷地北側の、標高が高い部分だけになった。
その時だった。
「一誠」
彩華が望遠鏡から顔を上げた。
「はい?」
「山、見て」
筑波山の方向。
黒い雲が湧いていた。
しかも、こちらへ動いている。
「まずいですね」
「あと三点」
「急ぎます」
一誠がスタッフを持って走った。
一カ所。
二カ所。
そして最後のポイントへ向かったところで――。
ぽつ。
一誠の腕に、大粒の水滴が落ちた。
もう一粒。
次の瞬間。
ざあっ、と音がした。
「来た!」
彩華が叫んだ。
夕立というより驟雨だった。
大粒の雨が一気に梅林を覆う。
「レベル!」
二人で慌ててレベルを畳む。
図面を抱える。
スタッフを持つ。
車までの数十メートルを走っただけで、二人ともびしょ濡れになった。
ドアを閉める。
屋根を激しく叩く雨音が、車内を包んだ。
「とうとう降りましたね」
一誠が息を整えながら言った。
彩華は濡れた前髪をかき上げた。
「しばらくすれば止むと思うけど」
フロントガラスの向こうは、すでに白く霞んでいる。
ワイパーを動かしても景色がほとんど見えない。
「タオルあったかな」
彩華が濡れたジャンパーを脱いで後部座席へ身を乗り出した。
「バッグの中……」
ごそごそと探す。
一誠は何気なく、その姿を見た。
彩華の白いシャツも雨に濡れていた。
濡れた布地が身体に張り付き、下着の輪郭が透けて見える。
一誠の視線が、そこで止まった。
ほんの数秒。
「あった」
彩華が振り返った。
「タオル使う?」
返事がない。
そして。
一誠がどこを見ているのか、気づいた。
「……一誠」
「はい」
「何処見てんのよ」
低い声だった。
一誠は我に返った。
「あっ、いや」
「いや?」
「その……」
「全く」
彩華は自分のシャツを見下ろした。
そして一誠を睨む。
一誠は目を逸らした。
数秒後。
彩華が吹き出した。
「油断も隙もないんだから」
「すみません」
「謝るくらいなら見るな」
「不可抗力です」
「何が不可抗力よ」
「視界に入っただけで」
「ずっと見てたじゃない」
「……」
「図星か」
バツが悪い。
一誠は強引に話題を変えた。
「そういえば」
「何」
「アトリエ案なんですけど」
彩華が呆れた顔をした。
「話ずらしたな」
「いや、ちょうど聞こうと思ってたんですよ」
「嘘つけ」
「斜面と同じ角度で片流れ屋根を掛けたらどうかなって」
一誠はフロントガラスの向こうを指した。
雨で見えないが、その先には南へ下る斜面がある。
「屋根自体を斜面の延長みたいにして」
「ふうん」
彩華の顔が設計者のそれに戻った。
「建物を斜面と同化させる感じ?」
「そうです」
「事務所側を半地下にするとか?」
「いや、完全な半地下じゃなくて、北側を地面に食い込ませて、南へ開く」
「悪くないんじゃない」
「でしょう」
「で」
彩華はタオルで髪を拭きながら聞いた。
「所長には見せた?」
「まだです」
「また?」
「もう少しまとめてから」
「一誠」
「はい」
「早く見せなさい」
「でも――」
「施主は所長なの」
「分かってます」
「分かってない」
彩華は言った。
「自分でいいと思って進めても、所長が違うって言ったら全部やり直しなんだから」
「……」
「スケッチ程度でいいのよ。方向性だけでも確認しておきなさい」
「はい」
「一週間掛けた案がお釈迦になるのと、一時間のスケッチがお釈迦になるのじゃ、全然違うんだから」
「はい」
一誠は素直に返事をした。
雨は相変わらず激しく降っている。
梅の葉が風に揺れ、その向こうで斜面全体が煙ったように霞んでいた。
一誠はフロントガラスを見ながら、頭の中でさっきの片流れ屋根を思い描いた。
南へ下がる大きな屋根。
その下に仕事場がある。
屋根の先には梅林。
さらにその向こうに、水田と集落。
――これならいける。
そんな確信が、一誠の中に生まれ始めていた。
だから。
彩華の言った、
「早く所長に見せなさい」
という言葉に、
「はい」
とは答えたものの。
その重要さを、一誠はまだ本当には理解していなかった。
そして数日後。
彼は、その意味を嫌というほど思い知ることになる。
・オートレベル: 内蔵された自動補正機構によって視準線を自動的に水平に保ち、高低差や水平度を正確に測定する測量機器
・スタッフ :土地の高低差などを測るときに使う目盛りのついた棒。




