4.懸念と疑惑は紙一重
(4,500文字、約9分)
登場人物
愛田 紗綾 32歳 急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった 明るい性格で、人が良い
上原 一誠 24歳 設計意匠スタッフ 新人 彩華と付き合うが秘密にしている
吉田 忠司 38歳 チーフ 事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹する
倖田 彩華 28歳 二番手デザイナー 何事も、物怖じしない
片山千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い
一誠が先週の金曜日、所長の紗綾と現地調査に出たきり、結局事務所へ戻ってこなかった。
そのことが、彩華はどうにも気に入らなかった。
週が明けた月曜日の朝。
一誠が給湯室でコーヒーを淹れていると、後ろから彩華が入ってきた。
「ちょっと」
声を聞いただけで、機嫌がよろしくないことは分かった。
一誠は振り返った。
「何ですか」
「金曜日」
「金曜日?」
「夕方、事務所に戻らなかったわよね」
「ああ」
「何処行ってたの」
一誠は自前の神戸・芦屋 ヨドコウ迎賓館のアウトラインが描かれたマグカップにコーヒーを注ぎながら答えた。卒業旅行で神戸に行った時、芦屋のヨドコウ迎賓館でのお土産だ、彼もライト信者なのだ…。
「別に……」
その瞬間、彩華の眉が上がった。
「別に?」
「はい」
「何よ、それ」
「何って」
「私には言えないわけ? 何処へ行ってたか」
ようやく一誠は、何を問題にされているのか察した。
「現調の帰りに、所長が蕎麦食べて帰ろうって言うから」
「……」
「柿岡の『めぐみ』に行きましたよ」
彩華の顔がわずかに固まった。
「二人で?」
「現調二人で行ったんだから、二人ですよ」
「何時まで?」
「何時って……」
一誠は天井を見た。
「五時半くらいかな」
「ふうん」
「それが何か?」
その一言がまずかった。
彩華の表情が変わった。
「あ、そう」
「え?」
「そういう言い方するわけね」
「どういう言い方ですか」
「もういい」
「何なんですか」
「何でもない」
「いや、何でもなくないでしょう」
「何でもないって言ってるでしょ」
彩華はぷいと踵を返し、そのまま給湯室を出ていった。
一人取り残された一誠は、ヨドコウ迎賓館を持ったまましばらく立っていた。
――何だ、あれ。
自分は何か悪いことをしただろうか。
仕事で現調へ行った。
所長に蕎麦へ誘われた。
蕎麦を食べた。
帰った。
それだけである。
そもそも彩華自身、事務所では他人行儀にしろと言っているではないか。
だったら何処で誰と蕎麦を食べようが、関係ないだろう。
そう思ったところで、一誠は少し考え直した。
――いや。
関係ないと言ったら、もっと怒るだろうな。
女というものはよく分からない。
などと考えていることを彩華が知れば、それこそ本当に怒られるのだが、一誠はまだそれには気づいていなかった。
製図室へ戻ると、吉田と彩華が打ち合わせを始めていた。
彩華が担当している隣町の図書館設計コンペである。
締め切りまで、あと一ヶ月。
基本的なゾーニングは固まり、いよいよコンセプトと基本デザインを煮詰める段階に入っていた。
先ほど給湯室で妙に絡まれたのも、このコンペのプレッシャーのせいかもしれない。
一誠は、そう思うことにした。
彩華の机には、何枚もの平面図が広げられている。
その上から吉田が図面を覗き込んでいた。
「プランは、これでいいと思うよ」
吉田がプリントアウトされた一階平面図を指でなぞった。
「閲覧室と児童コーナーの関係も悪くない。バックヤードも収まってる」
「問題は外観なんですよね」
彩華が言った。
「そうだな」
吉田は別の紙を取った。
「今週中にエレベーションとセクションを決めたいな。来週からパースに入らないと間に合わなくなる」
「ですよね」
「でも、いいプランだと思うよ」
その時だった。
所長室から出てきた紗綾が、二人の横を通りかかった。
吉田が呼び止める。
「所長、ちょっといいですか」
「何?」
「彩華の図書館」
「ああ、見せて」
紗綾は二人の間へ入った。
図面を見下ろす。
いつもの柔らかい顔が、設計図を見る時だけ少し変わる。
紗綾は無言で平面図を追い、それから立面図へ視線を移した。
一分ほど、誰も喋らなかった。
やがて紗綾が言った。
「この屋根なんだけど」
「はい」
彩華が身構える。
「もっと下げられない?」
「下げる?」
「うん」
紗綾は鉛筆を取った。
「ここから、もっとこう……」
立面図の切妻屋根の下端を延ばすように線を引く。
「GL近くまで落としてしまうの」
吉田が図面を見る。
彩華も覗き込んだ。
「かなり低くなりますよ」
「だからいいの」
紗綾は別の線を描いた。
「屋根が建物に載ってるように見せたくないのよ」
「……」
「敷地から屋根が生えてくるようにしたい」
紗綾は外構図を重ねた。
「ほら、この敷地、緩く傾斜してるでしょう」
「はい」
「屋根の先端と、この斜面のラインを合わせてみたら?」
吉田が腕を組んだ。
「なるほど」
彩華はしばらく黙っていた。
確かに、今の案は悪くはない。
しかし建物の上に普通の切妻屋根を載せたようにも見える。
紗綾の言うように屋根を思い切って低く落とせば、建築全体が地面へ潜り込むような姿になる。
「断面、ちょっと貸して」
「はい」
紗綾がトレーシングペーパーを重ねる。
赤いサインペンで屋根を描く。
吉田が横から黒いペンを紗綾に渡す。
「ここ吹き抜けよね」
「はい」
「だったら、この辺まで落としても内法高さ取れるよね」
「でも児童コーナー側は?」
「そこは一段下げる?」
「いや、それやると屋根が複雑になる」
「だったら構造ごと――」
三人の会話が、次第に早くなっていく。
気がつけば、最初に彩華が描いた立面図などほとんど見えなくなり、トレーシングペーパーの上には赤や黒の線が何重にも重なっていた。
一誠は少し離れた自分の席から、その様子を眺めていた。
こういう光景は嫌いではない。
むしろ好きだった。
一人の頭の中にあったものが、別の人間の言葉によって変わり、さらに別の人間の線が加わって、最初にはなかった形になっていく。
大学の設計課題とは違う。
実務の設計というものは、こうやってできていくのだろう。
やがて。
♪ポーン――J^^w^a^v^eーー。
J-WAVEの正午を知らせる時報が流れた。
三人が同時に顔を上げた。
「十二時?」
紗綾が時計を見る。
「もう?」
「所長、一時間やってましたよ」
吉田が笑った。
「嘘」
「本当です」
彩華も椅子にもたれた。
「お腹空いた」
唐突に始まったエスキース検討会は、J-WAVEの正午の時報をゴングにして終了した。
「続き、午後ね」
そう言い残して紗綾は所長室へ戻った。
吉田も、
「飯行ってくる」
と席を離れた。
残った彩華は、机いっぱいに広がったトレーシングペーパーを眺めていた。
一誠がやってきた。
「すごいことになってますね」
「誰のせいよ」
「所長でしょ」
彩華はトレペを一枚持ち上げた。
その下には、紗綾が最後に描いた立面スケッチが残っていた。
一誠はそれをじっと見た。
大きな屋根。
低い軒。
建物は斜面に半ば埋まり、屋根だけが地面から持ち上がっているように見える。
「……」
「何?」
彩華が尋ねた。
「いや」
一誠は首を傾げた。
「何処かで見たことあるな、これ」
「また始まった」
「ちょっと待って」
一誠は図面に顔を近づけた。
そして数秒後、指を鳴らした。
「あ」
「何」
「分かった」
「何が?」
「ライトだ」
彩華が嫌そうな顔をした。
「またライト?」
「いや、絶対そうですよ」
一誠は紗綾の線を指した。
「後期の住宅に、こんなのあったでしょう」
「どれよ」
「オースティン邸」[ 注 ]
彩華が考える。
「オースティン……」
「サウスカロライナの」
「ああ」
「確か名前が付いてた」
一誠は記憶をたどった。
「Broad Margin」
彩華が顔を上げた。
「あった」
「でしょう」
二人でもう一度スケッチを見る。
低く地面を覆う巨大な屋根。
建物を斜面の中へ溶け込ませるような構成。
その印象は、確かにライト晩年のユーソニアン住宅《Broad Margin》を思わせた。
「結局これじゃないですか」
一誠が笑う。
「何が」
「この事務所、ライトから逃げられないんですよ」
彩華も笑った。
「それは先代からでしょう」
「所長も十分感染してますよ」
「感染って言うな」
「倖田さんも」
「私は違う」
「本当に?」
「私はもっと現代的」
「でもこの前の住宅、軒先が1,800出てましたよね」
「環境的配慮です」
「水平ライン強調してましたよね」
「必要だったからです」
「言い訳が完全にライト信者じゃないですか」
彩華が赤いペンを一誠へ投げた。
「うるさい」
一誠が笑いながら受け取った。
彩華も、つられて笑った。
そして一誠を見つめた。
さっきまで腹を立てていたはずなのに。
こうして建築の話をしている時の一誠は、昔から嫌いではなかった。
学生の頃からそうだった。
建築のことになると、妙なところまでよく知っている。
人の話も聞かず夢中で喋る。
時々、腹が立つほど楽しそうに。
それが面白かった。
だから――。
金曜日のことなど、どうでもいい。
仕事で所長と現調へ行っただけだ。
蕎麦を食べただけ。
そんなことに腹を立てる理由などない。
彩華は自分にそう言い聞かせた。
その時。
所長室の扉が開いた。
紗綾が顔を出した。
「一誠君」
「はい?」
「梅林の件なんだけど」
「はい」
「午後、ちょっと時間ある?」
「あります」
「金曜日の写真、一緒に整理したいの」
「分かりました」
「じゃあ一時半ね」
「はい」
紗綾はまた所長室へ戻った。
彩華は黙っていた。
一誠が赤いペンを机へ置く。
「じゃ、僕も飯行ってきます」
「……」
「倖田さん?」
「何」
「いや……」
また声が低くなっている。
「何でもない」
彩華は図面を片付け始めた。
一誠は首を傾げながら自分の席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、彩華は小さく息を吐いた。
自分でも分かっている。
これは仕事だ。
紗綾は所長で、一誠は担当者。
二人で打ち合わせをするのは当たり前だ。
それを気にする方がおかしい。
――私は、仕事のことを心配しているだけ。
新人にいきなり自邸まで任せて大丈夫なのか。
所長は一誠を少し買いかぶっているのではないか。
担当者と施主が近くなりすぎれば、設計の客観性を失うこともある。
そう。
これは先輩としての懸念だ。
彩華はそう結論づけた。
ところが心の隅で、もう一人の自分が訊いた。
――本当に?
彩華は赤いペンのキャップを、少し強く閉めた。
懸念と疑惑。
その境目は、案外薄い。
ましてやそこに嫉妬という感情が混ざれば、本人にさえ区別がつかなくなる。
彩華はまだ、そのことを認める気はなかった。
[ 注 ] 《Broad Margin》はフランク・ロイド・ライトがガブリエルとチャールシー(Charlcey)・オースティン姉妹のため1951年に設計、1954年に完成したサウスカロライナ州グリーンビルの住宅で、ユーソニアン住宅の一つです。斜面と建物を一体化させる性格、大きな屋根、自然素材の扱いという今回の図書館案との連想は十分成立します。名称もソロー『ウォールデン』の “I love a broad margin to my life.” に由来します。(国立公文書館)
タナカ ノナカさんのnote記事を参考にさせて頂きました。ありがとうございます。
エレベーションとセクション: 立面図と断面図




