3. 梅林でデート?
登場人物
愛田 紗綾 32歳 急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった 明るい性格で、人が良い
上原 一誠 24歳 設計意匠スタッフ 新人 彩華と付き合うが秘密にしている
吉田 忠司 38歳 チーフ 事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹している
倖田 彩華 28歳 二番手デザイナー 何事も、物怖じしない
片山千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い
(約5,000文字 約10分)
ゴールデンウィークは、始まってみればあっという間に終わってしまった。
連休明けの月曜日。
愛田設計事務所には、朝からどんよりとした空気が漂っていた。
遊び疲れなのか、休み明けの現実に身体がついていかないのか、スタッフたちは皆、いつもより口数が少ない。
彩華などは出社するなり、大きな欠伸をしてコーヒーを淹れ、
「一週間くらい休むと、仕事する気なくなるわね」
と堂々と言った。
千鶴がすぐに返す。
「一週間も休んでません」
「気分的には一週間よ」
「五日です」
「千鶴さん、そういう細かいところ嫌い」
「事務ですから」
そんな会話を聞きながら、一誠は自分の席で苦笑していた。
その日の午前十時。
いつもの定例ミーティングが始まった。
休み明けということもあり、案件ごとの進捗確認だけで会議は早々に終わった。
「じゃあ、今週もよろしく」
紗綾の一言で、皆が席を立つ。
一誠もノートを閉じてミーティングルームを出ようとしたところで、
「一誠君、ちょっと残って」
紗綾に呼び止められた。
隣には吉田も座ったままでいる。
一誠の身体が、一瞬固まった。
――まさか。
彩華とのことか。
頭の中にそれしか浮かばなかった。
吉田は以前から妙に勘が鋭い。
まして小さな事務所である。何年も隠し通せる方がおかしい。
もし聞かれたら、どうする。
否定するか。
いや、余計に怪しい。
彩華は絶対に認めるなと言うだろう。
しかし、もう二十四歳だ。
別に社内恋愛禁止でもない。
だったら、認めて居直るしかない。
一誠はそんなことを数秒のうちに考え、覚悟を決めて席に戻った。
「何でしょうか」
少し身構えて尋ねる。
紗綾は机の上の資料を閉じた。
「一誠君に、一つお願いしたい仕事があるの」
「仕事、ですか」
「そう」
一誠は密かに胸を撫で下ろした。
吉田が横でニヤニヤしているのが、どうにも気にはなったが。
紗綾が続けた。
「つくばの隣町の山腹にね、二千坪くらいの梅林があるの」
「梅林?」
「私の実家の土地なんだけど」
「はい」
「そこに、新しいアトリエを建てようと思ってるの」
一誠は間の抜けた顔になった。
「はぁ……」
何の話なのか、まだ頭が追いつかない。
「今の事務所をですか?」
「そう」
「全部?」
「全部」
紗綾は楽しそうに笑った。
吉田が横から補足した。
「ただの事務所じゃないぞ」
「え?」
「アトリエ兼住宅だ」
紗綾が頷いた。
「私の自宅を併設するの」
「あれ?」
一誠は思わず言った。
「所長、竹園にマンションありますよね」
「あるわよ」
「じゃあ……」
「マンションも引き払う」
さらりと言った。
「ここも引き払って、全部そっちへ移すの」
一誠は驚いた。
思っていたよりずっと大きな計画だった。
「そうなると僕たちも、そこへ通うってことですか?」
「そういうこと」
「遠くなりません?」
「少しね。でも朝日トンネルを通れば…」
紗綾は地図を広げた。
「ここからなら車で三十分くらい」
一誠は地図を覗き込んだ。
筑波山の東側の隣町。盆地で気候が温暖。
果樹栽培が盛んで皇室への献上柿は有名だと言う。
町を南北に走るフルーツラインから少し上った場所だった。
「それで」
紗綾が一誠を見る。
「この計画、一誠君に担当してもらいたいの」
一誠は顔を上げた。
「僕がですか?」
「うん」
入所したばかりの新人である。
補助ならともかく、一つの建物の設計を任されるとは思っていなかった。
しかも、自社のアトリエ。
その上、所長の自邸である。
「僕一人で?」
すると吉田が口を挟んだ。
「さすがに一人じゃ大変だろ。サポートに彩華を付けるか」
一誠は反射的に答えた。
「いや、大丈夫です」
少し強すぎる声になった。
吉田が眉を上げる。
「大丈夫か?」
「所長に相談しながら進めますから。倖田さんは大丈夫です」
「そうか?」
「はい」
妙にきっぱり言う一誠を見て、紗綾は小さく笑った。
吉田も、一誠が彩華を嫌っているとは思わなかった。
むしろ逆だろう。
ただ、彩華を補佐につければ、実質的には彩華が設計を仕切ることになる。
入所4年目の彼女は経験もあるし、何より押しが強い。
一誠としては、せっかく与えられた自分の仕事を、彩華の作品にされたくないのだろう。
吉田は、そう解釈した。
半分は正しかった。
ただ、残り半分については何も知らなかった。
愛田設計の住宅デザインには、はっきりした特徴がある。
深く張り出した軒。
水平線を強調した外観。
屋根を低く抑え、建物を大地へ這わせるような構成。
二十世紀を代表する建築家、フランク・ロイド・ライトのプレーリーハウスから強い影響を受けていることは、その道の人間ならすぐ分かる。
創業者の優弥がライトを好んでいた。
その影響は、現在の愛田設計にも色濃く残っている。
当然、一誠も今回のアトリエ兼住宅も、その延長になると思った。
「あの……」
「うん?」
「外観は、いつものプレーリーハウス系で考えていいんですか?」
紗綾はすぐには答えなかった。
少し考えてから言った。
「それも含めて、一誠君に任せる」
「僕に?」
「プレーリーでもいいし、全然違うスタイルでもいい」
「いいんですか?」
「いいわよ」
紗綾は微笑んだ。
「ただし、条件が一つ」
「はい」
「現地を見て決めて」
一誠は黙って聞いた。
「建築家が先に形を決めて、それを土地に置くんじゃなくて、土地を見て、風を感じて、景色を見てから考えてほしいの」
「……」
「そこに建つべき建物を考えて」
一誠は頷いた。
「分かりました」
「じゃあ、今週末に現調へ行きましょう」
「はい」
そうして迎えた金曜日。
午後から二人は事務所を出た。
紗綾の車で、筑波山を回り込み東方面へ向かった。
市街地を抜けると、景色は徐々に変わっていく。
住宅地が少なくなり、代わりに田圃や畑が広がり始めた。
田植えを終えたばかりの水田が、初夏の青空を反射して輝いている。
道路の両側には、新緑が眩しかった。
朝日トンネルを抜ける。
フルーツラインからさらに細い道へ入った。
「この辺なんですか?」
助手席の一誠が尋ねた。
「もう少し上」
紗綾が答える。
車一台がようやく通れるほどの道を上っていく。
やがて、視界が開けた。
山の斜面いっぱいに梅の木が並んでいる。
「すご……」
思わず、一誠は声を漏らした。
梅の花の季節は、すでに終わっていた。
枝には小さな青い実が付き始めている。
紗綾は梅林の中ほどまで車を進め、少し開けた場所に停めた。
「ここ」
二人は車から降りた。
春というより、もう初夏に近い風が吹いていた。
それでも山の中腹だけあって、谷から吹上げる風が涼しい。
紗綾が斜面を上っていく。
一誠も後を追った。
少し歩いたところで、紗綾が立ち止まった。
そこからは麓の集落が一望できた。
その向こうには田圃が広がっている。
水を張ったばかりの田圃が、太陽の光を受けて銀色に光っていた。
遠くに柿岡の街並みまで霞んで見える。
二人はしばらく何も言わなかった。
風が吹いた。
紗綾の長い髪が大きく揺れた。
一誠は少し後ろに立って、その後ろ姿を見ていた。
仕事で来ている。
そう分かっている。
目の前にいる女性は所長だ。
自分の上司であり、雇用主である。
それなのに――。
一誠は、しばらく視線を外せなかった。
「良いところですね……」
ようやく呟いた。
紗綾が振り返った。
「でしょう?」
風で乱れた髪を片手で押さえながら笑う。
「ここは代々、愛田家の梅林なの」
「代々って、どのくらいです?」
「江戸時代の初め頃かららしいわよ」
「江戸初期?」
一誠は驚いた。
「そんな歴史ある土地に建物なんて建てていいんですか」
紗綾は斜面の一角を指した。
「あそこ」
古い梅の木が何本か並んでいる。
よく見ると、枝が少なく、幹がかなり傷んでいた。
「この辺りは老木が増えてね。ここ数年で何本も枯れたの」
「植え替えないんですか?」
「実家ではそのつもりだったみたい。でも私が、この一角を使わせてほしいって頼んだの」
「土地は所長のものなんですか?」
「半分くらいはね」
紗綾は笑った。
「彼が跡取りだったから」
一誠は少し表情を変えた。
紗綾は遠くを見ながら続けた。
「本当なら彼がここを継ぐはずだったの」
「……」
「でも、大学を出て、つくばで設計事務所を始めちゃったでしょう」
一誠は黙って聞いていた。
亡くなった夫の話をするとき。
紗綾の表情は、いつも少しだけ変わる。
普段の明るさが消えるわけではない。
けれど、その向こうに薄い影が差す。
笑っているのに、どこか寂しそうに見える。
六年経っても。
この人の中には、まだ夫がいる。
一誠はそう思った。
「ここじゃ……」
彼は周囲を見渡した。
「RCとかS造は、ちょっと違いますね」
「そう思う?」
「生コンの搬入も大変そうですし。それ以前に、この風景にコンクリートの箱は置きたくないな」
紗綾の顔が明るくなった。
「うん」
「木造かな」
一誠は独り言のように言った。
「平屋か……斜面利用して一部二階か」
「好きに考えて」
「でも、アトリエと住宅でしょ」
「そう」
「スタッフ十人分のワークスペースと、打ち合わせ室と、模型室と……」
一誠は敷地を歩き始めた。
もう頭の中では設計が始まっている。
紗綾は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
「一誠君」
「はい?」
「肩の力抜いてね」
「え?」
「コンペじゃないんだから」
紗綾は笑った。
「一誠君の好きな建物を考えてみて」
そう言って、彼をまっすぐ見た。
一誠は一瞬、言葉を失った。
それから、慌てて視線を土地の方へ戻した。
――まずい。
この人は、こういうところがまずい。
本人には何の意図もない。
たぶん、全くない。
だから余計に困る。
そんなふうに笑われると、所長だということを忘れてしまいそうになる。
三十二歳。
八歳上。
亡くなった夫を今でも想っている未亡人。
しかも自分の雇用主。
条件だけ並べれば、これ以上踏み込んではいけない相手も珍しい。
一誠は心の中でブレーキを踏んだ。
それも、思い切り踏み込んだ。
「どうしたの?」
「いや、何でもないです」
「変なの」
紗綾は笑った。
二人はその後、一時間ほど敷地を歩いた。
方位。
高低差。
既存の梅の位置。
車の進入路。
冬の北風。
夏の日射。
どの方向へ視線を抜くか。
一誠は写真を撮り、簡単なスケッチを描いた。
「ここに事務所ですかね」
「どうして?」
「この方向に開けば、仕事しながら田圃が見える」
「仕事しなくなりそう」
「逆ですよ。気分転換になります」
「彩華なんて一日中外見てそう」
「倖田さんは見ませんよ」
「どうして?」
「仕事中、怖いくらい集中してますから」
紗綾が吹き出した。
「よく見てるね」
一誠は少し焦った。
「いや、同じ職場ですから」
「そう?」
「そうです」
紗綾は何も言わず笑っている。
一誠には、その笑顔の意味が少し気になった。
一通り現調を終えた頃には、午後四時を回っていた。
車へ戻りながら紗綾が言った。
「お腹空かない?」
「空きましたね」
「この近くに、美味しい蕎麦屋あるの」
「蕎麦ですか」
「嫌い?」
「好きです」
「じゃ、決まり」
一誠は少し戸惑った。
「事務所戻らなくていいんですか?」
紗綾は腕時計を見た。
「今から戻ったって五時過ぎよ」
「はい」
「今日は直帰」
「いいんですか?」
「働き方改革」
紗綾は笑った。
「所長命令です」
その言葉に一誠も笑った。
二人は車に乗った。
山道を下りながら、一誠は窓の外を見ていた。
仕事で現場を見に来た。
これから所長と蕎麦を食べて帰る。
それだけだ。
それだけなのだが――。
どうにも、そう思えない。
少なくとも、二十四歳の男にとっては。
梅畑を二人で歩き、景色を眺め、これから二人で食事をする。
これを世間では、何と呼ぶのだろう。
一誠がそんなことを考えている隣で、紗綾は何事もないようにハンドルを握っていた。
「ねえ、一誠君」
「はい?」
「いい建物、作ってね」
「……はい」
「私、楽しみにしてるから」
また、その笑顔だ。
一誠は窓の外へ顔を向けた。
心の中で、もう一度ブレーキを踏んだ。
しかし今度は、さっきより少しだけ――
効きが悪くなっていた。




