2. 働き方を変えたい
登場人物
愛田 紗綾 32歳 急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった 明るい性格で、人が良い
上原 一誠 24歳 設計意匠スタッフ 新人 彩華と付き合うが秘密にしている
吉田 忠司 38歳 チーフ 事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹している
倖田 彩華 28歳 二番手デザイナー 何事も、物怖じしない
片山千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い
(4,250文字 約8~9分)
明後日から、待ちに待ったゴールデンウィークに突入する。
愛田設計事務所にも、朝からどことなく浮ついた空気が漂っていた。
普段なら午後六時の終業時刻など、あってないようなものである。
事務担当の片山千鶴だけは、特別なことがなければ定時で帰る。しかし設計スタッフは違う。六時を過ぎても誰一人席を立たず、九時、十時までパソコンに向かい、CADの画面と格闘している。
それが、この事務所の日常だった。
ところが今日ばかりは違う。
十六時になったら帰る。
誰も口には出さないが、そんな暗黙の了解が事務所全体を包んでいた。
倖田彩華などは、午後になってから何度時計を見たか分からない。
新人の上原一誠も同じだった。
もっとも一誠の場合、ゴールデンウィークが楽しみというより、単純に仕事から解放されることが嬉しいらしい。
入所してまだ一月にもならないというのに、すでに建築設計事務所という職場が、大学時代の想像以上に体力を要求する場所だということを思い知らされていた。
そんな浮ついた製図室とは対照的に、所長室では先ほどから紗綾と吉田が話し込んでいた。
扉は閉まっている。
中の声までは聞こえない。
だが彩華には、何の話をしているのか、おおよその見当がついていた。
例の話だ。
勤務時間の改善。
働き方をどうにかしたいという、紗綾の持論だった。
愛田設計も、この業界の悪癖にはどっぷり浸かっている。
始業は朝九時。
終業は午後六時。
求人票にも就業規則にも、そう書いてある。
しかし、実際に午後六時で一日の仕事を終えられる設計者などいない。
図面の修正が入る。
施主からメールが来る。
施工会社から納まりの確認が来る。
確認申請の期限が迫る。
コンペがあれば、なおさらだ。
一つ片付ければ、別の仕事が増える。
結局、設計スタッフが席を立つのは、早くて午後九時。十時を過ぎることも珍しくない。
紗綾は、それを何とか変えたいと以前から言い続けていた。
理由は誰もが知っている。
六年前。
紗綾の夫であり、この愛田設計を創設した愛田優弥は、脳梗塞で突然亡くなった。
医師から告げられた原因の一つが、過労だった。
まだ若かった。
あまりにも突然だった。
昨日まで普通に仕事をしていた人間が、翌日にはもういない。
紗綾には、その現実を受け入れることができなかった。
葬儀が終わっても、それは変わらなかった。
一月ほど経ったある日。
紗綾は吉田を所長室に呼んだ。
当時はまだ、そこは優弥の部屋だった。
机の上には夫が使っていたペンがあり、壁には途中まで進めていた住宅の図面が貼られたままになっていた。
紗綾は椅子に座ったまま、長い間何も言わなかった。
やがて、小さな声で切り出した。
「チーフ……事務所、畳もうと思うの」
吉田は驚かなかった。
いつか、この言葉が出るだろうと思っていた。
だから、ほとんど間を置かずに答えた。
「それは、優弥が望むことじゃないと思います」
紗綾は黙った。
吉田は続けた。
「最近、自分はよく考えるんです」
「……何を?」
「こんな時、優弥ならどう考えるだろうって」
紗綾が顔を上げた。
「どう判断するだろう。どう動くだろう。そういうことを考えるんです」
「……」
「所長も、考えませんか」
「考えるわよ」
紗綾はかすかに笑った。
「毎日考えてる」
「だったら、答えは決まってます」
吉田は静かに言った。
「優弥が若い時から苦労して作った、この愛田設計を残すことです」
「……」
「紗綾さんが続けていくこと。それが、あいつの望んでいることじゃないですか」
紗綾は答えなかった。
しばらくして、小さく言った。
「私も、そう……」
そこで言葉が途切れた。
紗綾は窓の方を向いた。
吉田に見られたくなかったのだろう。
大きな瞳から、涙が溢れていた。
吉田も、それ以上何も言わなかった。
あれから六年。
紗綾は吉田や彩華たちと一緒に、必死になって事務所を守ってきた。
仕事は増えた。
顧客も増えた。
住宅だけでなく、大型DIY店舗や公共建築の設計も依頼されるようになった。
地域では、それなりに名前の通った設計事務所になった。
けれど、その一方で失ったものもある。
六年間で、三人のスタッフが辞めた。
皆、入所した頃は輝いていた。
建築が好きだった。
設計が好きだった。
自分が考えた空間が形になることを夢見ていた。
それが何年か経つと、次第に変わっていった。
朝から晩まで続く仕事。
終わらない図面。
休日に届くメール。
変更、修正、やり直し。
疲労という目に見えない錆が、少しずつ彼らの輝きを覆っていく。
そして、ある日辞表を出す。
そんな彼らの姿を見るたびに、紗綾は自分を責めた。
夫を奪ったものと同じ働き方を、今度は自分がスタッフにさせている。
何のために、この事務所を残したのだろう。
そう考えることさえあった。
だから、吉田には何度も言った。
「チーフ、何とかならないの?」
しかし吉田の答えは、いつも同じだった。
そして今日も、その話になった。
「所長」
吉田は腕を組んだ。
「そんなこと言いますけど、この人数で今ある仕事を全部やらなきゃならないんですよ」
「分かってるわよ」
「一人減ったらどうします?」
「だから、人も増やしたいと思って――」
「一誠が入ったばかりでしょう」
「そうだけど」
「新人一人増えたからって、明日から仕事量が一人分減るわけじゃありません」
「それも分かってる」
紗綾の声が少し強くなった。
「でも少なくとも、過労で誰かが倒れるような職場にはしたくないのよ」
吉田は黙った。
その言葉には弱い。
誰よりも優弥の働き方を近くで見ていたのは、吉田だったからだ。
「そんな方法があるなら、とっくにやってますよ」
「だったら、仕事を減らすしかないわね」
紗綾は机の上のメモを指で叩いた。
「一人が同時に持つ住宅は三軒まで」
「……」
「特建なら二棟まで」
吉田の眉が動いた。
「それ以上は受けないってことですか」
「基本的にはね」
「仕事を断る?」
「そう」
「所長」
吉田がため息をついた。
「簡単に言いますけど、仕事って一度断ったら、次にまた来るとは限らないんですよ」
「でも全部受けて、誰かが潰れたら意味ないでしょう」
「経営も潰れたら意味ありません」
その言葉に、紗綾は黙った。
吉田も黙った。
二人とも間違ってはいない。
だから、この話はいつも難しくなる。
しばらくして紗綾が言った。
「じゃあ、とりあえず案件ごとのスケジュールを全部出して」
「はい」
「誰が何を持ってるかも、一度整理しましょう」
「……分かりました」
「それ見てから考える」
「はい」
吉田は立ち上がった。
扉のところまで行った時、紗綾が呼び止めた。
「チーフ」
「はい?」
「私、本気だからね」
吉田は振り返った。
紗綾の表情は珍しく真剣だった。
「分かってますよ」
そう答えて所長室を出ると、時計は五時五十分を指していた。
製図室に戻った吉田を、彩華が横目で見た。
難しい顔をしている。
それだけで察したらしい。
「また、例の話ですか」
「ああ」
吉田は自分の席に座った。
「所長の持論を、また聞かされたよ」
彩華は苦笑した。
「そうですよね。残業なくせるなら、誰だってなくしたいですよね」
「まあな」
「できないから皆苦労してるのに」
そして、小声で付け加えた。
「相変わらず、お嬢様なんだから」
「こら」
吉田が即座に遮った。
「聞こえるぞ」
彩華は肩をすくめた。
「聞こえませんよ」
少し離れた席で図面を見ていた一誠が顔を上げた。
何の話だろう、という顔をしている。
吉田は時計を見た。
あと七分。
「一誠」
「はい」
「今日は定時で帰るぞ」
一誠の顔がぱっと明るくなった。
「あ、はい!」
彩華が笑った。
「嬉しそうねえ、新人」
「そりゃ嬉しいですよ」
「明日休みじゃないけど」
「でも明後日から連休じゃないですか」
「学生気分が抜けてないな」
そんな話をしているうちに、午後六時になった。
普段なら誰も気に留めない時刻なのに、今日は違う。
彩華が即座にパソコンを落とした。
一誠も慌ててファイルを保存する。
片山はすでにバッグを肩に掛けていた。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
次々と声が飛ぶ。
紗綾も所長室から出てきた。
「みんな、今日は早いねえ」
彩華が笑った。
「所長が残業減らせって言ってるんでしょう?」
「そうだけど」
「だから実践します」
「今日だけじゃ意味ないでしょ」
「まずは一日目からです」
彩華がそう言うと、一誠も横で笑った。
「じゃ、お先に失礼しまーす」
「失礼します」
二人が並んで事務所を出ていく。
紗綾はその後ろ姿を眺めていた。
彩華が何か言った。
一誠が笑う。
そしてエレベーターの前で、彩華が一誠の肩を軽く叩いた。
その様子を見ながら、紗綾が何気なく言った。
「仲いいわね、あの二人」
すると隣にいた吉田が、小さな声で言った。
「どうも、付き合ってるみたいですよ」
紗綾が振り向いた。
「えっ?」
「秘密ですけど」
「そうなの?」
「多分」
「いつから?」
「そこまでは知りませんよ」
吉田は苦笑した。
「彩華のことだから、事務所では絶対認めないでしょうけどね」
紗綾は閉まりかけるエレベーターの扉を見つめた。
小さな事務所だ。
社内恋愛禁止などという野暮な規則はない。
仕事に持ち込まなければ、誰と誰が付き合おうと構わない。
だから、それ自体に驚いたわけではない。
ただ――少し意外だった。
あの彩華が。
そして、あの一誠が。
「へえ……」
紗綾は思わず笑った。
若い二人が秘密を作り、誰にも知られないように振る舞いながら、それでも一緒に帰っていく。
そんな無鉄砲さが、少し羨ましかった。
自分にも、そういう時代があった。
夫と出会った頃。
何も怖くなかった頃。
これから先には、いくらでも時間があると思っていた頃。
紗綾は、誰もいなくなった製図室を見渡した。
机の上には図面が残り、モニターの電源ランプだけが静かに光っている。
六年前。
夫は、この部屋で毎晩遅くまで仕事をしていた。
そして自分は、それを止められなかった。
――今度こそ。
紗綾は思った。
同じことだけは、繰り返したくない。
しかし、そのために何を変えればいいのか。
その答えは、まだ見つかっていなかった。




