第1部 1 春の予感
第一部遺されたアトリエ亡き優弥の事務所を守る紗綾と、新人一誠の成長
「なんで、ここなのよ」
二人で会った夜、彩華は露骨に嫌そうな顔をした。
「教授に勧められたから」
「ほかにもあるでしょ、事務所なんて」
「ここが一番知ってるし」
「そういう問題じゃない」
「何が問題なんです?」
彩華はしばらく黙ってから言った。
「毎日顔合わせるんだよ」
一誠は笑った。
「別にいいじゃないですか」
「よくない」
「なんで?」
「面倒だから」
それ以上、彩華は言わなかった。
上原一誠が愛田設計事務所に入所したのは、四月の初めだった。
TX大学芸術学群デザインコースの修士課程を修了したばかりの、二十四歳。肩書だけを見れば、どこにでもいる建築設計事務所の新人である。
愛田設計を勧めたのは、大学院で一誠を指導していた教授だった。
「愛田のところなら、お前には合うと思うぞ」
教授はそう言った。
愛田設計事務所を創設した愛田雅彦は、その教授とは大学時代の同期だった。卒業後もしばらく付き合いが続き、雅彦が独立してからは、大学から学生をインターンとして紹介することもあった。
一誠も、その一人だった。
学部三年の夏休みに初めて事務所へ来て以来、春と夏の長期休暇になるとアルバイト同然にここへ通った。模型を作り、図面を直し、現場へ同行し、夜遅くまでコンペ案につきあった。
だから一誠にとって愛田設計は、初めて来る職場という感じがしなかった。
むしろ大学よりも馴染み深い場所になっていた。
事務所は大きくない。
所長を含めて五人。
所長の愛田紗綾、三十二歳。
チーフの吉田忠司、三十八歳。
デザインスタッフの倖田彩華、二十八歳。
事務担当の片山千鶴、三十七歳。
そして、この春から加わった一誠である。
愛田設計は、紗綾の夫、雅彦が二十六歳のときに立ち上げた事務所だった。
若くして独立した雅彦は、住宅を中心に少しずつ仕事を広げ、地域では名前を知られるようになっていった。
ところが六年前、突然、心筋梗塞で亡くなった。
まだ三十代だった。
あまりにも突然だったため、紗綾は一度、事務所を閉じることまで考えたという。
当時、紗綾自身も設計の仕事には携わっていたものの、夫の事務所を自分が背負うつもりなどなかった。
それを支えたのが、創業時から雅彦と仕事をしていた吉田だった。
「ここをなくすのは、あいつも望んでいないと思います」
吉田はそう言ったらしい。
それから六年。
紗綾が所長となり、吉田が番頭役として支え、愛田設計は生き残った。
それどころか、小規模ながら住宅や店舗、公共施設の改修まで手掛け、地域の設計事務所としてそれなりの評価を得るまでになっていた。
デザイン面で紗綾を支えているのが、入所六年目の倖田彩華である。
事務所の中では、紗綾に次ぐ二番手のデザイナーだった。
何事にも物怖じしない。
施主が相手でも、施工会社の所長が相手でも、間違っていると思えば平気で意見を言う。
そして――一誠にとっては、それだけではない女性だった。
一誠が愛田設計に就職したのには、教授の推薦だけではない理由がある。
その理由を、一誠自身もうまく説明できない。
紗綾が美人だったから。
彩華が美人だったから。
冗談めかして言えば、そういうことになる。
初めてアルバイトに来た二十歳の頃、一誠は本気で驚いた。
設計事務所というものは、もっと男ばかりで、机の上に図面と資料が山積みになり、四六時中煙草の煙でも漂っている場所だと勝手に想像していた。
ところが愛田設計には、女優かモデルと言っても通りそうな女性が二人いた。
所長の紗綾は、いつも明るかった。
人当たりが柔らかく、誰に対しても壁を作らない。少々人が良すぎるところがあって、吉田から注意されることもしばしばだった。
彩華は対照的だった。
きっぱりしていて、強い。
美人なのだが、それ以上に存在感がある。
一誠は大学生の頃から、彩華には少し苦手意識を持っていた。
――少なくとも、最初は。
関係が変わったのは、大学四年の夏休みだった。
アルバイト最後の日。
事務所のみんなが、一誠の慰労を兼ねて飲みに出た。
一軒目は居酒屋。
二軒目はバー。
そして三軒目がカラオケだった。
深夜になり、誰がいつ帰ったのか、一誠にはよく分からない。
気がつけば、部屋には彩華と二人だけになっていた。
「みんなは?」
一誠が訊くと、彩華はマイクをテーブルに置いた。
「帰った」
「吉田さんも?」
「帰った」
「所長も?」
「帰った」
「じゃあ、俺たちも――」
そう言いかけたところで、彩華が笑った。
「一誠ってさ」
「はい」
「彼女いるんだっけ?」
その頃、一誠には高校時代から付き合っている恋人がいた。
「いますけど」
「長いの?」
「もう四年くらいです」
「ふうん」
彩華はグラスの中の氷を揺らした。
その後のことを、一誠は今でも時々思い出す。
どうしてそうなったのか。
どちらからだったのか。
細かいところは曖昧だった。
ただ、その晩、一誠と彩華は一線を越えた。
それで終わるはずだった。
ところが終わらなかった。
大学へ戻ってからも連絡を取り合い、ときどき会うようになった。
付き合っているのか、と問われれば、お互いに否定しただろう。
恋人同士というには曖昧で、ただの関係というには長すぎた。
その関係は、一誠が大学院へ進んでからも続いた。
当然、紗綾も吉田も知らない。
事務所の誰にも言わなかった。
だから、一誠が愛田設計への就職を決めたと知ったとき、彩華は激しく反対した。
「なんで、ここなのよ」
二人で会った夜、彩華は露骨に嫌そうな顔をした。
「教授に勧められたから」
「ほかにもあるでしょ、事務所なんて」
「ここが一番知ってるし」
「そういう問題じゃない」
「何が問題なんです?」
彩華はしばらく黙ってから言った。
「毎日顔合わせるんだよ」
一誠は笑った。
「別にいいじゃないですか」
「よくない」
「なんで?」
「面倒だから」
それ以上、彩華は言わなかった。
結局、一誠は入所した。
紗綾と吉田が、ぜひ来てほしいと言ってくれたことも大きかった。
そして入所の日。
一誠が事務所のドアを開けると、彩華は自分の机から顔を上げた。
一瞬だけ目が合った。
しかし、その表情には何もなかった。
「おはようございます、上原君」
まるで初めて一緒に働く人間にでも言うような口調だった。
一誠も頭を下げた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします、倖田さん」
そのやり取りを見ていた紗綾が、笑った。
「そんなに固くならなくていいよ。一誠君、昔からここに来てるんだから」
「そうですよね」
一誠も笑った。
彩華だけが、パソコンの画面に視線を戻した。
二人が何年も前から別の顔を知っていることを、この事務所では誰も知らない。
そして一誠自身も、その秘密がこれから何を引き起こすことになるのか、まだ考えてはいなかった。
登場人物 (2016年4月時点)[第一部]
愛田 紗綾 32歳 急逝した夫・優弥の跡を継いで建築設計事務所の所長となった 明るい性格で、人が良い
上原 一誠 24歳 設計意匠スタッフ 新人 彩華と付き合うが秘密にしている
吉田 忠司 38歳 チーフ 事務所の番頭格として、所長のサポート役に徹している
倖田 彩華 28歳 二番手デザイナー 何事も、物怖じしない
河合 美穂 31歳 有名アトリエ系事務所から中途採用、才色兼備で性格も明るい
東郷 隼人 29歳 元ゼネコンの施管後、入所 一見真面目で固そうだが…
片山 千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い
愛田 優弥 紗綾の亡夫 6年前に逝去 紗綾とは許嫁で結婚 事務所を創設




