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10. ブルークリスマス

十二月二十四日。


クリスマスイブ。


世間では恋人同士がイルミネーションを見に行き、レストランで食事をし、ケーキとシャンパンで夜を過ごす日――らしい。


少なくとも、彩華に言わせればそういう日だった。


ところが午後七時を過ぎても、愛田設計事務所の製図室には照明が煌々と点いていた。


残っているのは二人。


倖田彩華。


そして上原一誠。


片山千鶴は定時で帰った。


東郷隼人も、まだ入所したばかりということもあって六時半には退社した。


吉田も、


「イブくらい早く帰れ」


と言い残して帰った。


紗綾はもっと早かった。


「今日はみんな帰りなさいよ」


そう言って五時過ぎに事務所を出た。


二日前が優弥の命日だったことを、一誠は知っていた。


だからなのか。


紗綾が今夜どこへ行くのか、一誠は何となく聞けなかった。


そんなわけで事務所には、彩華と一誠だけが残っていた。


BGM代わりに流しているJ-WAVEからは、さっきからクリスマスソングばかり聞こえてくる。


彩華がマウスを動かしながら言った。


「ねえ」


「何ですか」


「何でイブなのに帰らないのよ」


一誠は模型から顔を上げなかった。


「そっちこそ」


「私?」


「図書館の実施設計、締め切り三月中旬ですよね」


「そうだけど」


「まだ三ヶ月近くあるじゃないですか」


彩華が一誠を見る。


「実施設計を三ヶ月もあるって言える新人って幸せね」


「じゃあ、帰ればいいじゃないですか」


「帰って何するのよ」


「知りませんよ」


「クリスマスケーキ買って」


「はい」


「シャンパン開けて」


「はい」


「そこら辺のカップルみたいに、メリークリスマースってやる?」


一誠がようやく顔を上げた。


「誰とですか」


彩華の手が止まった。


「……あんたとよ」


「じゃあ帰ります?」


「嫌よ」


「何でですか」


「今さら」


「自分から言ったんでしょう」


「嫌味って分かんない?」


「分かりにくいですよ」


「ほんっと、そういうところよね」


彩華は呆れた顔でモニターへ戻った。


一誠はまた模型へ向き直った。


「僕はこれ、早く完成させたいんです」


「何を」


「アトリエ」


彩華がミーティングテーブルを見る。


そこには既に一つ、白いスタディ模型が置かれている。


「出来てるじゃない」


「あれはA案」


彩華が振り返った。


「A案?」


「はい」


「じゃあ何、B案もあるの?」


一誠は手元のスチレンボードを示した。


「だから今作ってるんじゃないですか」


彩華は椅子を回した。


初めて知ったらしい。


てっきり一誠は一案だけを詰めているのだと思っていた。


「二案作ってるの?」


「そうですよ」


「……」


「何ですか」


「いや」


彩華は少し笑った。


「ずいぶんリキ入ってんじゃん」


「だって」


一誠はカッターを置いた。


「一案しかなかったら、所長に潰されたら終わりでしょう」


「まあね」


「二案あれば、どっちかになる可能性高いじゃないですか」


彩華は一瞬黙った。


――こいつ。


意外と考えている。


前回、あれだけ見事に案を否定された。


あの経験が相当効いているのだろう。


設計者としては正しい。


一案に惚れ込み、それだけを施主へぶつけるより、方向性の異なる複数案を示した方が、施主自身も自分の好みを理解できる。


彩華なら分かっている。


分かっているが。


自分だったらどうしただろう。


たぶん、最初の案に手応えがあれば、それを詰めて持っていった。


二つを同じ密度で作るほどの手間は掛けなかったかもしれない。


「へえ」


それだけ言った。


褒めるのは何となく癪だった。


午後八時。


一誠はようやく手を止めた。


「出来た」


「本当?」


「だいたい」


「見せて」


二人でミーティングテーブルへ移った。


A案とB案。


縮尺は同じ。


敷地模型も共通だった。


南へ緩やかに下る梅林の斜面。


その中に白い二つの建物が並んでいる。


A案は、一誠が第八部から考えていた案だった。


三層の水平なスラブ。


斜面へ突き出すように、それぞれの床が配置されている。


そして中央に、地面から屋根まで貫く一枚の厚い壁。


その壁が建物全体の背骨になっていた。


片側にアトリエ。


反対側に住宅。


仕事と生活。


一枚の壁によって分かれながら、同じ建築の中でつながっている。


対してB案。


基本となる水平のスラブは同じだった。


しかし三層が単純に積み重なってはいない。


一階にアトリエ。


二階の南側へリビング・ダイニング・キッチン。


そして三階の寝室部分が、敷地の北側へ大きく後退している。


そのずれによって。


二階と三階の間に、外部空間ができていた。


「ここ何?」


彩華が指差した。


「中庭です」


「中庭?」


「はい」


一誠は模型の屋根を外した。


「二階のリビングは南側の梅林へ開く。でも北側にも光が欲しいから、ここを外部にします」


「なるほど」


「一部は吹き抜け」


「三階からリビング見える?」


「見えます」


「寝室から?」


「廊下から」


彩華は模型を回した。


正面。


横。


背面。


しゃがんで、アイレベルまで目線を落とす。


また反対側へ回る。


一誠は黙っていた。


「彩華さんだったら、どっちがいいですか」


「私?」


「はい」


「所長じゃなくて?」


「参考です」


彩華はA案を見る。


「そうね……」


指で中央の壁をなぞった。


「A案は、この壁がいい」


「ですよね」


「存在感あるし、建築の考え方が分かりやすい」


「アトリエと住宅部分を分ける役目もあります」


「そうでしょうね」


彩華はB案へ移った。


「こっちは……」


少し考える。


「一階全部アトリエ?」


「ほぼ」


「二階南がLDK」


「はい」


「中庭挟んで、北側から三階へ上がる」


「そうです」


「一番奥が主寝室」


「はい」


彩華はもう一度B案を覗き込んだ。


外部と内部。


低い空間と高い空間。


閉じた部分と、視線が遠くへ抜ける部分。


一枚の強い壁を中心に全てを組み立てたA案とは違う。


B案には、空間が移動していく面白さがあった。


アトリエから住宅へ。


一階から二階へ。


二階から三階へ。


そして最後に。


梅林と空。


一誠があのマンションで見たものが、確かにここに入っている。


――これ。


彩華は思った。


いい。


悔しいけれど。


いい。


「私なら……」


そこまで言って、口を閉じた。


「何ですか」


「別に」


「どっちです?」


「自分で考えなさいよ」


「だから参考に」


「所長に決めてもらえばいいでしょ」


彩華は席へ戻った。


一誠は不思議そうにその後ろ姿を見ていた。


彩華自身にも、なぜ言いたくなかったのか分からなかった。


いや。


本当は分かっていた。


悔しかったのだ。


A案だけでも新人の作品としてはかなり面白い。


それを捨てずに残したまま。


全く違うB案を作ってきた。


――私に、これが出来る?


自分なら。


締め切りもない自社アトリエのスタディに。


クリスマスイブまで残って。


同じ密度の模型を二つ作るだろうか。


二十四歳。


入所一年目。


自分より四歳年下。


経験なら圧倒的に自分が上だ。


図面のまとめ方も。


納まりも。


法規も。


施主との打ち合わせも。


現場対応も。


まだまだ一誠には負けない。


それなのに。


設計の才能という、最も曖昧で。


最も残酷な部分だけは。


経験年数とは関係がない。


彩華は初めて。


年下の後輩に、小さな嫉妬を感じた。


一誠はそんなことには全く気づかない。


「彩華さん」


「何」


「本当にどっち?」


「しつこい!」


怒鳴られた。


「聞いただけじゃないですか」


「うるさい。ケーキでも買ってきなさいよ」


「今から?」


「イブなんだから」


「自分で買ってくださいよ」


「彼氏でしょう!」


言ってから。


二人とも止まった。


事務所が妙に静かになった。


J-WAVEから、古いクリスマスソングが流れている。


一誠が彩華を見る。


彩華はモニターを見たまま。


「……何」


「いや」


「何よ」


「今、自分で言ったなと思って」


「うるさい」


「事務所じゃ他人でしょう」


「だから誰もいないじゃない」


一誠は少し笑った。


「じゃあケーキ買ってきます?」


「もういい」


「何なんですか」


「仕事する」


その夜。


結局、二人が事務所を出たのは十時近かった。


クリスマスケーキも。


シャンパンも。


イルミネーションもなかった。


ブルークリスマス。


一誠には、それで充分だった。


    *


週が明けた月曜日。


出勤してきたスタッフたちは、ミーティングテーブルの上に置かれた二つの模型を見つけた。


最初に食いついたのは東郷だった。


「これ、梅林ですか」


「そう」


一誠が答える。


東郷は鞄を置くより先に模型へ近づいた。


「二案?」


「はい」


「構造どうするんです?」


いきなりそこだった。


一誠が苦笑する。


「まだスタディだから」


「でもこのキャンチ、結構出ますよ」


「分かってます」


「RC?」


「そこも含めてこれから」


東郷はA案を覗いた。


「この壁、効かせるなら構造的には面白いですね」


彩華が笑う。


「さすがゼネコン。最初にそこなんだ」


「気になりますよ」


「普通はデザイン見るでしょ」


「建つかどうか先に見ます」


「夢がないなあ」


そこへ千鶴もやってきた。


「どっちが所長の家?」


「両方ですよ」


「二軒建てるの?」


「違います」


「冗談よ」


やがて吉田も出社した。


コートを脱ぎながら模型を見る。


「おお」


荷物を置き、すぐ戻ってきた。


「二案作ったのか」


「はい」


「頑張ったな」


一誠は少し嬉しくなった。


それから。


A案がいい。


B案がいい。


中央の壁は残すべきだ。


中庭の方が紗綾らしい。


三階は要らないのでは。


いや、住宅とアトリエを離すなら意味がある。


朝から模型の周囲で、喧々諤々の議論が始まった。


一誠は少し後ろに立ち。


何も言わず聞いていた。


自分から説明しない。


先入観を与えずに、皆がどう読むのか知りたかった。


九時少し前。


「おはよう」


紗綾が出勤してきた。


「おはようございます」


皆が返す。


紗綾はすぐに気づいた。


「何、それ」


ミーティングテーブルを見る。


そして。


一誠を見る。


「出来たの?」


「二案あります」


「二つ?」


「はい」


紗綾はバッグも置かず、模型へ歩いてきた。


最初にA案。


屈んで見る。


横へ回る。


屋根を外す。


何も言わない。


次にB案。


こちらも同じように眺める。


二階。


中庭。


吹き抜け。


奥へ退いた三階。


一誠は少し緊張していた。


以前。


自信満々で見せた案を、


――私、半地下の家には住みたくないわ。


たった一言で否定された記憶がある。


紗綾は五分近く、二つの模型を見ていた。


やがて吉田が訊いた。


「所長」


「ん?」


「どうですかね」


紗綾は模型から顔を上げた。


「そうねえ」


そして皆を見た。


「みんなは、どう思うの?」


吉田が笑った。


「まず他人に振ります?」


「聞きたいのよ」


「じゃあ俺から?」


「最後でいい」


「はいはい」


最初に千鶴。


「私はBかな」


「理由は?」


「こっちの方が家っぽい」


「千鶴さんらしい」


「何それ」


東郷はA案。


「構造整理すれば、Aの方が建築として明快だと思います」


彩華は少し迷って。


「私は……B」


一誠が彩華を見た。


イブには答えなかった。


彩華は一誠を見ない。


最後に吉田。


「俺はAだな」


「チーフも?」


「この壁がいい」


中央のRC壁を指す。


「愛田設計のアトリエとしては、こっちの方が象徴性がある」


「なるほどね」


紗綾は頷いた。


全員が言い終わる。


今度は皆が紗綾を見る。


「で、所長は?」


吉田が訊いた。


紗綾は腕を組んだ。


「そうね」


少し考えてから。


「皆の意見は分かったわ」


そして人差し指を立てた。


「でもね」


嫌な予感がして、吉田が笑い始めた。


「何ですか」


「この建物、半分はアトリエでしょう」


「まあ」


「でも半分は私の自邸なの」


「はい」


「だから」


紗綾は指折り数え始めた。


「アトリエ部分については六人全員に一票ずつあるとして」


吉田が首を傾げる。


「はい?」


「自邸部分は私だけに一票」


「……」


「だから私の意見の重みは」


紗綾は考えた。


「二分の一、プラス六分の一」


スタッフ全員が黙る。


「三分の二」


紗綾が言った。


吉田が吹き出した。


「何ですか、その民主主義」


「合理的でしょう」


「独裁ですよ」


「施主です」


「はいはい」


「ということで最終決定権は私」


紗綾は胸を張った。


「異議ある?」


誰も答えない。


答えられるわけがない。


「ないようなので」


紗綾は二つの模型を見た。


「私はB案」


一誠の表情が少し変わった。


「Bですか」


「うん」


千鶴が小さく、


「勝った」


と言った。


東郷が、


「何の勝負ですか」


と返す。


紗綾はA案を指した。


「もちろん、こっちの壁は好きよ」


「はい」


「すごくいいと思う」


一誠が少し救われる。


「だったらAでも――」


「でもね」


紗綾が遮った。


「一誠君」


「はい」


「休日に」


「はい」


「私が家でのんびりしているとするでしょう」


「はい」


「この壁の向こうで」


A案の模型を指す。


「誰か仕事してるのよ」


製図室が静かになった。


「……はい」


「CADカチャカチャやって」


紗綾がキーボードを叩く真似をする。


「プリンター、ウィーンって動いて」


皆が笑い始めた。


「電話掛かってきて」


紗綾は受話器を持つ真似をする。


「はい、愛田設計です、なんてやってるわけ」


吉田が肩を震わせている。


紗綾は真顔だった。


「その壁の反対側で私がソファに寝転がって、本読んでいられると思う?」


「……無理ですか」


「無理」


即答だった。


「気になるもん」


皆が顔を見合わせ。


苦笑した。


確かにそうだった。


どれほど遮音しても。


そこに人がいると知っている。


壁一枚向こうで、自分のスタッフが働いている。


所長という立場なら、なおさら気になるだろう。


紗綾はB案へ手を移した。


「こっちはね」


一階を指す。


「誰か休日出勤してても」


次に二階。


「私はここにいて」


さらに奥の三階。


「嫌になったらここへ逃げられる」


箕輪が笑った。


「逃げるって」


「だって上下にも離れてるし、奥行きもあるでしょう」


「まあね」


「心理的な距離があるのよ」


彩華が頷いた。


それだった。


A案は建築として鮮烈だった。


けれど。


仕事と生活を一枚の壁で分離するということは。


逆に言えば。


二つは常に、その壁一枚を挟んで隣り合っている。


B案は違う。


距離をつくる。


階を変える。


中庭を挟む。


空を挟む。


紗綾が仕事から離れたい時。


本当に離れられる。


紗綾が一誠を見る。


「そういうことで」


「はい」


「B案で進めて」


一誠は頷いた。


「分かりました」


「ただし」


「はい?」


「A案の壁」


紗綾が言った。


「全部捨てるのは勿体ない」


一誠は少し驚いた。


「Bに使えますかね」


「それ考えるのが設計者でしょう」


笑った。


「宿題」


「はい」


一誠も笑った。


その日の夕方。


一誠は二つの模型を自分の席へ持ち帰った。


A案。


B案。


片方が勝ち。


片方が負け。


そういうことではない気がした。


A案を作ったから。


B案が生まれた。


そしてB案を作ったから。


紗綾が本当に求めているものが、また一つ分かった。


――仕事と暮らしを一緒にしたい。


けれど。


――仕事に暮らしを支配されたくない。


一誠はその言葉を、ノートに書いた。


六年前。


優弥は仕事に人生を奪われた。


その事務所を継いだ紗綾が。


仕事場と自宅を一緒にしようとしている。


なら。


これは単なる職住一体の建物では駄目なのだ。


仕事を近くに置きながら。


必要な時には、きちんと遠ざける。


その距離を建築で作らなければならない。


一誠はB案の模型を見た。


今年の仕事も。


これで終わりだった。


紗綾が製図室から声を掛けた。


「みんな」


顔を上げる。


「今年はこれで終わり」


「お疲れさまでした」


吉田が答えた。


「来年もよろしくね」


「所長も」


「一誠君」


「はい」


紗綾はB案の模型を見る。


「来年、楽しみにしてる」


「はい」


少し前までなら。


その笑顔を向けられるだけで、一誠は心の中で慌ててブレーキを踏んだ。


けれど。


今は少し違った。


これは施主と設計者だ。


そう思えるようになった。


――たぶん。


隣では彩華が、一誠の横顔を見ていた。


イブの夜。


二つの模型を前にして感じた、あの小さな嫉妬。


それはまだ消えていなかった。


けれど。


悪い感情だけでもなかった。


負けたくない。


そう思える相手が。


すぐ隣にいる。


そして紗綾は。


誰もいなくなった事務所で、一人だけ少し遅くまで残った。


B案の模型をもう一度眺める。


一階のアトリエ。


二階のリビング。


中庭。


三階の寝室。


仕事から一番遠い場所。


指先で、その小さな部屋に触れた。


二日前。


墓前で優弥に言った言葉を思い出した。


――私、新しい家に住んでもいいよね。


答えは。


まだ聞こえない。


けれど。


紗綾は模型を見ながら、小さく笑った。


「これなら……いいかな」


窓の外では。


つくばの街に、冬の夜が降りていた。



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