2. 三人の女所長
愛田設計に、河合美穂という新しい女性建築家が加わった。大胆な発想と行動力を持つ美穂は、幼稚園や交流施設などの設計で才能を発揮し、彩華、一誠とともに事務所の次代を担う存在になっていく。一方、紗綾は若い三人に仕事を任せながら、亡き夫・優弥の残した事務所を守る「所長」としてだけではなく、一人の女性として自分の人生を見つめ始める。
会津若松の上原酒造では、古い酒蔵や煉瓦倉庫を生かしたショールームの設計に挑戦する。歴史ある建築を残すのか、新しい建築を加えるのか。紗綾、彩華、一誠は意見をぶつけながら、それぞれの建築家としての個性を深めていく。70街区の大規模な計画も進み、愛田設計は少しずつ大きな組織へと変わっていく。
その一方で、彩華と一誠の距離も急速に近づいていた。仕事では互いに譲らない二人だが、いつしか恋人となり、やがて結婚を意識するようになる。一誠が彩華に贈るエンゲージリングには、二人だけが知る思いが込められる。
しかし、仕事と恋愛は簡単には両立しない。弘前や会津への出張、設計競争、現場でのトラブル、そして一誠の電気自動車が高速道路で電欠するという騒動まで、愛田設計には次々と事件が起こる。
(2,900文字、約6分)
ー 紗綾 ー
「シン・愛田設計」
そんな呼び方をされているらしい。
最初に聞いたときは、思わず笑ってしまった。
「何それ……」
片山さんにそう言うと、
「業界では、結構そう呼ばれているみたいですよ」
と、真面目な顔で答えた。
どうやら、昔の愛田設計を知っている人たちが、吉田さんが亡くなった後の新しい体制を、そんなふうに呼び始めたらしい。
吉田さんが事故で亡くなって、事務所の番頭役がいなくなった。
その穴を、私と彩華と美穂の三人で埋める。
確かに、以前とは全く違う事務所になった。
特に業界の人からすると、
「三人の女性が設計事務所を仕切っている」
というのが珍しいらしい。
いつの間にか、
「三人の女所長」
などと呼ぶ人までいる。
所長は私一人なのに。
まあ、そんなことはどうでもいい。
大事なのは、吉田さんがいなくなった後も、事務所を止めないことだった。
*
三人で役割分担について話し合った。
私は経営と総合的な判断。
彩華はデザイン、実施設計、現場。
美穂は企画、プレゼン、対外折衝。
最初はそんなふうに決めた。
ただ、厳密な分業ではない。
彩華が企画をやることもあるし、美穂がデザインをすることもある。
私だって、必要なら図面を描く。
だから「大枠」と言った方がいい。
面白いのは、その三人が意外なほど上手く噛み合ったことだった。
彩華は、設計の細部に強い。
現場で何が起きるかも分かっている。
美穂は、施主が何を求めているのかを掴むのが上手い。
プレゼンも巧い。
私は、二人の間に入って、全体を見る。
三人とも性格はかなり違う。
なのに、仕事になると妙にまとまる。
不思議なものだ。
現在動いている大きな案件は二つ。
群馬県高崎市の郊外型大型DIY店舗。
そして、日立市のショッピングセンター。
スーパーを核に、テナントを組み合わせた複合施設だ。
どちらも企画段階からかなりの仕事量になる。
高崎の案件は、美穂が中心になって進めていた。
ある日の午後、私は美穂に聞いた。
「美穂さん、高崎はどうなっている?」
「はい」
美穂はすぐに資料を開いた。
「来週には企画書がまとまります。出来上がったら、本社へプレゼンに行きたいと思います」
「基本計画は?」
「その翌週ですね。スタディ模型も、そのタイミングで持っていけると思います」
「順調ね」
「一誠さんと岡田さんに、資料の作成をお願いしています。スケジュールは少し前倒しにしてあります」
私は頷いた。
美穂が指示を出すと、一誠も奈緒も手際よく動く。
「じゃあ、その時は彩華さんにも入ってもらいましょう」
「はい。そのつもりでした」
美穂はさらりと答えた。
こういうところも、三人の噛み合うところなのかもしれない。
誰かが全部を決めるのではなく、自然に次の人へ仕事を渡していく。
以前の愛田設計では、吉田さんがそういう役割をかなり担っていた。
今は、それを三人でやっている。
*
現場の方は、古河の幼稚園が動いている。
美穂が設計した、あの少し変わった二重のドーナツ型の園舎だ。
現場監理は東郷が担当している。
若干、工期は遅れ気味だった。
ただ、来年の開園には間に合いそうだ。
東郷は真面目だから、こういう仕事は安心して任せられる。
ただ――。
私は時々、彼のことが気になっていた。
仕事はきちんとする。
報告もする。
なのに、どこか距離がある。
私の勘なのかもしれない。
でも、そういうものは、所長をやっていると意外と分かるものだ。
*
ある日、彩華が私のところへ来た。
「所長、ちょっといいですか?」
「何?」
「上原酒造から連絡がありました」
「会津の?」
「はい。今度、山形にワイナリーを作りたいので、相談に来てほしいって」
「山形?」
思わず顔を上げた。
「随分、大きな話になってきたわね」
「そうなんですよ」
彩華は笑った。
「十一月下旬なら、私も行けそうです」
「じゃあ、連絡してみて」
「分かりました」
少し考えてから、
「一誠も連れて行く?」
と聞いた。
彩華は一瞬だけ考えた。
「それじゃ、彼に言っておきます」
「お願い」
二人は最近、こういう仕事の相談をよくしている。
上原酒造の仕事で一緒になって以来、すっかり息が合っている。
それが女同士だからなのか。
それとも、二人の気心が合っているからなのか。
その答えは、もう少し後になって分かることになる。
*
その頃、私には一つ、延び延びになっている問題があった。
梅林のアトリエ。
正確には、私の自宅と事務所の移転だった。
建物はもう完成している。
家具や設備もほとんど揃っている。
なのに、まだ引っ越していない。
吉田チーフの事もあり、延び延びになっていた。
でも、これ以上延ばすわけにもいかない。
ある日の夕方、三人で相談した。
「ねえ、梅林の件なんだけど」
「はい」
彩華と美穂がこちらを見る。
「順番としては、私が先に自宅へ引っ越したいの」
「それがいいと思います」
美穂が答えた。
「まず所長が引っ越して、少し落ち着いてから事務所の移転ですね」
「そう。十一月上旬の土日で自宅。事務所は下旬の平日でどうかしら」
「私は大丈夫です」
美穂はすぐに答えた。
「ただ、自宅の引っ越しは業者に頼みましょう」
「そうね」
「所長の自宅ですから、スタッフには遠慮してもらった方がいいと思います。事務所の移転は、業者とスタッフでやればいいでしょう」
「うん。それでお願い」
彩華も頷いた。
「一誠はどうします?」
彩華が何気なく聞いた。
私は少し考えた。
「……いや、彼だけというのも、あれだから」
「じゃあ?」
「いいわ。言わなくて」
「そうですか」
彩華は少し意外そうな顔をした。
どうやら、一誠には手伝ってもらいたいと思っていたらしい。
でも、それは止めておいた。
私の自宅の引っ越しを、若い男性スタッフ一人に手伝わせるのは、何となく気が引けた。
それに――。
一誠を呼んだら、彩華がどう思うか。
そんなことまで考えてしまった。
*
その夜。
一誠からではなく、私からLINEを送った。
<自宅の引っ越しの手伝いは、いいわ>
しばらくして返信が来た。
<そうですか。男手がいた方がいいんじゃ……>
<業者に任せるわ>
<そうですか>
少し間を置いて、私は続けた。
<一誠君だけ手伝ったら、変でしょ>
<まあ、そうですね>
その返事を見て、私は少し笑った。
<落ち着いたら、あなた達を一度呼ぶわ>
すぐに返信が来た。
<彩華とですか>
私は一瞬、画面を見つめた。
<うん>
そして、
<美穂さんも三人でね>
と送った。
少しして、
<分かりました>
と返ってきた。
LINEを閉じた。
そして、ふと思った。
――東郷は呼ばないんだ。
自分でそう決めたはずなのに、なぜかそのことが少し気になった。
私はスマートフォンをテーブルに置いた。
梅林の家。
優弥と私が過ごした家ではない。
私がこれから一人で暮らしていくための家。
そして、その一角には新しい愛田設計の事務所が入る。
夫から受け継いだ事務所も、少しずつ形を変えている。
人も変わった。
仕事のやり方も変わった。
そして――。
私自身も変わっているのかもしれない。
ふと窓の外を見ると、夜の街に灯りが点々と浮かんでいた。
私はその明かりを眺めながら、これから始まる新しい生活を思った。
「三人の女所長」か……。
思わず一人で笑った。
所長は一人なんだけどね。
でも――。
今の私には、その呼び方も、案外悪くないように思えた。




