3 一誠の弟子
ー 紗綾と一誠 ー
梅林の家で、初めての夜を過ごした。
朝、目を覚ますと、まだ外は薄暗かった。
十一月上旬の朝は、冬の前触れのような冷え込みがある。ベッドから起き上がり、ガウンを羽織ってバルコニーへ出ると、麓の集落や畑が白く霞んで見えた。
霜が降りているらしい。
空気が冷たい。
でも、妙に気持ちがいい。
思い切り深呼吸すると、肺の奥まで冷たい空気が入ってきた。
「ああ……ここで暮らすんだ」
そう思った。
向こうの丘の麓には、亡くなったご主人――優弥さんの実家がある。
所長も、昔はあの辺りからこの朝の景色を見ていたのだろうか。
そんなことを考えながら、しばらく山並みを眺めていた。
今は、この家に所長一人しかいない。
でも、三週間もすれば階下のアトリエに事務所が移ってくる。
僕も毎朝ここへ来る。
彩華さんも、美穂さんも、岡田も、東郷さんも。
そして、この家の主である所長は、そのすぐ上で暮らしている。
職住近接。
設計事務所としては、かなり面白い環境だと思う。
でも、所長はどういう気持ちなんだろう。
自分の家の中に、毎朝スタッフがぞろぞろ入ってくる。
仕事が終われば、そのまま二階へ上がれば自宅。
便利なのか、落ち着かないのか。
僕にはまだ分からない。
僕自身も、ここで働くことになる。
それがどんな毎日になるのかも、まだ想像できなかった。
*
玄関脇の内階段を下りて、アトリエへ入った。
まだ机も椅子もない。
がらんとした大空間に、二本のRC壁だけが立っている。
打ち放しコンクリート独特の匂いが、まだ残っていた。
窓から入る朝の光が、床の上を長く伸びている。
完成した建物なのに、まだ「これから何かが始まる場所」という感じがした。
その空間のインテリアデザインを担当しているのが、今年入った岡田奈緒だった。
彼女は一生懸命やっている。
ただ――。
苦戦していた。
毎日のように僕からダメ出しを食らっている。
「岡田さん、ここは動線がぶつかってる」
「はい……」
「所長室から来客が入ったら、スタッフの動線と重なるよね」
「……はい」
「それから、打ち合わせスペースをここに置いたら、電話の声が全部聞こえる」
「……はい」
返事はする。
理解もしている。
でも、次の案になると、またどこかが崩れる。
三回目の案を見たときなど、思わずため息が出そうになった。
「快適に働ける執務空間を考えるんだよ」
そう言いながら、僕自身、三年前に同じようなことを言われていたのを思い出した。
吉田チーフだった。
「図面を描くことだけが設計じゃないぞ。一誠。人がどう動くか、どう感じるかまで考えろ」
当時は、
「そんなことまで考えないといけないのか」
と思っていた。
今なら分かる。
吉田さんは正しかった。
あの人がいなくなってから、もう一年近くになる。
時間が経つのは早い。
「サブチーフ、あの新しいの、見てもらえますか」
岡田の声で我に返った。
「いいよ。どれどれ」
彼女からプレゼンボードを受け取った。
しばらく黙って見る。
「あれ……」
前の三案とは、明らかに違っていた。
ゾーニングが整理されている。
スタッフの動線と来客動線も分かれている。
打ち合わせスペースの位置も悪くない。
収納やコピー機の位置まで、きちんと考えられている。
何より、アトリエ全体がどう使われるのかが見える。
僕は思わず笑った。
「いいね」
「……本当ですか?」
「うん。これならいいと思う」
岡田の顔が、ぱっと明るくなった。
「所長に見せに行こうか」
「はい!」
声まで明るくなった。
三年前の自分も、こんな顔をしていたのだろうか。
*
二人で所長室へ入ると、紗綾さんは僕たちを見るなり、
「どうしたの?」
と、いつもの柔らかい顔で迎えてくれた。
「所長、岡田がアトリエのインテリアプランを作ったので、見てもらえますか」
「そう。見せて」
岡田がボードをテーブルに置く。
所長は、椅子から立ち上がると、すぐに図面へ顔を近づけた。
しばらく黙っている。
「チーフたちのデスクは、これ?」
RC壁の近くを指差した。
「はい」
岡田が答える。
「二本のRC壁沿いに、それぞれ二つずつ配置する案です」
「ほかにもあるの?」
「はい。前回の案では、南側のカーテンウォール沿いに四つ並べています」
「それも見せて」
岡田がもう一枚のボードを出した。
所長は二つを並べて見比べる。
そして、
「一誠は、どっちがいいと思う?」
いきなり僕に振ってきた。
「僕ですか?」
「そう」
「……僕はB案ですね」
「どうして?」
「南側の窓際を全部デスクにするより、RC壁沿いにまとめた方が、中央の空間が自由になります。それに、外から見たときにも、仕事場が窓際に張り付いている感じにならないので」
所長は頷いた。
「そう」
そして岡田を見る。
「他の人たちは?」
「まだ、所長に見せてからと思って……」
「じゃあ、二人を呼んできて」
「はい」
岡田が部屋を出ていく。
ほどなくして、彩華さんと美穂さんが入ってきた。
二人はボードを見比べた。
「私はA案かな」
彩華さんが言った。
「窓際の方が気持ちよく仕事できそう」
「私もAですね」
美穂さんも続いた。
「せっかく南側が全面ガラスなんですから、そこを活かした方がいいと思います」
「そうなんだ」
所長は僕を見る。
「一誠はBなのね」
「はい」
「私はBかな」
所長がぽつりと言った。
「じゃあ、二対二か……」
所長が腕を組んだ。
「困ったわね」
すると、美穂さんが笑った。
「Bでいいんじゃないですか?」
「え?」
「所長と一誠さんがBなら、それでいいと思います。Aも悪くないけど、事務所として考えたらBの方が使いやすそうです」
彩華さんもボードを見直した。
「……そうね」
少し考えてから、
「それならBで行きましょうよ」
と言った。
「決まりね」
所長が笑った。
これが、愛田設計の意思決定だった。
誰かが強引に押し切るわけでもない。
多数決でもない。
最後は所長が判断する。
でも、その判断にはスタッフの意見がちゃんと入っている。
吉田さんがいなくなってから、このやり方も少しずつ変わってきた。
*
所長室から戻ると、岡田が二枚のボードを並べて眺めていた。
彩華さんと美穂さんも、その横に立つ。
「二つともいい案じゃない」
美穂さんが言った。
「岡田さん、よく頑張ったじゃない」
「ありがとうございます」
「私ならAでOK出すけどね」
「私もAかな」
彩華さんが笑った。
「でも、一誠が鍛えてるからね」
「そうそう」
美穂さんが僕を見る。
「岡田さん、よくあのしごきに耐えたわね」
「しごきって……」
「そうなお、ホホホ」
二人が顔を見合わせて笑った。
僕は後ろで、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……聞こえてますよ」
「聞こえるように言ってるのよ」
彩華さんが振り返る。
「サブチーフさん」
「誰がサブチーフさんですか」
「だって、岡田さんの師匠でしょ?」
「師匠って……」
そのとき、岡田が僕の顔を見て、申し訳なさそうに笑った。
「でも、一誠さんに教えてもらって、かなり勉強になりました」
「そう?」
「はい」
その一言で、なんとなく救われた気がした。
僕はまだ二十六歳だ。
所長から「後継者」と言われたことはある。
でも、自分ではそんな実感なんて全くない。
三年前まで、僕だって吉田さんに怒られてばかりだった。
それが今は、後輩を教えている。
岡田の図面を見ていると、少し前の自分を見ているような気がする。
だから、厳しくしてしまう。
「じゃあ岡田さん」
「はい」
「次は、このB案をもう一段良くしてみようか」
「えっ……まだですか?」
「もちろん」
「……はい」
一瞬、岡田の顔が曇った。
でも、
「お願いします」
と、小さく笑った。
その顔を見て、僕も笑った。
たぶん――。
これが「教える」ということなんだろう。
自分が吉田さんから受け取ったものを、今度は自分が誰かに渡していく。
そうやって、設計事務所というものは続いていくのかもしれない。
ふと、完成したばかりのアトリエを見渡した。
まだ何もない。
机もない。
椅子もない。
人もいない。
それでも、もうここには、少しだけ愛田設計の新しい時間が始まっているような気がした。




