第二部 1. 新しい体制―トロイカ体制
(3,300文字、約7分)
登場人物 (2018/4月時点)
愛田紗綾 34歳 夫の跡を継いで所長となった明るい性格で、人が良い
上原一誠 26歳 設計スタッフ 密かに彩華と付き合うが秘密にしている
倖田彩華 30歳 二番手デザイナー何事も、物怖じしない
河合美穂 32歳 才色兼備で性格も明るい
岡田奈緒 22歳 新卒(2018入所)好奇心旺盛、優秀だが、天然要素も
東郷隼人 31歳 元ゼネコンの施管後、入所 一見真面目で固そうだが…
片山千鶴 37歳 事務担当 しっかり者で抜けが無い
ー 紗綾 ー
兄の本多市之丞の役員室に来るのは、久しぶりだった。
Jホンタの本社ビルは、昔は軍都として発展した元城下町にある。
そばには桜の名所の川も流れている。
この建物も亡夫優弥が設計したが、大企業の本社ビルとは思えぬローコスト仕様だ。
しかも外壁は工場によく使われるスレート製で、しかも色は漆黒である。
素人が見てもローコスト仕様なのは、分かるがそれがこの企業のポリシーだと言わんばかりである。
それにしてもここは、いつ来ても少し緊張する。
愛田設計の事務所とは、規模も雰囲気もまるで違う。
こちらは何百人という社員が働く会社の総本山だが、私はその中の一室を訪れようとしている。
もっとも、私にとっては「役員室」などという大袈裟な場所でも、そこにいるのは実の兄なのだけれど。
「よく来たな」
兄はデスクから顔を上げた。
「お前も苦労するな」
「……お兄さん、実は今日は、そのことで来たの」
「何だ?」
私はソファに座り、持ってきた社員履歴の一覧表をテーブルの上に広げた。
「新しい体制について、アドバイスを頂きたくて」
兄は一覧表を手に取った。
一人ずつ名前を追っていく。
そして、あるところで指が止まった。
「上原一誠」
「はい」
「お前が後継者にしたいと言っていたのは、この上原か?」
「そう」
私は頷いた。
「まだ入社三年目だけど……」
「三年か」
「ええ。だから、まだ早いと思うの」
兄はしばらく黙っていた。
一誠を採用した時のことを思い出しているのか、それとも経歴を読んでいるのか分からない。
「それで?」
「実は二案あるの」
私は説明した。
「一つ目は、彩華と東郷を役員にする案」
「うん」
「もう一つは、彩華と美穂」
兄は顔を上げた。
「つまり、倖田は決まりで、もう一人を東郷か河合か、ということか」
「そう」
「で、お前の本心は?」
私は少し迷った。
けれど、兄には隠す必要はない。
「私は、美穂がいいと思っている」
「河合か」
「ええ。優秀だし、仕事も早い。性格も明るい。それに、あの子は人を惹きつけるものがある」
「東郷は?」
「真面目で堅実。仕事もきちんとしている」
「なら、問題ないじゃないか」
「……でも」
私は言葉を選んだ。
「外部の受けが、今ひとつなの」
兄が黙った。
「どういう意味だ?」
「なんとなくなのだけど……」
私は苦笑した。
「東郷には、少し裏があるような気がする」
「裏?」
「具体的に何かあるわけじゃない。でも、二年間一緒に仕事をしていると、何となく分かるのよ」
「お前の勘か」
「そう」
兄は笑った。
「相変わらずだな、お前は」
「建築事務所の人間関係って、意外とそういうものなのよ」
「まあな」
兄は一覧表をテーブルに置いた。
「結局、お前の事務所だ。お前が決めればいい」
「……そうね」
「ただし」
兄が私を見る。
「役員にするということは、それなりの責任を持たせるということだ。肩書きを与えるだけじゃ意味がないぞ」
「分かってる」
「なら、やってみろ」
私は頷いた。
「分かったわ。今回は美穂に掛けてみる」
兄はそれ以上何も言わなかった。
その判断が正しかったと分かるのは、もう少し先のことになる。
この時の私たちは、まだ知らなかった。
*
愛田設計が、Jホンタのグループ会社になっていることを知っているのは、片山さんだけだった。
いや、正確には兄と私、それから片山さん。
他のスタッフは誰も知らない。
夫の優弥が亡くなった時、私は三十二歳だった。
突然、所長になった。
事務所を畳むという選択肢もあった。
けれど、優弥が残したものを、簡単に消してしまうことはできなかった。
その時、兄が動いてくれた。
愛田設計の株式を買い取り、Jホンタのグループ会社として残す。
そして、Jホンタの新しいホームセンターなどの設計業務を、愛田設計が優先的に受けられるようにした。
それがあったから、私はここまで事務所を続けてこられた。
兄には感謝している。
でも、それを他のスタッフには話していない。
私自身、それを「兄の庇護で経営している事務所」にしたくなかったからだ。
自分たちの力で仕事を取り、自分たちの力で設計している。
そう思っていたかった。
だから、今日も役員室を出る時には、いつものように一人の設計事務所の所長として歩いた。
*
その週末。
私は彩華と美穂を所長室に呼んだ。
「二人とも、そこに掛けて」
ソファを勧める。
二人とも、少し緊張した顔をして座った。
所長の私がソファを勧める時は、何かあると言われている。この事務所の慣例だ。
彩華が私を見る。
「……何でしょうか?」
「うん」
私は二人を見た。
「話って他でもないの」
一呼吸置いた。
「吉田さんが抜けた穴を、あなたたち二人にカバーしてほしいの」
二人とも、一瞬黙った。
「もちろん、私と三人で、という意味よ」
「……三人で?」
美穂が聞き返した。
「そう」
彩華は何かを考えるように下を向いた。
私は続けた。
「吉田さん一人分の仕事を、誰か一人に押しつけることはできない。私にも無理だし、あなたたちにも無理」
それは、二人とも分かっているようだった。
実は、この話については、すでに四人で話し合っていたらしい。
彩華、一誠、東郷、美穂。
誰が吉田さんの後を継ぐのか。
一人では無理だ。
だったら、二人でやる。
あるいは三人でやる。
それしかない。
所長が誰を選んでも、その判断に従おう。
四人で、そう決めていたという。
彩華が私に話してくれた。
「私たち、もう決めたんです」
「何を?」
「これからの愛田設計を、誰か一人に背負わせるんじゃなくて、皆で支えるって」
私は黙って聞いていた。
「だから、所長が私たちを選んだなら、それが私たちの選んだ道です」
彩華は少し笑った。
「私たちの、生きる道でもあるし」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
私は俯いた。
目頭を指で押さえた。
「……ありがとう」
しばらく声が出なかった。
ようやく顔を上げて、
「吉田さんも、それを聞いたら喜んでくれていると思う」
そう言った。
彩華も美穂も、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
*
その日の午後、スタッフ全員をミーティングルームに集めた。
一誠も、東郷も、奈緒も、新人たちもいる。
私は皆の前に立った。
「今日は、新しい体制について話があります」
室内が静かになる。
「吉田さんが亡くなってから、皆さんには本当に大変な思いをさせました」
誰も口を開かない。
「これからも、吉田さんが担当していた仕事を含めて、事務所全体で支えていかなければなりません」
私は彩華と美穂を見た。
「そこで、今後は私と倖田彩華さん、河合美穂さんの三人を中心に、事務所を運営していきます」
一瞬、静寂があった。
そして――。
誰からともなく、
「分かりました」
という声が上がった。
東郷が頷いている。
一誠も黙ってこちらを見ていた。
反対する者はいなかった。
むしろ、少しホッとしたような空気が広がっている。
私は、それを感じていた。
最悪の場合、外部から新しいチーフを招聘することも考えていた。
そうなれば、今まで築いてきた事務所の空気も、人間関係も、大きく変わってしまう。
それを避けられたことに、皆も安堵しているのだろう。
私はもう一度、二人を見た。
彩華。
美穂。
そして自分。
昨年の忘年会では、「酒乱三人組」などと陰で言われていた私たちだった。
それが今、この事務所を率いていくことになる。
何という巡り合わせだろう。
思わず笑いそうになった。
でも、笑っている場合ではない。
これからは、私一人の事務所ではない。
優弥から受け継いだ愛田設計を、三人で守っていく。
そして、いつか私がいなくなった後も、この事務所が残るようにしなければならない。
その時、ふと一誠の顔が目に入った。
まだ若い。
まだ三年目だ。
けれど、いつかこの中から、次の愛田設計を背負う人間が出てくる。
私はそう思った。
トロイカ体制。
三頭立ての馬車のように、三人で同じ方向へ進む。
一人が疲れたら、残りの二人が支える。
誰かが迷ったら、別の誰かが手綱を取る。
それでいい。
いや――。
それでなければ、もう続かない。
私は、目の前にいるスタッフたちを見渡した。
「これからも、よろしくお願いします」
頭を下げた。
その瞬間、拍手が起こった。
小さな事務所の、小さな拍手だった。
けれど私は、その音を聞きながら思った。
――優弥。
あなたが残した事務所は、まだここにある。
そして今日から、少し形を変えて、また歩き始める。
私は、胸の奥でそう呟いた。
愛田設計に、河合美穂という新しい女性建築家が加わった。大胆な発想と行動力を持つ美穂は、幼稚園や交流施設などの設計で才能を発揮し、彩華、一誠とともに事務所の次代を担う存在になっていく。一方、紗綾は若い三人に仕事を任せながら、亡き夫・優弥の残した事務所を守る「所長」としてだけではなく、一人の女性として自分の人生を見つめ始める。
会津若松の上原酒造では、古い酒蔵や煉瓦倉庫を生かしたショールームの設計に挑戦する。歴史ある建築を残すのか、新しい建築を加えるのか。紗綾、彩華、一誠は意見をぶつけながら、それぞれの建築家としての個性を深めていく。70街区の大規模な計画も進み、愛田設計は少しずつ大きな組織へと変わっていく。
その一方で、彩華と一誠の距離も急速に近づいていた。仕事では互いに譲らない二人だが、いつしか恋人となり、やがて結婚を意識するようになる。一誠が彩華に贈るエンゲージリングには、二人だけが知る思いが込められる。
しかし、仕事と恋愛は簡単には両立しない。弘前や会津への出張、設計競争、現場でのトラブル、そして一誠の電気自動車が高速道路で電欠するという騒動まで、愛田設計には次々と事件が起こる。




